「ナルシシズム導入に向けて」の可能性と難点 その2 [メモ]
メモ。
第二は、量という問題設定についてだ。この論文でも、リビードという量は、諸概念を考案するさいの重要な媒介となっている。例えば、先にも述べたように、自我リビードと対象リビードという概念を構築するときも、一方が増えれば他方が減るといったように二つの概念を結びつけている。またここでも量が増えるほど不快を感じ、量が減ると快を感じるという原則は貫かれている。したがってリビードが自我に蓄積した状態のナルシシズムとは、その用語が持つニュアンスとは一見矛盾するが、不快だ。心気症や強いエゴイズムは不快だ。ナルシシズムが不快で、病理だということは忘れてはならない点だ。またフロイトはここからいとも簡単に、その不快から逃れるためには、対象にリビードを向けなくてはならないと言う。人は病に陥らないためには愛することを始めなくてはならないのだが、どうすればそれが可能なのか、このテクストからは全く想像がつかない。
(十川幸司「フロイト論」 岩波『思想』2012年8月号 P17)
「ナルシシズムの導入に向けて」の可能性と難点 その1 [メモ]
メモ。
第一は、この論文における疾病分類への関心についてだ。フロイトは、この論文でパラフレニーを問題にしているように見える。そこには精神病の理解をユングとの対立、および前年に書いていたシュレーバー論の影響があるだろう。しかし、フロイトはナルシシズムをパラフレニー固有の心的機制と考えたわけではない。彼はナルシシズムを睡眠から歯痛のときの状態、フロイトがパラフレニー類似の疾患と考えられた心気症、神経症一般、ナルシス的対象選択などに広く見られるメカニズムとして捉えている。したがって、疾病分類という観点からすれば、ナルシシズムは疾病横断的な病態で、この概念は疾病分類の枠組みとしては機能していない。その一方で、この概念は後にナルシス神経症というカテゴリーのもとで、パラフレニーやメランコリーと再び結びつけられることになる。このようにフロイトはナルシシズムという、そもそも倒錯に由来する病理現象の一概念を、最初は正常現象の領域まで拡大し、後に、精神病のメカニズムとして捉え直すという複雑な操作を行っている。フロイト以降の分析家がナルシシズム概念を混乱した形で引き受けざるをえなかったのも、フロイトの概念構築がその一因となっている。
(十川幸司「フロイト論」 岩波『思想』2012年8月号 P17)
フロイトのナルシシズム [メモ]
メモ、「ナルシシズムの導入にむけて」(1914)について。
まず、フロイトはナルシシズムという用語が、自分の身体に欲動を向ける倒錯の一つの臨床形態に由来していて、ナルシシズムの研究と倒錯の研究が同じ土俵にあるということに言及する(「われわれがあらゆる倒錯の研究にとりかかるにあたってえられると予測される諸々の事柄は、ナルシシズムにおいても見いだされるはずだ」)。そして彼は、この用語の適応範囲を拡張し、広く人間の精神活動にも見られるものではないかと想定する。そのさい、フロイトはとりわけパラフレニー患者(現在の疾病分類では統合失調症患者)において、現実との関係が失われるという事態に注目する。この事態を考えるために、フロイトは、リビードには自我に向かうリビード(自我リビード)と対象に向かうリビード(対象リビード)があると仮定する。両者は一方が増えれば、他方は減るという均衡関係にある。そしてパラフレニー患者においては、対象に向けられたリビードが自我へと撤収され、誇大妄想と現実の喪失が起こると想定している(このような発想にすでに対象関係論的な萌芽があることに着目しておきたい)。そのさいに問題となるのは、この二次的ナルシシズムを形成する、対象から自我へと撤収されたリビードが、どのような性質を持つのかということだ。それまでのフロイトの理論では、自我欲動(自己保存欲動)と性欲動は峻別されるものだったが、性的な量としてのリビードが自我に撤収されるという考えを取ることにより、自我欲動と性欲動の二元論に亀裂が生じる。そうして、この論考の六年後には、自我欲動と性欲動はエロース(生の欲動)としてまとめられ、死の欲動と対立する新たな二元論が提唱される。また、この論文の最後の部分では、対象選択の問題から自我理想の問題まで、論点は拡大されるが、これらの諸概念は後に、第二局所論として新たな理論的布陣を持つことになる。
