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クーマンはレジェンド [サッカー]


 久しぶりに報道内容に右往左往している。

 もともとサッカー関係の移籍話は8割以上「飛ばし」で、その眉唾な話に振り回されるのが楽しい、という構図になっている。

 とはいえ、「バルサからメッシがいなくなるかも」というのは大ニュースだ。

 登場人物を考えてみよう。

 まずは悪の首領「のび太」。

 そして悪代官の「クーマン」。

 クーマンは一応クラブのレジェンドなんだが、オレの中では常に「一応」を加えるべき存在だ。

 つまり、今までの実績は「過去に活躍した高年齢選手の首を切る」「若手の登用」「適切なポジションを与える」「頑固な性格」「画期的な策はない」というもの。

 バルサでどのような実績を作るかどうかは不明だが、チャビ監督誕生までの一年限定と言われているこの状況だと、逆にギャンブルをやりやすいのかもしれない。

 むしろ、このタイミングで監督を引き受けるというのは、すでにギャンブルと言うべきか。

 そして主人公は「メッシ」。

 彼の意図は誰のためなのか。

 いったい何のために。

 会長選挙が来年の3月、新しい会長は8月から。

 この選挙結果がすべてを示すことになるのか。

 そして「のび太」のツケの払いはどうなるのか。

 あるいは「一応レジェンド」のクーマンは監督を続けられるのか。

 選挙結果を受けてチャビやブジョルがどう動くのか。

 そして何よりも、目前に迫った新シーズンはどのようなメンツで始まるのか。


 というわけで、じつにオモシロイ。

 試合以外でワクワクしてはいけないんだが、こんな機会はめったにないので、たまにはいいだろう。






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存在と思考 その4


 個人的には、存在と思考以外に「それら以外のモノ」という第三項があると感じているが、この発想自体がすでに「思考」の側にある。





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存在と思考 その3 [メモ]


 メモ。

 存在と思考の狭間で「コギトの脱落」が生じる。

(エクリを読む P231)






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存在と思考 その2 [メモ]


 メモ、フィンクのラカン的主体の続き。

 思考の側。

 知/シニフィアン。

 精神、無意識、マテーム。






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存在と思考 その1 [メモ]


 メモ、フィンクのラカン的主体。

 存在の側。

 享楽。

 身体、話すこと、言表すること、言うこと、愛、憎しみ、そして無知。





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メッシは戦術家 [サッカー]


 メッシは戦術眼に優れていて、その言語化もうまい。

 しかもバルセロナというチームに対する愛着は半端ではない。

 チームの将来(改革)のために、敢えて身を引いたと考えるべきか。

 あるいは現体制を早急に崩壊させるための、壮大な計画の一環か。





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文化省 [メモ]


 メモ。


ハンガリー人「今度、オレたちの国に海軍省ができるんだ」

ロシア人  「なんだって、君の国には海がないのにどうして」

ハンガリー人「でも君の国には文化省があるじゃないか」






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ウイング [サッカー]


 左ウイングはアンス・ファティで充分だ。

 とすると右はメッシになるが・・・移籍か・・・残留してメッシを生かそうとするならばたぶん3バックにするしかない。

 メッシ移籍後のフォーメーションを現有戦力で仮に考えるとすると、右にデンベレかリキ・プッチ、隠れトップにグリーズマンが妥当な線になる。

 ウイング向けに若いのを何人か獲ったし、前線はそう困らない。

 スアレス、メッシを欠いて、点が取れるかどうか・・・という根本的な問題が残るだけだ。









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バルサが今のバイエルンに勝つためには [サッカー]


 バイエルンとかリヴァプール的な戦術を相手にした場合を想定すると。

 戦術面だけを考えるならば、バルサはMSNの栄光を忘れるべきだ。

 とりあえず、スアレス的なCFは不要。

 そもそもクライフのトータルフットボールには(理念として)専門のCFは要らない。

 バルサとはあまり関係ないが、ファンバステンですら、攻撃的MFと捉えることができる。

 要はMラウドルッブ的な存在でいい。

 その代わり両ウイングが、がっつりサイドに張って相手サイドバックを抑えておけばいい。

 それだけでバルサの戦術は半分くらい成功しているし、今のバイエルンにも通用するだろう。

 ウイングが相手SBを抑えた後に、こちらのSBが上がっていく。

 この緊迫しながらもゆったりとした展開・・・これこそがトータルフットボールの醍醐味なんだが、なかなか試合で実現しない。

 わかりやすく言うならば、相手サイドバックの裏を取るのではなく、前に出させないことが肝要だ。





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キケ・セティエン [サッカー]


