饗宴の語りの構造
饗宴の様子を経験し、最初に語ったのはアリストデモス
それを聞いて、その全体像を(書物「饗宴」のなかで)語ったのはアポロドロス。
それを最終的に書いた(広く一般に語った)のはプラトン。
饗宴では、神エロスの賛辞を順番に語ることになったが、その中で、何番目かにソクラテスは語った。
ただ、彼は、ディオティマの言説を通して、という設定により、語った。
プラトンは何かを隠蔽しようとして、このような複雑な構造とした。
それとは別に、プラトンの意図とは別の隠蔽もあった。
結果として、そのふたつの隠蔽は、同じものを目指していた。
キリスト教
精神分析は、キリスト教と相性が悪い。
それはまったく政治的な理由ではない。
だからどちらも気にする必要がない。
放っておけばいい。
エロスとタナトスと前・中・後期
そういえば、フロイトもミレールの師も、エロスとタナトスの関係を明確にシェーマ化することはなかった。
たとえば、ボロメオの(集合的な)図では、エロスとタナトスの癒合的な関係について語ることができなかった・・・図で示す必要もないが。
もちろんあらゆるシェーマやグラフは、語りえないものを示している。
というか、何を語るかということは、それによって語りえないものが出てくるということを知ることが大事だ。
セミネールの前期(S1~S10)の理論では――オレの単なる感覚だが――たぶんタナトス的なものをVersagungで説明しようとしていたのだと思う。
ただその理論は、Versagungを克服するものとして父の名が導入されたという建付けになっているため、父の名の衰退とともに語られなくなった。
ただし、その建付け=構造は、父の名が衰退した時間軸にも生きている。
要するに、それが構造主義的発想の有効性と弊害だ。
つまり敢えて、誤解を恐れずに言うならば、中期の「疎外と分離」理論についても、Versagungの残余が感じられる。
それをどう考えるかによって、精神分析を思考する位置づけが決まっていくだろう。
後期の臨床は、症例ジェラールと、(発症していないが)ジョイスしか知らないので、そんなもんですよね、という程度・・・ただし、タナトスの具体時な展開が(想像的な意味で)そこに見えている、という感覚は持っている。
善と法律
善を法律によって定義してしまえばいいという考え方がある。
というか、現代の倫理は法律として文章化することで現前する。
ただ、言語化するだけでは倫理として「正しい」とか「有効」と言えるのかどうかはよくわからない。
法律の前提にある「善」への宗教的狂信が作り上げるものだから。
言い換えると、なぜカントが定言的命令法という、根拠なき「善」の現前化という発想に至ったのかをよく考えるべきだろう。
両価的
価値は両価的だ。
すべてのものについての価値が両価的かどうかは知らないが、オレの興味のあるものはすべて両価的だ。
したがって、よく言われる「真」「善」「美」のいずれも、オレとは縁遠いとして突き放すか、あるいは両価的なものとして分化して捉えることになる。
「真」「善」「美」は、カントの三批判書にそのまま反映されていて、それを思考するための礎として参考になる。
だからこそドイツ観念論の系譜としてヘーゲルの弁証法に有効性がある。
とくに『精神現象学』はどこを読んでも難解だが、実にオモシロイ。
ヘーゲルの欠点は、その両価的なものが止揚によって統一されると考えていたことだが、その矛盾をそのまま抱えて統一化されているというのが長所だったりするので、彼の評価はなかなか難しい。
問いと答え
どのような問いだろうと、問いの答えはどこかにある、と信じている。
つまり、どこにも答えがない、ということがわかっていても、答えがないという答えがあるはずだ、という理屈だ。
欲望と欲動
欲求と要求と欲望は違うことがよく知られている。
では、欲望と欲動はどう違うのか。
「欲動とは何か」を考えるのが相当にメンドクサイが、いくつかのポイントだけ整理しておく。
そもそも欲動(という概念)は「部分欲動」からスタートしている。
部分欲動というのは、要するに「口唇期」とか「肛門期」「性器期」におけるエネルギーの源泉の分類だったり、後にはそれらが(主に倒錯を分析されると明白化されるような)目標の分類として、捉えることができるようなものだ。
そういった部分欲動が、後に、統一されていくような錯覚を感じさせるところがオモシロイ。
つまり、「享楽」と同様、抽象的な方向性を誘発していることに注意しよう。
