入門書や解説書
入門書や解説書は危険だ。
なぜなら、「違う」からだ。
その存在は否定しない、多少は役に立つことがあるし。
しかし即座に原文や訳文に取り組む方がいいし、それで挫折するなら挫折した方がいい。
中途半端な理解は、何も知らないより質(たち)がわるい。
例外はある、つまりその思想家についての「中途半端な理解」という勉強を40年以上継続しようという気概があるなら、また話は別だ。
アフリカン・ヘッド・チャージ
たまに Afrian head charge を聴きたくなる。
dub病の影響かあるいは単なる資質か。
エイドリアン・シャーウッドは、ごく稀に、いい仕事をする。
ひとつの
ひとつの、というのは特異性なんだが、それはもはや象徴で表現できるものではない。
とはいえ、逆に言うと言語(ひとつの・・・)から抜けられない、という側面もある。
つねに自分に返ってくる
リベラルアーツは「すべて自分に返ってくる」という学問だと定義しよう。
踏み込んでいうなら、その理論は、その理論を語る人間にも当てはまる、というようなものだ。
すべてが自分に返ってきすぎるという問題を除けば、概ね、有効な思考だろうが、あまり流行らない。
可能と断裂
つまり、断裂がありながらも、継続性がある。
それは、単なる反復にすぎないとしても。
反復こそ、複合の影響下にある・・・というか、本能の詳細はオレたちには検索不可能だ。
性関係
たとえば誰かが「『性関係』はない」と言ったとすると、その真意を推し量ろうとするならば、『性関係』の定義をそれなりに明解にしなければならない。
しかし、それを敢えて明解にしないとすれば、それはある種のスキャンダル狙いということになる。
そして、その主旨を知ろうとするなら、少なくとも60年代に遡れるし、その部分的な解釈は30年代でも可能かもしれない。
女性なるもの
たとえば誰かが「『女性なるもの』は存在しない」と言ったとすると、その真意を推し量ろうとするならば、『女性なるもの』の定義をそれなりに明解にしなければならない。
しかし、それを敢えて明解にしないとすれば、それはある種のスキャンダル狙いということになる。
そして、その主旨を知ろうとするなら、少なくとも60年代に遡れるし、その部分的な解釈は30年代でも可能かもしれない。
アンコール
アンコールが、なぜアンコールなのかというと、文字通り解釈すると、ポスト構造主義ではないからだ。
つまり、70年代のミレールの師は、ポスト構造主義に多大な影響をあたえながら、ポスト構造主義的ではない、ということになる。
第29節アトレティコ・マドリ戦 [サッカー]
第29節はフエラ(アウェイ)のアトレティコ・マドリ戦。
メトロポリターナでのアトレティコ・マドリ戦、相性がいいので当然勝ちにいくべきなんだが、とても勝てる気がしないというのが本音だ。
するべき補強ができていないことと選手の怪我、および監督の力量によって、周囲の期待よりも低迷しているバルサなんだが、最近はなぜか点が取れるようになってきた。
ようやくチャビバルサの、ハイラインでの勝ちパターンができつつある。
とはいえ、これはフレンキーやペドリがいないから仕方なくできたパターンという見方もあるので、なかなか難しい。
ビルドアップ、特に受ける側の動きの改善ができているのは、良い傾向だ。
チャビの対応は遅いんだが、時間をかければそれなりに結果を出すことができる、それでは、CL優勝など望めないんだが。
さて、アトレティコマドリ戦はなんと0-3で勝利。
こんなことを心配していたのが冗談のようだ。
チャビの戦術浸透と、選手の戦う姿勢が蘇ってきたことが要因だと思われる。
とはいえ、この不安定な戦い方は、ある意味バルサらしくもあるとしても、張り詰めた糸が切れた時の反動が怖い。
それが杞憂だということを祈ろう。
認識論的断絶とともに
認識論的断絶とともに、固着されたものの反復が、テキストの歴史のうえで表現されている。
オレたちは、それを発掘しつづけなければならない。
それが分析的な思考方法となっている。
拒絶とは何か
最近気づいたこと。
精神分析において拒絶(Versagung)とは何か、についてわかっているつもりだったんだが、わかっていなかったことに、最近気づいた。