(十川幸司「フロイト論」 岩波『思想』2012年8月号 P16)
自己愛とナルシシズムの微妙な関係 [メモ]
メモ。
本題に入る前に、一般に私たちが現在、臨床で「自己愛的」と呼んでいる患者には、どのような特徴があるか振り返っておこう。そのような患者は、自己評価が高く、独特の傷つきやすさがあり、また一見傲慢にも見えるが、どこか自信はなく、引きこもりがちだ。そして治療関係においては、だいたいエディプス的な転移を起こし、治療者側は、患者に対する憤りや軽蔑といった逆転移を抱きがちだ。病態としては神経症かパーソナリティ障碍レベルにある--そういった患者だろう。だが、現在、私たちが「自己愛的」と呼んでいる病理と、フロイトが構築した「ナルシシズム」という概念には、本質的に関係がない。ナルシシズムという概念は精神分析の諸概念の中でも、とりわけ不正確な形で用いられたきたものの一つだ。このあたりの事情を、アンドレ・グリーンは、ナルシシズム概念は、アメリカでは誤って理解されたうえ過度に普及し、イギリスではただハーバート・ローゼンフェルトだけが着目し、フランスではそれを引き継ぐ分析家がいなかったと巧みに述べている。日本でも事情は同様で、そもそもナルシシズムを「自己愛」と翻訳したことが、誤解の原因の一つともなっている。ナルシシズムは自我と欲動の病理で、自己や愛とは直接の関係はないといっていい。
(十川幸司「フロイト論」 岩波『思想』2012年8月号 P15)
文化への不満 その2 [メモ]
メモ。
ふつうわれわれは「すべての人間の欲動刺激や欲求や性質には男性的なものと女性的なものが混在している」と言っているけれども、男性と女性をはっきりと区別できるのは、解剖学で、心理学ではない。心理学の分野では、男女の性別は曖昧で、せいぜいのところ能動性と受動性の区別ぐらいになってしまう。そして、無邪気にもわれわれは、能動性を男性的性格、受動性を女性的性格とをそれぞれ同列に置くが、これは人間以外の動物の場合、けっして例外なしにあてはまるものではない。両性的素質についてはいまなお不明のことが多く、これと欲動との関係がまだ明らかにされていないのは、精神分析にとっても大きな障害と言わざるをえない。それはともかくとして、すべての人間はその性生活において男性的願望と女性的願望とを、二つながら満足させようとするのが事実だと仮定すれば、これら二種類の要求は同一の相手によって満足させられることはないし、また、両方を分離してそれぞれを特別の方法で満足させることに失敗すれば、両方がたがいに妨害しあうという事態も予想される。いま一つ別の困難は、性愛関係にはそれに特有のサディズムの要素のほか、直接的な攻撃欲も相当量まじっていることが非常に多いところから生まれてくる。一週間もぶってくれないから良人はもう自分を愛していないといって嘆いた農婦の話があるが、こういう複雑な事情にたいし、性生活の相手が誰しもそれほどの理解と寛容を示してくれるとも限らない。
(「文化への不満」浜川訳、著作集3 P465)
「性関係はない」はこの辺りの発想から発展、応用されたのではないかという意見があるようで、そう考えると興味深い。
文化への不満 その1 [メモ]
メモ。
文化社会に生きる人間の性生活がはなはだしい損害を受けていることはやはり事実で、われわれの性生活はときとして、肉体的器官としてのわれわれの歯や頭髪がそう見えるのと同じく、退化しつつある機能の一種のような印象を与える。性生活はそれが幸福感の源泉としてもつ意味--すなわち、われわれの人生目的を実現する上での意味--をかなり失ってしまったと考えておそらく間違いない。ときによるとわれわれは、われわれが性生活において百パーセント満足することをさまたげ、われわれをもっと別の可能性へと駆りたてるのは、文化の側の圧力ばかりではなくて、われわれの性的機能自体がもともと百パーセント満足できるようには作られていない、と思ってしまう。この考え方は間違っているかもしれないが、この件について決定的な回答を与えることはなかなかかむつかしい。
