ラポート
サポートとラポートをよく学ぶことが大事だ。
性関係がないとは、一言で言うと、そのどちらもないということだ。
あるいはもう一つ言えるとするならば、愛し合うこと、それを(欲望や享楽の論理で語ろうとすると)奇跡と呼ぶべきだろう、ということだ。
他者なき享楽
前期で頻出していた他者の欲望は、他者の享楽(シュレーバー症例)を経て、他者なき享楽へと変遷する。
それは現代的精神病の特徴として示されている。
フォンジー・ソーントン [私的名盤]
ときどきフォンジー・ソーントンfonzi thorntonの『ザ・リーダー the leader』を聴いている。
1983年の作品なんだが、そもそもフォンジー・ソーントンとはだれなのかを説明しなくてはならない・・・しかしオレはよく知らない。
ルーサー・ヴァンドロスとかシック(メンバーではない)などでお馴染みのコーラスの兄ちゃん程度の知識しかなく、申し訳ない。
とはいえこのアルバムは、1983年当時のNYの凄腕がわんさか集まっていて、たぶん楽曲のコピーをしようと真剣に聴くだけで勝手に腕が上がってしまうだろう、というくらい素晴らしい出来だ。
とくに、グルーヴがいい。
粘っこいファンクではなく、シンプルで都会的なファンクなんだが、じつに気持ちがいい。
リズム・アンサンブルとはかくあるべし、名盤。
第26節 ヘタフェ戦 [サッカー]
アウェイのCLナポリ戦は同点で、今のバルサなら僥倖の出来と言わねばなるまい、ナポリもよくなかったけど。
リーガ第26節はカーサ(ホーム)でヘタフェ戦。
セントロは右クバルシ、左アラウホで、保持時の3バックはクバルシが真ん中、これで最終ラインはあと15年は安心だし、数年後にはカピタンにもなれる、頑張れクバルシ。
序盤は予想通りヘタフェのプレスにやられてボールが繋げず、ビルドアップできず、クリステンセンに展開力はないし、頼みのフレンキーが狙われたりして、「バルサらしさとは何か」という哲学的問いにしばらく浸ってしまうような出来だった、ボールがつながるのはカンセロのところだけという体たらく。
一点目は、今のバルサならこれしかないという、カウンター、クバルシ→クンデ→ラフィーニャ、先発のラフィーニャが期待に応えた、守備も頑張っていたし、いい選手だがなかなか結果が出ていなかった。
後半に二点目を取ったジョアン・フェリックスはある意味天才とも呼びたくなるようなボールコントロールができる選手だが、全体的にプレイが軽いし、緩急のつけ方が下手で、なおかつ感情にムラがあってそれがプレイに如実に出るので、なかなか評価が難しい、オレの評価ではラフィーニャより低い、とはいえ前線の選手は得点という結果が出れば何でもありだ。
この二人に関しては、ラインの裏に飛び出す意識が高かったので、ヘタフェ相手の戦術としては成功だろう、これはチャビの功績だとはっきりさせておこう。
そしてこの二点目では、バルサらしい繋ぎがやっと出た、クバルシ→ギュンドアン→ラフィーニャ→クリステンセン(!!)→ジョアン・フェリックス・・・チャビがやりたいサッカーはたぶんこういうことだと思うし、それを目指してやっているのにできないのはなぜか、についての答えをここで書くつもりはない。
56分、オフサイドになったがラフィーニャからレヴァンドフスキ―へのパスは絶妙だった、このプレイを見て、オレはようやく、後半のバルサは珍しく調子がいいかも、と感じた。
三点目は、フレンキーが敵陣までボールを運んで、ギュンドアン→ラフィーニャでこぼれたところ(ラフィーニャの冷静な繋ぎ)を、フレンキーが冷静に押し込んだという展開。
62分、フェルミン・ロペスがジョアン・フェリックスと交代出場、ジョアンの不満顔が印象的だったが、これは正しい交替だと言えよう。
結果として4-0でバルサの勝ち、この結果をもたらしたのは「決定力の差」という考え方もあるんだが、決定力があるとかないとかは監督の思考にはないもので、監督が考えるのはただチャンスの回数を増やすことだけだ。
決定力は、選手の質と必ずしもイコールではないし、評価基準として分かりにくい、だから「決定力の差」という言葉は無意味だろう。
もし言うとすればヘタフェの守備に多少穴があったということだろうが、間違いなく穴があるのはバルサの守備陣なので、多くは語らない。
父親イマーゴ
父親イマーゴの衰退がもたらしたのは、その症状の表現方法の変化だ。
決して、病そのものではない。
病そのものを考えれば、おそらく(現実の)父親の果たしている役割は小さい(想像上の父親も同様、では、象徴的な父親はどうだろうか)。
しかし父親イマーゴの衰退は、主体への言葉の関わりが小さいことを示しているのではなく、むしろその関わりしかないことを示している。