文献が教えるところによると、条約の破棄の「破棄」を示してたり、逆に「約束」そのものを示していたり、さらには「贈与の拒絶」を示していたり、あるいは「頓挫」や「不首尾」と日本語に訳されたり、やや多方面に展開しているため、扱いにくい概念と感じていた。
それでも、「拒絶」は養育者サイドからの拒絶ではないかと漠然と考えていたりした。
言い換えると、その拒絶を受けた側(主体)が「フラストレーション」を感じる図式だという理解をしていた。
だが、それは違ったようだ。
50年代のセミネールでさえ、こういうトリッキーな叙述で書かれていることに、改めて気づいてしまった。
気づくのが遅いというか頭が悪いというか、要するにオレの頭には欠陥があるというかなんというか。
CLラウンド16 [サッカー]
ラウンド16第2戦、バルサはカーサ(ホーム)のナポリ戦で勝ち、なんとかCLベスト8進出を決めた。
ナポリ相手で、中盤に怪我人の多い自分たちの力のなさを踏まえ、ボールを前に進め続けたという、謙虚な姿勢が勝利を呼んだかたちになった。
こういう謙虚な戦い方はある意味バルサらしくないが、いま結果を求めるなら、これしかないのかもしれない。
戦術的には、ハイラインのショートカウンターが主体となっている。
ローラインのウノゼロ型とハイラインカウンター型の二つはできることがわかったが、ポゼッション主体の戦術は取れていないのが、今のバルサの物足りないところかも。
コントロールされた判決
というわけで、知性が劣ろうとも、マヌケだと罵られようとも、コントロールされようとも、ヒトが判断するしかあるまい。
AIによるグローバル管理
AIによってグローバル管理をするという夢を見る向きもあろうが、結果、AIの暴走ではなく、AIを(自らの利益のために)コントロールしようとする輩が出てくることが想定される。
たぶん、それは現在起こっていることと類似していると推測される。
戦争と地球
戦争の動因は、正義だ。
しかし、その結果は「正義のなさ」を示す。
そもそも、戦争の参加国は、いずれにも自国の正義がある。
したがって、それは相対的な正義に過ぎないんだが、地球全体でグローバルな正義を思考することができない。
地球全体の環境や資源について考えることができても、全体の正義について考えることはできない。
全体主義の忌避という側面を除けば、これは謎だが、欲望というのはそういうものだ。
ビルボートHOT100
2024/3/9付、ビルボードHOT100でle sserafimの"easy"が99位にランクインした。
99位ごときで何を言っているんだ、という意見があるかもしれないが、前回言及したトランプが跳梁跋扈してしまうアメリカという国の特殊性を考えると、アジアのグループとして(過去に多からず例はあるが)、これは快挙だ。
Hybeのガールズ・グループのなかでは、優秀な練習生によって結成されたNew Jeansは戦略的に会社から期待されているだろうが、対してle sserafimは、メンバーの経歴や当初想定されていた実力のバラツキ、そして年齢の幅広さといった面ではHybe純正とは言いにくい、特殊なグループだろう。
それでもle sserafimのコンセプトや曲調はデビュー以来、かなり会社側から考慮されたものとなっていて、歴代シングルは順調なセールスを続け、それが今回の活動では逆にメンバーのプレッシャーになっていたという話もある。
メンバーのひとりSakuraは、HKT48時代から周囲に対する配慮や文章力にオレは注目していたが、そのルックスの良さが逆に彼女の優れた才能と努力を見えにくくさせていたようなところがあった。
とはいえ、ファンのあいだでは「プロ」と呼ばれ、卓越したファン・サービスが評価されている。
オレはすべてのスポーツや音楽、アートに対し、エンタメという側面を大切にしている、なぜなら彼らは生き残らなくてはならないからだ、それを生業として生活しなければならないからだ、そして、エンタメ業界で生き残るための努力や技術を考えると、Sakuraなどアイドルの方法論は参考になる。
多くのスポーツを含むエンタメは、優秀なアイドルの活動から学ぶべきだと思うし、たぶんそれが少しずつ世間に認知されてきているという実感はあるにせよ、まだまだ、オレたちが学習することはたくさんあるはずだ。