(「文化への不満」浜川訳、著作集3 P464)
自らを愛の対象として押しつける [メモ]
メモ。
性愛的な対象選択がこうして自我変容に転化するのは、自我がエスを制御し、エスとの関係を深めるための方策[だ]。自我は、対象の特徴を身にまとうと、いわば、エスに対しても自らを愛の対象として押しつけ、エスの[外的対象の]損失を埋め合わせようとして、こう言う。「どう、私を愛してもいいのよ、私、対象(あのひと)にそっくりでしょう」と。
(「自我とエス」道籏訳 フロイト全集18)
愛と性的傾向 [メモ]
メモ。
愛と憎しみの例が特別な興味を引くのは、この例が私たちの欲動に関する記述に組み入れられることに逆らうからだ。この二つの対立する感情と性生活のきわめて密接な関係は疑いを容れないが、愛を他の欲動と同じように性の特別な部分欲動として把握することには、当然ながら反発が起きるだろう。むしろ、愛を全体的な性的傾向の表現とみなしたいのだが、それでもやはり問題は解決しないし、このような傾向の内容的な対立物をどのように理解すればいいのか分からなくなる。
(「欲動と欲動の運命」十川訳P28)
神経言語 [メモ]
メモ。
通常の人間の言語のほかにもさらに神経言語というものがある。これはしかし通例健康な人間の知るところとはならない。この神経言語のイメージを得るには、いくつかの言葉を一定の順序で記憶に刻み込もうとするときの過程、つまり、たとえば学校で暗唱せねばならない詩を生徒が暗唱するときとか、教会で説教しようとする聖職者がその説教を暗記するときの過程を思い浮かべていただくのが一番よいと思う。そういったとき言葉は声に出さないで暗唱される(これは説教壇から会衆に要求される黙祷の場合と同じだ)。すなわち人間はそれらの言葉を口に出して言うときと同じように自分の神経を振動させるのだが、その際本来の音声器官(口唇、舌、歯等)はまったく動かされないか、動かされるにしても、それは偶然にすぎない。
正常な(世界秩序に適った)状況においては、この神経言語を使用するかどうかは、もちろんその神経を持つ当事者の意志のみにかかっている。どんな人間も本来他人に強いて神経言語を使わせることはできない。しかし私の場合には、これまで述べてきたように私の神経病が危機的な転回を遂げて以来、いまや私の神経が外部から、しかも絶えることなくひっきりなしに動かされるという事態が生じた。
(シュレーバー回想録)
光の奇跡(軌跡) [メモ]
メモ。
私には--その他多くの事象とともに--この経過を見れば、その人間の神経を促してそれらの言葉を使わせているのが光線の作用(奇蹟)ということが--それはその人間にはもちろん意識できないのだが--反駁の余地なく証明されていると思われる。換言すれば、下位の神が以前何年にもわたって何度となく語っていた「人間玩弄」の現実性を証明している。
(シュレーバー回想録)
あなたはいま一体何を考えているのか [メモ]
メモ。
この思考強迫の本質は、人間に絶え間なく思考が強いられるということにある。換言すれば無思考状態(これは睡眠においてもっともはっきりした形で生じる状態だ)に耽ることで必要に応じてときおり悟性神経を休息させるという人間の生来の権利が、私の場合、私と交信する光線によって当初より阻害されてきた。つまり光線は、私が何を考えているかをひっきりなしに知りたがった。たとえば、単刀直入に--字句通り--「あなたはいまいったい何を考えているのか」と問われた。そして人間は周知の如く--あるときには--何も考えないでいることができるし、また他方何千ものことを同時に考えることができるのだから、これはまったく馬鹿げた問いで、それ故また、私の神経はこういった不合理な問いにはまったく反応しなかった。このため問いを発する側は間もなく思考偽造の制度に逃避せざるをえなくなった。たとえば上の「あなたはいまいったい何を考えているのか」という問いに対しては、 「この男は世界秩序のことを・・・はずだ」 (考えているという語を補う)という答えが勝手に与えられた。つまり、 「この男は世界秩序のことを・・・はずだ」という言葉を口に出して言うときと同じ振動を起こすことが、光線の作用によって私の神経に強いられた。