家父長制度が女性性を隠蔽しているのは、その影響力が大きいことを無意識的に知っているからだ。
オレたちはつねにその両面性を抱えながら生きている。
単純に言うと、どちらが表でどちらが裏かということは、無意識には関係ない。
つまり、そもそも父親イマーゴは単なるハッタリにすぎないことを、オレたちの無意識はすでに(20世紀初頭辺りから)知っている、ということになる。
構造の前提
構造とか非構造というのは、その前提に二つの領域がある。
一つは、もともとあるもの。
もう一つは、もともとあるものの失敗に対応してできた複合的なものだ。
主に後者が構造、あるいは非構造を形成する。
初期の発想
どの思想家を見ても、初期の発想というのはオモシロイ。
それは浅さや拙さを感じさせるものだが、しかし、後にはない野心が見え隠れする。
構築物の基礎部分という考え方もあるし、捨てられた宝の山という考え方もある。
それをどう捉えるかは、読む側の力量次第だ。
理論的変遷
理論的変遷を辿って行けば、全体像が理解できるようになる、というのは誤解だ。
最後に残った理論が正しいという発想も誤解だ。
強く長く主張された理論が正しいという考えも誤解だ。
理論的変遷は誤解を招きやすい。
そもそも、オレたちはそこから何を学ぶかということが大事で、誰かが何をどの時期に言っていたかということはさほど問題ではない。
それによってオレたちが変わっていく過程が大切だと思う。
概念の整理
つまり概念を整理するための言説と、実際に起こっている現実とは、本質的に乖離しているということだ。
偉そうなことを語るときは要注意。
いや、これはオレ自身に対して書いてます。
言葉
シニフィアンは、トラウマの構造を構築するときもあるし、横滑りを続けるだけのときもある。
主体の位置を決定する働きもするし、主体を不安にする働きもする。
あるいは、言葉は対象aのひとつなので、欲望(あるいは欲動、享楽)の対象にもなる。
この言葉の多様性こそが、事態の複雑さを示している。
それはつねに失敗している。
なので、無意味だと思ったり、ある特定の史観に囚われたりする。
それは非構造的な構造だ。
つまり、非言葉的な言葉だ。
例えば、父性的なものが崩壊した後に、何が続くかというと、その崩壊が続いていくだけだ。
構造は崩壊するが、その崩壊という「構造」は瓦礫として残る。
いくらかの再建築を試みようとする多様な動きはあるだろうが、それらは叶わない。
叶わないことを嘆くのではなく、叶わないことを認めていきたい。
そして、そこにまったく手掛かりが無いわけではない。
意味
結局、断裂とは意味の一種だ。
意味は、あまり意味がない。
そういう意味で、ある意味、無意味だ。
意味という名の病というより、意味がオレたちを狂気へと導く。
歴史観
オレたちは歴史を、断裂の連続として見たがる。
特にマルクス的な史観が、それを助長させてきた。
別にそれでもいいんだが、しかしそれだけがすべてではない。
というか、オレたちは騙されるようにできている。
第24節グラナダ戦 [サッカー]
バルサ第24節はカーサ(ホーム)でグラナダ戦。
3-3の引き分けだったが、点の取られ方を含め、だいぶバルサっぽくなってきた。
バルサ(らしさの)復活までもう少しだ。
結果の出ない、出せない監督はクビでも仕方ないが、チャビの伸びしろはありそうなので10年後ぐらいにまたやって欲しいとは思う・・・が感情のコントロールを学習しないと無理だろう。
メッシがいなくなってからは暗黒時代と言ってもいいんだが、暗黒時代にも「らしさ」が必要だ。
金銭的な事情やフロントの「質」により、しばらくはリーガ4位以上、CLはグループリーグ突破を目指すチームとなるだろうが、それはそれで楽しい。
スーパーリーグには、とりあえず反対だ、ただ、試合数を減らすことは賛成する。
選手の怪我が多いのと、選手の質がアスリート能力に寄っているのは、サッカーのオモシロさを半減させていると思う。
しかし、カンセロとクンデをこうやって使い続けるのはバルサならではなのか、チャビならではなのか、ラポルタならではなのか、デコならではなのか、なかなか判別が難しい・・・ということを含めてバルサっぽい。
今後の移籍を考えると必要なのは4番と左エストレーモ(ウイング)ということなんだろうが、4番(マルク・カサード!)は自前で育てるべきだと思う、ラテラル(サイドバック)も同様、ラファ・マルケスならきっと育てられる。
この引き分けで、ラポルタが激怒しているらしい・・・会長と監督の両方が感情的になって、チームがうまくいくことはない・・・とすれば、逆に雌伏のときと捉えるべきだろう。
