無知の知
「無知の知」だけから出発するのは、哲学の限界といえるかもしれない。
無知の知を、「無知の知」と「無知の非知」に分類できないからだ。
理外の理
理外の理には二種類あって、「理外の理」と「理外の非理」に分類できる。
これが理解されにくいというのが現状のようだ。
「理外の非理」の例として考えられてきたのが、パトスと神々だ。
しかしそれだけでは不足している。
権威主義
誰もが権威主義を嫌うんだが、サラリーマンの生き方は、つい権威主義にすがるところもある。
なぜかというと、サラリーマンは組織の一員にすぎないから、何か悪いことが起こった時には、役員のような権威のある人のせいにしておけば、自分に責任が及ばないからだ。
ホリエモンが近鉄を買いにいったときに、ナベツネに挨拶しておかなかったために、ナベツネに反対されてダメになったという話がある。
そこに日本の悪いところがあるよね、という話なんだが、逆に言うとナベツネに挨拶さえしておけば良いのであれば、それはやるよね、ということで、単に仕組みを知らなかったホリエモンの運がなかったということだろう。
要するに、法的根拠はないにしろ、事実上プロ野球はナベツネによる許認可事業だったという話だ。
神々の本性
正直、神々の本性などどうでもいいし、気にしたことなどないんだが、この本が重要なのは、キリスト教以前の、人間世界とは別の世界を、人間がどう捉えていたのかという格好のサンプルになっていることだ。
そして、それが実は精神分析の思考と嗜好に役立つんだが、とりあえず置いておこう。
さらに言うと、これは「語りえぬことを語る」弁論術の技術集として捉えることもできる。
あるいはまた、紀元前当時のギリシア・ローマ神話の索引的な意味もある。
もっと言っておくと、エピクロス派とストア派と新アカデメイア派の思想的傾向の違いを知ることもできる。
結局、神学的な見地からするとストア派が一番まともだということになるんだろうけど、それを鵜呑みにするのは良くないよという新アカデメイア派の意見も理解できるし、もしかすると、エピクロス派の発想は一番現代に近いのかもしれない、という考え方もできるだろう。
というわけで、キケローはなかなかの人物だということがわかった。
オレの中では、イチローにはかなわないがスシローよりも上だな。
キケロー
とはいえ、勢いで読み切ってしまうこともある。
キケローの「神々の本性について」を、ついつい読み切ってしまった。
こんなのを読んでいることで、もはや自分が何をやっているのか理解できなくなるんだが、しかし、オモシロかった。
つーか、読まないと人生損するよ、というタイプの本だ。
ただし、この本の読み方の可能性はいろいろあって、オレはかなり特殊な読み方をしているし、すでに普通に買うことはできない状態なのでお勧めはしない。
でも自分の価値観が変わるくらいの魅力ある言論だ。
キケローって、イチローとスシローの次に来る三番目の名前だよね。
積読至上主義
オレは積読至上主義者だ。
つまり、読んでいる本があまりにもオモシロいと、結末を読むのがもったいなくなって、放置してしまうからだ。
というのは半分ウソで、単に読むという作業に疲れてしまうからだ。
よい言い方をすれば、それくらい真剣に読んでいるということで、わるい言い方をすれば、根気がない、「知的持久力がない」ということだ。
引用
ペトラルカを引用するなら、キケロの精神を・・・そしてキケロを引用するなら、精神分析を・・・これ以上語るべき言葉はない。
じつに単純なロジックだ。
外部
無意識は外部からやって来る。
そうでなければ、精神分析の療法が成り立たない。
これが内部にあると思うのは、深い内的反省を経なくてはならないが、それを意識として認識できるのであれば、そもそも無意識とは別のものだ。
ロジックとして、シニフィアンとして、自己の内部にあると思うものは、それは単に意識のものだ。
こういう基本的なことで躓くと、その先には進めない。
ラージョ対ジローナ
そういえばリーガ第13節のラージョ対ジローナが面白かった。
ちょっと泥臭いけど、こういうサッカーをいつも観たい。
とくにやや不利と見られていたラージョがカーサ(ホーム)とあって頑張っていたので、好試合となった。
ジローナはいつもの4バックからの可変ではなく、基本3バックで、ミゲルが中盤の選手(ただし左サイドのフリースローはミゲルが入れていた)になっていたのがオモシロい、ミチェル・サンチェスの戦術の幅広さを感じる。