アイドルやK-POPに疎いオレだが、le sserafimの活動には今後も注目していきたい。
父親トランプ
トランプのような、父親イマーゴを戯画化したような存在が、USAで再び大統領になろうとしているのは、USA国民の心の病が複雑で深いということだろう。
君去りて後(2nd version)
父親イマーゴの弱体化とともに、キリスト教の影響による、個人主義を中心すとるような核家族的な構造(非構造)が形成される。
君去りて後(1st version)
父親イマーゴの弱体化とともに、太古的母権社会を体現するような「退行した構造」が登場する。
認識論的断絶
認識論的断絶というのは、そこから先に革命的な何かが起こった(あるいは将来起こる)ということを前提とした期待の表れを示したものだ。
なので、革命的な何かが起こらない、ということを同時に思考することができる(ということを理解できない人びとがいたりする)。
オレたちが思考の動因としているのは、ほぼ経験則だろう。
たぶん、それも、思考の進度として成功した経験則だと思う。
革命的な何かが起こった思考に酔いながら、同時に、何も起こらないことを想定するのを忘れないのは、大事なことだと思う。
それもまた、(何も起こらなかったという)経験則だから。
なぜそれを忘れてしまうのかといえば、ビジネスでは成功や失敗は糧になるが、何も起こらなかったという経験則は忘れてもよいとされているからだ。
認識論的断絶は、思考を進めるエネルギー源となるが、しかし、それだけでは片手落ちになるという認識を、オレは大事だと思っている。
断絶があると考えたほうが、思考を展開しやすい、というだけのことだろう。
第27節ビルバオ戦 [サッカー]
第27節フエラ(アウェイ)、サン・マメスのアスレティック・ビルバオ戦。
バルサは前半26分にフレンキーを怪我で失う。
この時点で負けたと思った・・・フレンキーとフェルミンでは強度が違う・・・そしてイルカイ・ギュンドアンが後方に来るので、戦術的にしっかり守ってくる相手に得点は期待できない、さらに今のバルサの守備陣では、乗っているアスレティックの攻撃陣を止められない・・・そう考えるのは当然だろう。
その後ペドリも怪我した時点で、目の前がマックラになった。
というわけで、今節の救いは守備陣が頑張ったこと、それに尽きる。
スコアレスドローは望外の出来で、よくぞサン・マメスで0点に抑えてくれたと、涙が出そうになる・・・それが実力だ。
さて、終わったことを嘆いても、牛乳は元には戻らないし、こぼれた水もどこかへ消え去っている。
次はカーサ(ホーム)でのマジョルカ、そして同じくカーサでCLナポリ戦、いやこの連戦は応援の後押しもあるだろうから楽勝で行ってもらわないと困るんだが、フレンキーがいないだけでこうもチーム力が落ちるのか、というくらい動きが悪い。
もはや、ビルドアップで頼みになるのはパウ・クバルシ(あるいはイニゴ・マルティネス)のパスのみ。
ボールを運べるのはジョアン・カンセロとラミネ・ヤマルなんだが、どちらも安定性に欠けている。
とすると、あとはジュール・クンデの一発ロングパスがうまく通ることを願うしかあるまい、これはギャンブルたけど。
第29節アトレティコ戦のことなど考えている余裕はない・・・そう、オレたちに、明日はない。
・・・ずっと前から、ないが。
真実は細部に宿る 続き
精神分析方面だと臨床的には「真実は細部に宿る」という姿勢でいいんだが、理論的には「真実はそこにあるのに、表に出てこない」となる。
真実は細部に宿る [サッカー]
「真実は細部に宿る」はサッカー界だとベンゲルの好きな言葉なんだが、じつに「らしい」言葉だろう。
細かく戦術を詰めていく中で、さらに細かく決めておかないと、監督として試合に臨めないという姿勢だ。
選手の側からすると、結果が出ていればそれでいいが、結果が出ていないと「なんだかなあ」というモチベ不足に陥る。
原抑圧
原抑圧とボロメオを必要以上に強調すると、過剰な評価ということになる。
どちらも大したことはなく、精神分析の単なる普通の要素にすぎない。
というか、強調し過ぎると間違える。
間違えるのが楽しいので、個人的に問題ないんだが、「間違えることは説得力が無くなる」と考える人もいるので、表現が難しい。