(シュレーバー回想録)
繰り返される諸行は無常 [メモ]
メモ。
つまり、すでに以前一度私のうちで生まれた考えはもう筆記されてしまっているわけだが、そういった考えが反復される際--もちろん多くの考えにおいて反復はまったく不可避だ。たとえば、朝起きたときの「さて顔を洗おう」とか、ピアノ演奏の際の「ここは美しい箇所だ」等の考え--そういった考えの芽ばえるのが知覚されるや、接近してくる光線に「我々はそれをもう知っている」 (話された通り書けば「わしらそんなこたあとうにわかっとる」)という決まり文句が筆記され、接近してくる光線に忠告として与えられた。
(シュレーバー回想録)
単調な繰り返し
メモ。
しかしいまやもうかなり前から声のおしゃべりは、ただ果てしもなく反復される(暗記した)決まり文句の恐ろしく単調な繰り返しにすぎなくなってしまっているのだ。
(シュレーバー回想録)
理論と実践
理論的実践と実践的理論の違いを考えると、時代はモードとなる。
いや特に意味はない。
以下、蛇足。
念のために書いておくと、アルチュセールはすべての理論を、概念を生み出すものならば「理論的実践」と呼んだ。
で、実践的理論というか、「大文字の理論」、唯物論的弁証法、的なものが、「理論的実践」の上位として存在する、ということらしい。
フェミニストは存在しない
「・・・・は存在しない」と書けばいい、というものではない。
自戒を込めつつ。
ラカンの理論なんかフェミニストの袋叩きにあえばいいのに、と思ったあなた、それはきっと間違い。
そもそもフェミニズムってなんだ、という問題がある。
男女同権というならば女性だけをアップする戦略は間違っている。
いや政治的戦略としてなら、あり得る。
例えば、黒人を抑圧するWASP的イデオロギーを打破するためには、黒人至上主義を打ち立て、徹底的に白人を排斥しなければならない・・・とか。
そして、すべての運動は政治的運動だ。
だからフェミニズムは正しい。
・・・あれれ、オレ自身に論破されちゃったぞ。
不定冠詞
余計なことだが、ミレールの名誉のために言っておくと、20世紀の最後あたりで、定冠詞は不定冠詞へと移動済みのはずだ。
女は存在しない
なになに、「女は存在しない」ですって。
そういえば「女は存在しない」と題した本があるらしい。
諸悪の根源はラカンです。
だからラカンが全部悪い。
終わり。
・・・としてもいいんだが、一応ラカンを読んでから結論を出すべきかもね。
というわけで『アンコール』(驚くべきことに日本語に翻訳されて書店で売られている)の性差の公式を見てみる。
以下はオレ(過去に、勢いで「素人ラカン派」を自称した、という恥ずかしい実績がある)の意訳ね、もちろん。
はい、では男の側。
「一人(例外)を除いて、男はみんな十把一絡げとして考えてみよう」
・・・なるほど、そういうことでしたか。
次に女の側。
「男と違って十把一絡げにできないので、一人ひとりチェックしよう」
・・・ほうほう、そういうことでしたか。
なぜこれが「女は存在しない」ということになるのかイマイチよくわからないが、たぶんきっとそれがラカンのスキャンダラスな戦略というヤツで。
要するに、「女という集合体すべてを表現する記号は存在しない」という意味ではないかと。
女性の定冠詞に斜線を入れた(
文学は先行する [メモ]
メモ。
思うに、精神分析家が自分の立場から得られる唯一の利点は--この立場が自らの立場として結局精神分析家に認められているならばだが--芸術の分野では、芸術家は常に分析家に先んじており、精神分析家は芸術家が切り拓いてくれる道において心理学者になることはないのだということを、フロイトととともに思い起こすことだ。
(向井訳『デュラス賛』より)
わざわざ芸術を持ち出さなくても、臨床は理論に先行すると言えばいいだけのことなのに。
「文学を解読すること」は、いくらかの訓練的意味がある、と思うのは、オグデンを読んだからだろうか。
もちろん我田引水に過ぎないんだが、それが大切ということかも。
パターン
不条理的な文学・・・オレはピンターぐらいしか思い起こさないが・・・は、いくつかのパターン化によって読解を容易にする。