基本3バックにする理屈は、単に相手が2トップ気味だから、ということだと思う。
前半24分にAガルシアがやや遠めのパスに失敗したら、ミチェルが怒っていた、こういうところが楽しいと感じてしまうのは、オレが老人化した証拠か。
Eガルシアがふつうに活躍しているのを見ると、ついうれしくなってしまい、まるでただのサッカー好きの爺さんになっている今日この頃、サッカーを楽しく観れたらそれでいいや、という感じ。
ペトラルカ
ひさびさにペトラルカでも読もうかと思い、本棚に手を伸ばす。
が、その前に読むべきものがあるだろう、と伸ばした手を引っ込め、しばし熟考し、キケロの『神々の本性について』を読むことにした。
紀元前のラテン語の著作を、21世紀の日本人がどうやって読むのか、という最大の難関が待ち構えているんだが、今の時代には既に翻訳という素晴らしい技術があるわけで、知識が不足しているうえに知能指数の低いオレたちはその恩恵を被らないと生きていけない・・・翻訳の世界に感謝しよう。
例によって結果的に積読になるのは避けられないんだが、実はその読み方を読む前から決めてある・・・つまり反転して読もうというわけだ。
ストア派だろうがエピクロス派だろうが新アカデメイア派だろうが、神々や自然等について考えることは、その当時の物理学とか天文学の知識を前提にしているとしても、それらを裏返して考えることがオレたちにとっては重要な思考の成果となる。
また、同じ成果に至るのかもしれないが、ローマ帝国的な文化を暗黒文化と呼んでしまうような文化史を是とするなら、カトリック的な発想を非とするわけで、その発想をキケロから引っ張ってくるというのも、それはそれで得るものがあるだろう。
他人の主張
他人の主張が正しいなんて、何の意味があるのか。
あるいは誤っているなんて、何の意味があるのか。
どちらも、考えたことすらない。
バルサ対アラベス [サッカー]
リーガ第13節、モンジュイックでのアラベス戦。
可変だからどうでもいいんだが、カンセロが左ラテラルというより、イリ―(イルカイ・ギュンドアン)と共にピボーテのポジションにいる時間が多かったので、3バックと考えれば、前半は3-2-2-3。後半はペドリがピボーテに入って3-2-5で点を取りにいく。
先取点を取られた場面でのボールロストはイリーだった、それはチーム哲学的に想定内で、ラインの上げ方は、もちろんリスクを取り過ぎなんだがご存じのようにバルサとはそういうチームだ。
チャビはペップに比べて判断がずいぶん遅いがそれでもいろいろ工夫している・・・しかしそのほとんどがうまくいかないのはかわいそうなくらいだ。
前半30分に、クンデとアラウホの位置を変えた、これが遅いのか遅くないのかはよくわからないが、クンデでも抑えきれなかったなら相手FWサムをほめるべきだろう。
この布陣で一番問題なのはペドリとフェルミンの肉体強度が弱いことで、前半アラベスのプレスは彼らを特に狙っている、というか誰もが狙う、基本的なセオリーだ、そしてこの試合の審判はファールを取ってくれない・・・そして後半ペドリがピボーテの位置にいるときはなぜかファールをもらえる。
これを書いても意味はないが、この問題の真の解決策はガビとフレンキーで、彼らがベンチにいないことが、この試合の苦戦の原因だ。
正しいこと・・・とは何か
少しでも精神分析に関係した者は、正しいことを語れない。
正しいこととは、つまり「論理的に正しいか」、「倫理的に正しいか」、「美的に正しいか」のどれかということなんだが、いずれにしても正しく語るのは無理だから、諦めよう。
というか、諦めない方々が多過ぎるのがオモシロイ。
正しいことを主張する
自分(の言説)が正しいと主張するのはいいが、それは内容ではなく形式だったりするので要注意。
オレが言いたいのは「形式に内容が伴うこそがすべて」ということではなく、「形式が正しい」としか言いようがないということだ。
そこが弁論術の・・・論理学の・・・そしてついでに哲学のキモとなる。
この奇妙なロジックはもう紀元前から「決められている」ことだ。
こっそり更新
物理学と宗教
神は存在しない、と我われのうち少なからずの人数が考えているようだが、ではなぜ欧米の物理学者たちの多くはクリスチャンなのか。
詳細は省くが、これを理解するには、ギリシア・ローマ的な神々と、キリスト教的な神を分けて考えるべきだろう。
