神話の効果 [メモ]
メモ。ロン・サスカインド『ディズニー・セラピー』(訳P267)より。
(引用開始)
オーウェンが選んだ愛情の対象は明らかに、神話、寓話、伝説への扉を開いた。グリム兄弟にならい、ディズニーは昔話の広大なレパートリーをすくい上げ、鍛え直す。あらゆる文化が語ってきた「美女と野獣」の類型、それは3000年前の古代ギリシャ神話「キューピットとプシケ―」までさかのぼり、そして確実に、それより前にも存在しただろう。これは人類が常に、世間を渡るため、自分たち自身に語ってきた物語だ。人びとは典型的な話を取りこみ、それらを使って自分たちの道を切り開いてきた――そこに知恵が蓄えられる。これは、ほんの一例に過ぎない。
(引用終わり)
神話が人の心に、どのように機能してきたかは、たとえばレヴィ=ストロースが多くを語っているが、ここではそれらのひとつが証言されている。
「構造主義」という学問的ジャンルが効果的だということを証言しているのではなく、精神への、神話の影響力の強さを示している。
どうでもよいことだが、「キューピットとプシケー」の話は、ジャコポ・ズッキの絵のテーマとして、セミネール(8巻)にも出てくる。
ケプラーの父 [メモ]
メモ。ケプラーが父について以下のように書いている。
(引用開始)
第4番目。ハインリッヒ。 一五四七年一月一九日に生まれた。私の父だ。不道徳で、頑固で、喧嘩好きな男で、非業の死を運命づけられていた。金星と火星が彼の邪悪な意志をいっそう助長した。木星が太陽のすぐ傍まで近づいていたことによって、彼は貧民となり、しかし金持ちの妻を得ることが約束されていた。土星は(黄道)第七宮にあたったから、彼は砲術を学ぶことになった。大勢の敵、ごたごたの多い結婚、……名誉への空しい愛と空しい望み、放浪者、……一五七七年に彼は首吊りにされかねない危険を冒した。彼は家を売り払って居酒屋を始めた。一五八七年、火薬を入れたビンが爆発して、父の顔はひどい傷を負った。一五八九年、彼は妻(私の母)をひどく虐待して、家を捨て、最後の放浪に出た。そして死んだ。
(引用ここまで)
ケプラーとその父は素晴らしい、なにも言うべきことはない、ただただ称賛あるのみ。
「無意識は言語だ」by Fink [メモ]
メモ。引用。
彼(Lacan)はきわめてシンプルに「無意識は言語だ」と述べているが、それは言語こそが無意識を作り上げているという意味だ。フロイトは、多くの人たちによって、感情が無意識的でありうると考えていたなどと誤解されている。しかしほとんどの場合フロイトは、抑圧されるものが代理表象が一般に英語でideational representative[観念化代理]と訳される、Vorstellungsrepra"sentanzen[表象代理]と彼が呼んだものだと考えていた。フロイトの著作に横たわっているドイツ哲学の伝統と、フロイトのテクストそのものの綿密な研究にもとづいて、Lacanはそれをフランス語でrepre'sentants de la repe'sentaion[表象の代理]と翻訳する。これは英語にするならrepresentative of (the) representaiton[表象の代理]となる。そして、そうした代理を言語学においてシニフィアンと呼ばれるものと同一視することができると(Lacanは)結論づける。
(The Lacanian Subject、訳P25)
饗宴 [メモ]
メモ。
プラトン『饗宴』の、どれを読めばいいのか。
というわけで以下に邦訳を挙げておこう。
・岩波文庫、久保勉訳。
・光文社古典新訳文庫、中澤勉訳。
・角川ソフィア文庫、山本光雄訳。
・新潮文庫、森進一訳。
・東京大学出版会、山本巍訳。
・『饗宴・パイドロス』岩波書店、鈴木輝雄訳(饗宴)。
・『饗宴/パイドン』京都大学学術出版会、朴一功訳。
・『哲学の饗宴』NHK出版、荻野弘之著。
・『プラトン哲学への旅』NHK出版、納富信留著。
他いろいろ。
「コペルニクス的転回」の教科書的な定義 [メモ]
メモ、山川出版社『倫理用語集』(2014年版)P210より。
コペルニクス的転回
対象が意識を規定するのではなく、意識が対象を規定するというカントの哲学の変革を、コペルニクスの地動説による天文学の大転換にたとえたもの。カントはこれを、「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」と表現し、認識する主観が外界に実在する対象(客観)に一致するという伝統的な立場を逆転し、対象が主観の認識の枠組みに一致するように構成されていると説いた。人間の外に実在する対象を認識するという常識的な考え方が反転され、対象は人間の感性が受け取った感覚的な印象に悟性の思考の枠組みを当てはめることによって構成される。このように考えることによって、例えば、原因と結果の因果性は経験から後天的にみつけられたものではなく、悟性が対象に与えた先天的(アプリオリ)な思考の枠組みとして、経験に先立つ先天的な客観的普遍性をもつことになる。
(引用ここまで)
・・・次回はこれに対するささやかな文句など。
ヘーゲルと精神分析 [メモ]
メモ。
