世界は・・・
世界は、ランガージュとして構成されている・・・と記述すべきか。
少なくとも紀元前六世紀の哲学は、それを目指していた。
・・・より正確には、世界をランガージュとして構成しようと、人間はいろいろ努力している、と書くべきだろう。
そして、それを科学と呼ぶべきか、宗教と呼ぶべきか、オレにはわからない。
無意識は・・・その9
というわけで、最初に戻ろう。
正確に言うと「無意識は、ランガージュとして構造化されている」は語尾が省略されている。
「無意識は、ランガージュとして構造化されている・・・知らんけど(半笑)」。
これがきわめて厳密に定義され、かつきわめて厳密に表現された、精神分析のロジックだ。
無意識は・・・その7
というわけで、いろんな人が無意識について、思う存分語ってほしいと思う。
オレは残念ながら、それを語ることの不可能性を嘆くしかない。
無意識は・・・その6
無意識と身体の関係は密接だ。
そもそも欲望はともかくとして、欲動とか享楽という専門用語について語るとなると、それは生物学的な意味での「本能」に近づいてしまうという発想から逃れられないから、どうしても身体との関連性を重視したくなる。
オレは特に何も言うことはない。
それらを記述する脳の処理の方法としては、欲望でも同じことだ。
好きにやってほしい。
そこにどれだけの実践的な実りがあるかどうか、オレにはわからないから。
無意識は・・・その5
専門家の間でも「無意識」という言葉はずいぶん軽くなっている。
それが、学知と深い関係にあったり、あるいはまったくなかったりして、言葉にしにくいものだということを忘れてしまっていると見受けられる。
「無意識はランガージュのように構造化されている」というのは、きっと哲学との関連性とか物理学との関連性とかいろいろと考える余白を与えるために語られた可能性がある。
無意識とはまさに言葉通り受け取られなければならない。
だから、オレはそこでいったん立ち止まり深呼吸する。
あとは分析空間とか、特殊な読書空間とか、でしか語れないので。
無意識は・・・その4
では無意識をどうやって探求するのかということになるんだが、それはプラトンとかニーチェとかいろいろ書いているわけだし、フロイトという大御所もいるわけだし、それくらい自分で考えなさいと言うのは、現代の意見としてはもっともだ。
無意識について語る術を知らないという意味でそういう意見になったんだと思うんだが、実はオレはまったくそれに同意する。
自分で考えられないのなら、何を読んでも、どこで学んでも無駄だと思う。
というか、そもそも21世紀では一般的に、無意識は利用されるか、暴露されるかのどちらしかないようだ。
実にオモシロイ。
無意識は・・・その3
そもそも無意識は知られていない。
だから自らの欲望をストレートに語ることは難しい。
これが基本というか、大前提だ。
無意識は・・・その2
さて、21世紀になってからは、他者Aが存在しにくいという発想が主流のようだ。
他者Aが生きにくい時は、他者aとなってその価値が落ちていき、極論すれば、むしろ対象としての地位を自分で見いだしていたりする。
それはそれで仕方のないことだ。
それでもその座(プラース)は、降格しながら、パロールの場として、生き続けている。
無意識は・・・その1
無意識はランガージュとして構造化されている・・・らしい。
個人的にはそれでもいいし、そうでなくてもいい。
それよりもオレにとって大事なのは、他者Aはパロールの場だ、ということだ。
そしてそれは欲望と密接に関係している。
というか、精神分析というジャンルは、欲望(あるいはその発展形)しか考えていない。
つまり、無意識はランガージュとして構造化されているのであれば、そこにどう欲望が関係しているのか、主張しないとダメですよね、という話だ。
真理
昔オレは、哲学とか精神分析を勉強していけば、何らかの真理の境地に到達すると漠然と考えていた。
その発想は、昔の日本で仏教を学ぶ者たちが、中国へ行って修行するのと似ている。
しかし、デリダの『真実の配達人』(1982『現代思想』臨時増刊、最新の翻訳タイトルは『真理の配達人』)を読んだときに、「ああ、オレが目指しているのは単純な真理とは違うんだ」ということに気づく。
真理の構造は、ソクラテスの「無知の知」を少し複雑化したものでなければならない、と考えるようになる。
たぶん「リベラルアーツ」とはそういうもので、自ら思考することが、真理そのものに影響を及ぼし、真理そのものが変容してしまうだろう、という考えに取り憑かれる。
ある意味、妄想のようなものだが、それはそれで楽しい思考だ。
婉曲表現
世の中は、婉曲表現だらけだ。