他方、欲望と言えばあまり説明の必要がないくらいで、ただ単に他者の欲望だ。
したがって、言語的な欠損という中心を持ち、いつも弁証法に巻き込まれている・・・一見、混乱しているように見えるが、主体が混乱しているだけで、現象としてはあまり心配するようなことはない。
転移や「性別化の式」を説明するときは、欲動より欲望の方が役に立つ。
美しいサッカー [サッカー]
美しいサッカーを語るのは難しいし、たぶん戦術として言語化するのは不可能だろう。
視覚化はできる・・・、つまり危ういところでパスがつながり、奇跡的なテクニックやポジショニングや走り込みで、つまり素晴らしい個人技と連携で、ゴールが決まるようなサッカーだ。
しかし、これをどうやって戦術として言語化するのか。
たとえば、「美しいサッカー」を「パス回しができて、かつプレスを回避するサッカー」と単純に定義するなら、何とかできそうだ。
戦術の過去と現在 [サッカー]
もともと、トータル・フットボール(1974W杯ミケルス・オランダ)はブラジルの個人技を打破するための戦術だった。
そして、ゾーン・プレス(1987サッキ・ミラン)は、トータル・フットボールのプレッシングに4-4-2という(組み合わせによる)守備の優秀性を組み合わせたものだ。
そして、それらを踏まえた、ペップ・バルサ(2009)が時代を席巻した結果、その対抗策として、フィジカル重視の「徹底ハイ・プレス+ショート・カウンター」(2019クロップ・リヴァプール)が主流となる(ゲーゲン・プレスとハイ・プレスは、戦術としてまったく違うが、プレッシング・フットボールの世界的流行という意味で同列にしておく)。
これが現在地点だ。
このプレッシングを打破するために、先回紹介した『蹴球学』にも見られるような、プレスをかいくぐる工夫がチラホラと登場し始める。
相手ボールでの徹底(片サイド)ハイ・プレス、取られた瞬間のゲーゲン・プレス、引いてカウンター、旧バルサ型ポゼッションというのは、もはや恒常的ではなく、場面場面で使い分けるものになり、そのうえで、優秀な監督は新しいチャレンジをしようとしている。
もちろん、優秀な個人を集めて、個で剥がしていくということで、近年のレアル・マドリが結果を出していることも蔑ろにはできない。
ただ、選手の個の質に頼るのは「戦術家」ではない、という発想が真実ならば『蹴球学』の著者の主張は正しい。
また、バルサのようにチームの伝統的な『哲学』に殉死する(要するに「殉死しない」監督のペップは、ミケルス、クライフ以来の突然変異)のもまた、ある意味正しい・・・が、最近のチャビ・バルサは美しくないと言われるのが残念だ。
蹴球学 続き [サッカー]
この本は、戦術書の出来としてはイタリア語に翻訳されてもおかしくないんだが、たぶんされないので、日本サッカーの関係者はこの現象をうまく利用すべきだと思う。
監督の資質としては、他にモチベーション論や組織論、メディア論などいろいろ学ぶべきだとは思う。
そのうえで、この本をじっくり読むと、戦術的な意味で、サッカーを見る目が高くなる。
そして、日本のサッカーの将来が明るくなる・・ような気がする。
蹴球学 [サッカー]
Leo the football『蹴球学』(KADOKAWA)を読み始める。
「ネットの人が書いたサッカーの戦術書」という感覚で読み始めたが、これはレベルが高い。
「レベルが高い」と言うのは、自らの言葉で「言語化」できているからだ、しかもかなり細かいところまで。
海外の優秀な戦術家の率いるチームのサッカーを分析し、そして自らの監督経験を踏まえて、理論として落とし込んでいる。
もちろん、今後の戦術の流行によって当たり外れが出て来るだろうが、そこは流行の変更に合わせて修正していけばいい。
この本を読んで、なぜチャビがカンセロを取りたがっていたのか、をよく理解できた。
相手に合わせた戦術を考案することで打開するのではなく、あくまでも選手の質で局面を打開する・・・というのが、チャビの頭の中のバルサ的戦術解釈(とくに彼の選手時代を踏まえての戦術解釈)だろう。
それが成功するかどうかは神のみぞ知る・・・。
疎外と分離
疎外と分離以降、精神分析の理論は停滞している・・・と感じる。
臨床的なダイナミズムが失われ、演繹的な解釈が中心となっいてく。
その停滞を感じさせることこそが、真の狙いだったという説を唱えたくなるが。
21世紀 続き