(中略・・・ミレールの師は)ヘーゲル哲学の「否定」概念が、自己の同一性への総合を前提とした否定に過ぎず、この否定概念は、判断機能の最初の是認(Bejahung)を前提としているゆえに、その外部の「狂気」を捉えられないばかりか、無意識の次元における否定という働きも把握できないと論じた。(十川幸司2013)
このようなヘーゲルの「否定」概念を、無理矢理こじつけて、精神分析の領域近辺へと引き上げたのが、ジジェクだ。
そういう意味では、ジジェクはもともと精神分析的ではないし、そして精神分析とは違う「なにか」を継続している。
時代区分 [メモ]
メモ。
ミレールによる時期区分。
前期:セミネール第 1 巻から第 10 巻まで、1953 年から 1963 年
中期:セミネール第 11 巻から第 21 巻まで、1964 年から 1974 年
後期:セミネール第 22 巻から第 27 巻まで、1974 年から 1980 年
前期:「同一化の臨床」、中期:「幻想の臨床」、後期:「サントームの臨床」
・・・これを断裂的歴史とみるか、継承的歴史とみるかは人による。
女性はなにも欠いていない [メモ]
メモ。
欲望の対象の機能の鍵をなしているものの参照において、一目瞭然なのは、女性はなにも欠いていないということです。「ペニス羨望」が最終的な項だと考えるとしたらそれはまったくのまちがいです。
(S10 1963年3月13日)
これは、ある一面から見ると、去勢や剥奪の機能が弱体化した時代を反映しているわけだが、フリュストラシオンがボロ布になったことを示してはいない・・・なによりも療法のひとつの指針となっている。
のちに「(定冠詞のついた)女はいません」(S20、1973年2月20日)などと宣うような人物の、「女性」に関する理論的変遷を記すのはアレだが。
・・・ちなみに「定冠詞のついた女」を語ったのはシュレーバーだ。
もう一つのエディプス [メモ]
メモ。
われわれは女児におけるエディプス・コンプレクスの前史に対する洞察を手に入れた。男児の場合のこれに対応するものはまだあまりよく知られていない。女児の場合はエディプス・コンプレクスは二次的な形成物だ。去勢コンプレクスの影響がこれに先行してその準備をする。エディプス・コンプレクスと去勢コンプレクスの関係については、両性のあいだに根本的な対立が生じてくる。男児のエディプス・コンプレクスは去勢コンプレクスにゆき当たって滅びていくのだが、女性のそれは去勢コンプレクスによって可能とされ、また惹起される。
(フロイト「解剖学的な性差」)
・・・この性差の時系列に関する文章は、後述する理由によってあまり表にでなくなった。
手形の回収~古き精神分析的ココロを懐かしむ [メモ]
(1)借りたおかねをいつか返さなければならないという認識(おそれ)
(2)てもとに現金がないのに、あると信じ振りだしてしまった手形を回収されるという認識(おそれ)
以下は断片的説明と浅薄な感想などを列記する。
・これらは去勢についての認識。
・(1)の「借りたおかね」の話はねずみ男を連想させるが、あまり関係ない。
・ここでのおかね(現金)はファルスを意味する。
・(2)は「持っていないものをうしなう」・・・の説明となっている。
・シニフィアンは欠如しても、あるべき場所がきまっているので、欠如していることを認識できる
→ シニフィアンによって「持っていないものをうしなう」ことが可能になる。
・「欠如」そのものが、「シニフィアンの欠如としてのシニフィアン」として定義可能となっている。
・精神分析を学習するさいには、「負債についての、あるいはうしなわれた手形についてのセミネール」が必修科目か。
・母・子・ファルスの想像的三角形において、母の二重化、子の二重化がおこる
→ 「二重化と同一化の運動」=欲望の弁証法(古き精神分析的ココロ)。
・(1)(2)ともに、将来の「正常」へとみちびく、幼児の一時的な「不安神経症」といえる。
・フロイトの症例をよめばわかるが、正常へはいたらず、失敗することがおおい
→ これがしめしているのは失敗の普遍化の可能性
→ 「正常は存在しない」という可能性
リベラル・アーツ [メモ]
メモ。リベラル・アーツ。
artes liberales のこと。元来は「自由人」として学ぶべき「学芸」という意味。アウグスティヌスの時代には三学科、つまり文法学、修辞学、弁証論と、四学科、つまり幾何学、算数学、天文学、音楽と、合計七学科があった。
(アカデミア派駁論、訳者注、P457)
音声中心主義 [メモ]
メモ。
音声中心主義は、みずからが拠って立つパロールの内部にエクリチュールの侵入を被ることによって自壊してしまっている。(妄想P408)
これを少しだけ変えてみよう。
音声中心主義は、みずからが拠って立つパロールの内部にエクリチュールの侵入を被ることによって、強化されている。
・・・・と読むこともできる、というか、そう読む方が自然だ。
仮説を確かめる方法 [メモ]
メモ。
自分が持っている仮説を否定する証拠を集める努力をする(中略)・・・疑わしいものを調べ、否定的な証拠を集め、それらが間違っていることを確かめる。これが科学のやり方だ。反証を丹念に潰していくことの方が、正解に近づける。
森博嗣『オメガ城の惨劇』(新書P383)