というのは、キリスト教というのは欧米の文化、もっと言うと欧米の精神、つまり生活の基盤として機能してしまったからだ。
それくらいキリスト教の影響力は甚大だ。
物理学の理論では神の存在を必要としないのにもかかわらず、物理学者たちは神を信じなければならないという、ある種錯綜した理性をどう考えるべきか。
それは、キリスト教以前の、ギリシア・ローマ的な神々についての思想(日本の八百万の神々についての思想)を学習するしかないと思う。
症例ドラ
症例ドラは『饗宴』の前提のひとつとなっている。
ドラはK夫人の中に、「女性とは何か」の答えを見出そうとし、その答えの構造のキーマンがK氏だと想定していた。
しかし、K氏は「自分が何を持っていないかを知っている」と発言したために、彼がドラにとって何の役にも立たないことを彼女は理解した。
K氏は(あるいは、本来的に言えばドラの父親は)、ドラに対して、持っていないものを象徴的に与えるという作業が必要だったが、それがなされなかったことがドラの不幸だった。
そしてドラはフロイトも同様に「役に立たない」ことを、彼自身に知らしめる行動を取った。
・・・症例ドラにはもうひとつ別の観点、つまり贈与の観点からの考察をしないいけないんだが、ここでは省略する。
メタクス
プラトンは偉大だ。
メタクスという言葉だけでそれがわかる。
「メタクスという言葉」という表現がすでに、何かを逸脱している。
精神分析は臨床がすべてだ
まったくその通り、とくに異論はない。
忘れていたが、オレもずっとそう考えてきた。
精神分析の臨床としてのリアリズムは、ドルトとかオグデンとか、それ以外ではクライン派に感じることが多い。
臨床経験のない人間による、読書のみの体験を、個人的な印象とか感想で語っているにすぎないので、あくまでも参考のみ。
精神分析は哲学ではない
前からもチラホラ言われてはいたが、精神分析は哲学ではない、と、ここ数年、盛んに言われ始めたのはミレールの影響か。
ジジェクやバディウの「普及活動」を黙認してきたくせに、いまさら何を言っているんだ、という感じなんだが、そこは政治的な何とやらで・・・いやミレールのプライドの問題か、つまり独裁政権の弊害か、あるいはビジネスとしての精神分析(というジャンル)の生き残りを賭けた、捨て身の足掻きなのか。
精神分析が哲学かどうかは、ソクラテスがどこまで精神分析的か(『饗宴』を読もう)ということに掛かっていて、ということはつまり、精神分析の支持者たちがソクラテスは馬鹿だと言いたいのか・・・ということの真偽を、第三者審議機関の人たち(たぶんプラトンが適任)に聞きたくなる。
あるいはまた、ヘラクレイトスからニーチェへと至る系譜が精神分析とまったく無縁なのかと問うだけの知性が、オレたちに不足しているという確信もある。
いずれにせよ、精神分析が哲学ではないというのは、ソクラテス的には正論だが(くどいようだがこの事情を知るには『饗宴』を読むしかありませぬ)、そのようなソクラテス的正論の「幅」を、精神分析の側がどれだけ理解しているのか、という本質的な問題が残っている(蛇足として一応書いておくと、少なくともミレールの師は、その「幅」を理解している)。
精神分析は哲学ではない、と主張する人たちは簡単に、神話も捨ててしまうのだろう・・・でもそれは「神」を棄てる袋とは別の袋に入れて、資源ごみとしてリサイクルしないと。
ディオティマ
ソクラテスの限界を示すのがディオティマだというのは本当か。
あるいは、ソクラテスの分裂としての存在を示しているというのは、本当か。
超自我
超自我は「享楽せよ」とか「暴露せよ」とか命令するが、その裏で何かを隠そうとしている。
それこそが本来の超自我の役割だ。
神々
プラトンはソクラテスの価値を、現代のオレたちよりよくわかっているが、神々の価値をわかっていないか、わかっていないふりをする。
それがまた実にユニークだ。
プラトン
オレたちはプラトンを通してしかソクラテスを認知できないという事実をどう考えるべきか。
つまり、ソクラテスそのものを認識するのは不可能だ。
そしてそれが、オレたちを上手に動かしている。
ガール
ガール・イコール・ファルス。
これが示すのは、ある意味倒錯的だが、倒錯というのは、論理的思考による結果だということを、ついつい忘れてしまいそうになる。
存在論的な意味さえ考えられる。