というか、Aに斜線が引かれてはじめて、失われた「規範」が「規範モドキ」として一部復活する。
このような二段階論でしか、21世紀は語れない。
本当はまだひとつ先があるんだが、その話はいずれ、どこかで。
21世紀
断片的な話。
・21世紀は、父の名を語る機会が少なくなってしまった。
だから複数の小文字のaがシーニュのように現れる。
・神経症者にはAが錯覚として存在する。
精神病者にとって、Aは斜線を引かれたまま混沌のなかに存在する。
時代区分
前にミレールによる時代区分のメモを書いた。
しかし、たぶん「中期はS6あたりから始まっている」と言うべきだろう。
確かにS11は新解釈の集大成として見るべき物があるとはいえ、それ以前に線は引かれているはずだ(妄想P262)。
存在欠如
マンカエートルを「存在欠如」と訳すケースが多いようだ。
まるで、欠如が存在するかのように。
これは無限判断的な翻訳だが、原文のニュアンスはそれとはやや違うと勝手に判断している。
岩波での翻訳は「存在し損ね」としている。
この表現は、(斜線を引かれた)主体が、本来あるべき座にいない(斜線を引かれている)にもかかわらず、その座で語ることによって、その主体としての効果を発揮するという、きわめて説明しがたい現象について、語ろうとしている。
なので、「存在欠如」だと、その幽霊的な原文の効果をなかなか反映できていないような気がする。
オレの感覚では、欠如は存在しない、なぜならば、存在しないのが欠如だから。
欠如しているにもかかわらず、その効果があるのは、それは欠如ではなく幽霊だからではないか。
というわけで、結果的に「ガイスト」概念の擁護をしてしまった。
イマジネール
ついついイマジネールを中心に語ってしまう。
これはオレだけではなく、人類共通の癖だ。
だって説明が楽だから。
そして、それが象徴界と現実界のバックアップを受けたものだと主張し始める。
しかしオレたちが本当に語らなくてはならないのは、そのイマジネールの背後にある象徴界(の欠如)と現実界(とりあえず当面は他者の領域)と、イマジネールの関係についてだ。
自分のイメージをどうやって共有化させるか、その工夫が必要な気がする。
単に説得力の問題かもしれないが。
そういう意味で、読む側がそれなりのハードルをクリアさえすれば、フロイトの言説には説得力があることがわかる。
文章の読みかた 続きの続き
要するに、何度も読むのが大事だ。
逆に言うと、繰り返し読めない文章は、個人の体質に合わないし、一般的にも大したものではない、と断言してもよい。
文章の読みかた 続き
素直に読む、と、疑って読む、の前提がないと、なかなかオモシロく読めない。
読書の難しさだろう。
文章の読みかた
まず、素直に読む。
次に、疑って読む。
そして、好きなように読む。
この三段階で、大抵の書物は楽しく読める。
ついでの話
バルサが審判買収問題でどうにかなったとしても、たぶん応援する。
試合映像がないと難しいというのはあるが。
ミシェル・サンチェス [サッカー]
オレのサッカー観はミケルスとクライフによって育まれたものなんだが、その具体的なアプローチは、セルタ時代のビクトル・フェルナンデスの影響が強い。
現時点のリーガで、それを実践しているのがジローナの監督、ミシェル・サンチェスだ。
ビッグ・クラブのマネジメントは戦術だけではダメで、政治的な動きや自身の哲学の浸透力やカリスマ性やコミュニケーション能力が必要になってくるんだが、とはいえ、素晴らしい攻撃的なサッカーを実現している「裕福ではない」チームと監督を、応援しないという選択肢は、オレにはない。
フロイトの思想
フロイトの思想は帰納法的だと言われている。
確かにそのとおりなんだが、社会的な既成秩序そのものが集積するものとは関係なく、むしろそれに反対するものだ。
そういう意味では、厳密に選択された結果の帰納法だと言えよう。
データが飛ぶ
突然パソコンが再起動し、A4サイズ3頁ほどのテキストデータがぶっ飛んだ。
一時間くらいで打ち直しできるんだが、なんだか腹が立つ。
限りないイリアス
『イリアス』はオモシロい。
現代に至るまでにさまざまな改訂が行われたのかもしれないが、それがまたいい味を出しているような気がする。
オレたちはもっと古典を読んだ方がよいと思う。
限りない欲望
井上陽水の「限りない欲望」はなかなかのところまで行っていた。
その先に何があるのか、わかってさえいれば、あと一歩踏み出せたのに。