そのパターン化すること自体を間違えることが多いにしても、努力は必要だ。
整合性
例えば、ロルの物語の最後、彼女は本当に気が狂ったのか、それとも少しは復活したのか、という問いがあったとする。
フィクションの結末にまで整合性を求めようとする態度は、イマイチよくわからない。
そもそもこの作者は、そういうタイプではない。
ラカンがどう思ったのか、それを強調したところで、彼の発言にどれだけの価値があるのか。
そういう態度が文学的価値を損ない、文学作品を切り刻み葬ってしまうのではないか。
あ、これは非難ではなく、感想です。
深く考える
深く考えたからといって、正しく考えられるとは限らない。
それが人間の不思議なところだ。
SNSでの他者への攻撃が非難されることが多いが、つい攻撃してしまう理由の一つは単に、そこに法がないからだ。
将来的に起こるだろうことを書いておくと、SNSへの規制が強くなると、ますます他者への攻撃が激しく狡猾になるだろう。
そして、それが「常識的な」判断だとされるに違いない。
だからといって深く考えるのは無駄ではない。
むしろ、オレたちは、深く考えなければ生き延びられない時代で、のうのうと生きているはずだ。
他人の言葉
他人の言葉を、自分の言葉のように列挙することは、自分の位置を根拠なく強化するだけになってしまうので要注意だ。
他人の言葉を、他人の言葉として列挙することは、自分を防御することに等しい。
他人の言葉を、自分の言葉でないにしても、自分が依拠する言葉として紹介するならば、それによって、他人を攻撃するのは間違っている。
大丈夫。
人間はいまでも、いまだに、つねに間違っているのだから。
敵を非難する
まず、敵は誰か、具体的に列挙せよ。
次に、その敵は、なぜ敵なのか、理由を述べよ。
次に、その敵を、敵と考えることの優位性を3つ述べよ。
最後に、自分自身が、実は敵かもしれないということについて、思うところを簡潔に・・・いや、できるだけたくさん述べよ。
差別化
人は差別化することで、自らの特異性(さらにいうなら特権性)を強調しようとするらしい。
ヘイトスピーチはその典型なんだが。
すべての差別化はすべて失敗している。
だから説得力はない。
差別化を語る人は、説得力のないことに気づかないだけだ。
フロイトを更生させる
十川幸司は、ラカンから離れフロイトそのものを継承しようとして、たくさん失敗している。
それは実に、倫理的な姿勢として、つまり「モノ」のレベルにまでフロイトの精神分析を高めようという姿勢として、敬意の対象となりえる。
オレはその姿勢に倣い、ひとつの乗り越えの儀式とみなし、フロイトそのものを更生させていくべきだと考えている。
時代背景もあり、フロイトは多くのものを、分析し損ねてきた。
それはラカンも同様だ。
時代というのは残酷なもので、フロイトやラカンのような偉大な知性でも、取り残されてしまう。
だからといって彼らの分析を全否定するのも大人げない。
オレたちは長年にわたって「すべてではない」と付き合い続けているので、心底理解している。
したがって、進むべき道はそれほど多くない。
クソとは何か
クソとは何か。
マルクス・ガブリエルに倣って、シェリングを読めばわかる。
一言でいうと、神によって創造されたものがクソだ。
さて、これで言い訳は終了する。
正しいラカン
当たり前のことだが、正しいラカンなど存在しない。
ミレールは単にラカン理論の相続として正統的というだけだが、ラカンにとって正統的というのは、クソに等しい。
等しいのではなく、クソそのものだ。
演技
なぜラカンは、演技することでしか、自らを・・・特に晩年の自らを・・・表現できなかったのか。
目的をもって、自らのアイデンティティを表現しようと努力することは悪いことではないが、たぶんそれは(以下略)
感情的
なぜラカン派は、沈黙や空虚に対して感情的に(目いっぱい妥協して「情動的に」とするべきか)・・・あるいは日常的な一側面として・・・対峙できないのか。
結果として、沈黙や空虚を、観念論的、超越論的、特権的なもののように対峙してしまうのはなぜか。
その必要がないのに・・・。
彼らを擁護するために、永遠の謎、ということにしておこう。