構造
オレたちは混沌に意味を求め、そしてそれが叶わぬことを知る。
しかし、求めることは無価値ではないし、断片的な成果もある。
構造は「非構造」として在り、まるで構造があるかのように機能し(失敗し)ている。
セラピーとは
『ディズニー・セラピー』読了。
ついつい最後まで読んでしまった。
とはいえ、いくらかの時間はかかった。
オレたちが為すべき思考のひとつとなるだろう。
神話の効果 [メモ]
メモ。ロン・サスカインド『ディズニー・セラピー』(訳P267)より。
(引用開始)
オーウェンが選んだ愛情の対象は明らかに、神話、寓話、伝説への扉を開いた。グリム兄弟にならい、ディズニーは昔話の広大なレパートリーをすくい上げ、鍛え直す。あらゆる文化が語ってきた「美女と野獣」の類型、それは3000年前の古代ギリシャ神話「キューピットとプシケ―」までさかのぼり、そして確実に、それより前にも存在しただろう。これは人類が常に、世間を渡るため、自分たち自身に語ってきた物語だ。人びとは典型的な話を取りこみ、それらを使って自分たちの道を切り開いてきた――そこに知恵が蓄えられる。これは、ほんの一例に過ぎない。
(引用終わり)
神話が人の心に、どのように機能してきたかは、たとえばレヴィ=ストロースが多くを語っているが、ここではそれらのひとつが証言されている。
「構造主義」という学問的ジャンルが効果的だということを証言しているのではなく、精神への、神話の影響力の強さを示している。
どうでもよいことだが、「キューピットとプシケー」の話は、ジャコポ・ズッキの絵のテーマとして、セミネール(8巻)にも出てくる。
ディズニー・セラピー
ロン・サスカインド『ディズニー・セラピー』(ビジネス社)読み始める。
迷わず読めよ、読めばわかるさ、というタイプの本だ。
これも途中で積読になるかもだが、文章は平易なので最後まで読む可能性はある。
対象a
よく考えてみると、対象aの話は、もともと鏡像段階のパラノイア性認識とつながっている。
後になって、対象aに多くの「解釈多様性」と重要性を付与したためにそれが見えにくくなってしまった。
関連
パパン姉妹の話は症例エメと同一平面だし、ねずみ男の症例は盗まれた手紙へとつながっている。
1930年代と1950年代には断絶があるようでないようでよくわからないが、それは鏡像段階云々よりもエディプスからの脱却という側面が大きい、死の欲動についての本格的な言論も50年代から。
60年代は、一部、鑑別診断が曖昧になったりしていてオモシロい、この時期を「幻想の横断」と一言で済ませられるならよいが、単純にはいかない。
70年代は症例的にはパラノイアからスキゾフレニーにシフトしている感じで、これはこれで興味深いが、理論的な部分で謎が多く、難解で晦渋でスキゾで楽しい。
いわゆる「普通精神病」をどう扱うかについては、ミレール派の論文では個人的に食い足りず、イマイチ乗り切れないので、模索中。
相互理解の忘れられた構造
そこに構造らしきものがどのように登場するかというと、過去の世代の言説パターンが、若い世代の行動パターンの解釈として相応しいと判断されたときに、現れる。
相互理解の源
フリュストラシオンは初期の刻み(の跡)だが、その刻みのパターンを主体が理解していくことで、コミュニケーションの基盤となる。
その表現のパターンと「記されていること」の組み合わせを互いに模索することが、相互理解の礎となる。
もちろん、その刻みのパターンは確立されたものがあるわけではないので、厳密に探究していくと、究極的には「記されていること」が消失してしまう。
そのような儚い雲のようなものの上に、オレたちの相互理解が積み上げられていく。
構造主義の彼方
性関係はない、と言った途端に構造主義とは離れていく。
じつに明確でかつ単純だ。
つまり「それ」を言うためには、構造主義というひとつの地盤が事前に(前-世代に)なければならない、ということを前提としている。
涙の数だけ
心身の調子が悪くなって、そこから復活できるかどうかの測定に、「涙の数だけ」(「はじまりは今」収録)が使われることが多い。
なぜだろう。
ジャン・ジュネ
ジャン・ジュネの戯曲を読めば、秩序がないということが制御と深く結びついていることがよく分かる。
遺伝的な要請からとはいえ、主体には理由もわからず超自我が要請されるのに対し、超自我が(裏で享楽とともに)要請するのは無秩序だから混乱が生じる。
しかしその無意識的な混乱は、一方で「否認」という形により、将来の欲望充足を担保するという、社会的な制御を機能させる。
ということをジュネはよく理解して戯曲を書いている。