現代の多くの人が、その率直な(本当の)答えを知ろうとしていているのは感じるが、その表現を読み取ろうとする意志とか努力を感じない。
結果として他人任せになっている。
抜け落ち
抜け落ちが多い。
そして、その抜け落ちたものが、ないがしろにされている。
それらを拾うことがフロイトの真骨頂だった。
ディオティマ
『饗宴』の話。
なぜソクラテスがディオティマに語らせたのか、ソクラテス自身の言葉として語らないのか、その理由というか構造がわからないと、精神分析を理解できないと思う。
貧窮
ペニアとポロスを語ることなしに、エロースを語ることはできない。
それを語ることが精神分析に関する業界の重要なポイントと言っても過言ではない。
もちろん大袈裟だが。
エローメノス
エローメノスとして生きることはできるが、それをすべてとして生き続けることは制約が多く、難しい。
Live at the Roxy [私的名盤]
ボブ・マーリーの中では、Live!(1975年発売)と双璧をなすライヴの名盤が「ライヴ・アット・ザ・ロキシー」(海賊盤は76年あたりから出ていたが、アンコールを含む正規の完全版は2003年発売)だ。
前者がロンドン(当時のイギリスは、まさにパンク・ロックの勃興期!)のロック・ファンを意識した熱い演奏だとすれば、ハリウッドのロキシー・シアターでは、レゲエ本来の、いやそれ以上にゆったりとしたリディムとなっている。
「どちらが、より良いか」を語るのは難しい、両方ともボブ・マーリーの独特な演奏だし、両方ともオレたちのよく知っている演奏だからだ。
どちらも日常的によく聴いている(前者は、正規盤よりも海賊盤を聴くことが多い)が、まるで別のバンドのような違いを聴かせてくれるのがオモシロい。
鼻から脳汁が垂れ落ちてくる名盤。
死の欲望
ある初期のセミネールを読んでいると、死の欲動と死の欲望を使い分けていることに気づいた。
厳密な使い分けではなさそうだが、テキスト読解としては、厳密に使い分けていると考えた方がよいだろう。
サド的なトポロジー
サド的なトポロジーは重要なテーマだ。
それは、ふたつの死の間にある。
というか、そこにしかない。
自己分析
精神分析の自己分析は、なかなか実践の条件が厳しいが、「知らんけど」を通して見えてくるものがあるような気がする。
知らんけど
知らんけど、というのが、お笑い芸人がよく使っているからか、一種の流行り言葉というか、当たり前の言葉になりつつある。
しかしこの「知らんけど」という言葉は奥が深い。
深すぎてオレには語るすべがない。
「知らんけど」を日常的に使っている方は、少し立ち止まって考えてみるとよいかも。
ポスト構造主義
デリダやドゥルーズは、ポスト構造主義という文脈で輝いている。
それを認めない文脈では輝かないかというと、少し違うような気がするが、それでもテキストとしては(いくつかの抜けがあるとしても――・・・だからこそ・・・)抜群にオモシロイ。
享楽すべき書籍という意味では、同様に、オレたちはもっと『エクリ』を消化(昇華)するべきだが、一般的には語学的な事情(翻訳に関するあれこれ)でその環境が整っていない。
それについては結論を急がなくてよいのではないか。
世界はたぶん、これからも続く。
戦術変更 [サッカー]
チャビの戦術変更の方法は、主に選手交代で、中盤の枚数を増やすなどだが、負けているときの変更パターンがやや不足している。
PSMでのクラシコでは、オリオール・ロメウとフレンキーのドブレ・ピボーテ、そして、ペドリがトップ下、左の偽ウイングにギュンドアン、という布陣が安定していたので、CLクラス相手の場合はそんな感じでいくものと思われる。
相変わらずの得点不足は仕方がないとしても、相手戦術によってはボールが回るかもしれないという期待は多少ある。
バルサのサッカー [サッカー]
戦力的な問題はあるだろうが、しかし、最近のバルサは彼ららしいサッカーができていない。
ということは、ポゼッションのための効果的な練習ができていないということになる。
現状では、CLクラスとの戦いになると、カウンター狙いの…ある意味シメオネに近いサッカーをやっている。
だったらチャビが監督をする意味がないのでは、という疑問が出てくるわけだが、バルサがカウンター中心の戦術でしか戦えなくても、チャビだから許されているという面もある。
美しく戦うことができなくなった理由はいろいろあるが、結果を出すためにはフィジカル重視のサッカーに付き合うしかない、ということが一番だろう。
現状を打破するのは難しい。
だからサッカーはオモシロイし観る価値がある。
省略の続き
ファイドロスとパウサニアスの間の二、三人の演説も省略されている。
理由はたぶん、パウサニアスほど騙されていなかったからだと思われる。
だから彼はアリストファネスのしゃっくりの対象となった。