 つい先ほど気づいたんだが、バイエルン戦でのキケ・セティエンの戦術は「バルサの哲学として」間違っていなかった。

 フロントのせいで選手からの信頼がなくなって戦術が機能していなかったのが敗因だ。

 徹底が足りなかったのは、スアレスとメッシがもっとワイドに張るべきだったこととだ。

 そうすればビダルがトップ下にいる意味が生きる。

 結果として言うならば、ここ数年続いていた「メッシ依存」プラス「スアレス依存」を払拭できなかっただけで、やろうとしていたことは間違っていなかったし、やれていればバイエルンなど・・・・・・というのは負け惜しみです。

 とすれば前回書いたドブレ・ピボーテは、無しとしなければならない。

 歴史を紐解けば、要するに今回のバイエルン戦に見られるようなバルセロナの凋落は、「ルイス・エンリケの現実的な戦略」に始まったといえる。

 フロントがバルサの哲学を無視した強化の結果だから、ルイス・エンリケが諸悪の根源だと言うつもりはないが、前線の三人(の個人技)で勝てるサッカーは、選手が変われば通用しなくなってしまう。







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バルサで今考えていること [サッカー]


 GKはテア・シュテーゲンで行くしかない。

 CBはラングレ確定でピケは不明、補強必要。

 SBは右のセメード確定らしい、左のアルバが不明、補強対象。

 中盤はもしかするとドブレ・ピボーテを考えている可能性があり、ピャニッチとデ・ヨングを並べて使うような気がする(と書きながら、違ってほしい、というのが本音)。

 このポジションで言うと、果たしてブスケツを売るだけの器量がバルサフロントにあるか。

 とすると、バルサの哲学を離れ、久しぶりに4-2-3-1が見られるような予感(しつこいようだがそうではない・・・というのが願望)。

 あとは4人の攻撃陣で、メッシとグリーズマン、デンベレ、アンス・ファティはほぼ確定、怪我や年齢を考えればあと2人は必要か。

 メッシが移籍ならコウチーニョは必要だと思うが、新しい体制ということもあり、補強対象になりそう(クーマンの意図でコウチーニョ残留との報道あり)。

 なお、ブラウトバイテはクーマンの好みではないような気がしてきた。

 デンベレ、グリーズマン、コウチーニョの「期待はずれ3トップ」を個人的に見てみたいが、たぶん無理だ。

 攻撃陣については、ネイマールやラウタロは資金的に無理だから、オランダ絡みの妥協補強になるだろう。

 なので、優先順位からは残念ながらデ・ベーグは来ない。

 一番期待できる補強はアシスタントコーチのスロイデルだということを、ここで強調しておこう(彼が1年しかいない~会長選挙の結果で監督が代わりそうというのが理由~のは残念だ)。

 スロイデルの言うことを誰も聞かなくなったら、会長選挙を待たず、クーマン体制は即崩壊となる。






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隣組 [メモ]


 メモ。


 とんとん とんからりんと 隣組

 格子を開ければ 顔なじみ

 回して頂だい 回覧板

 知らせられたり 知らせたり


 とんとん とんからりんと 隣組

 あれこれ面倒 味噌醤油

 ご飯の炊き方 垣根越し

 教えられたり 教えたり





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メディア [メモ]


 メモ。

 皆さま方、決心はできておりますの、子供らを手にかけて、できるだけ早く、この地を立ち去ろうという――。ぐずぐずしていて、あれたちを、もっとひどい人たちの、手にかからせるようなことはなりません。あの子たち、どのみち命はないのです。そうというなら、生みの母の手にかかるのが、せめてもの幸せと言えましょう。さあ、心を鬼にして――。何をためらおうというの、恐ろしいことだとはいえ、やらねばならぬことではないか。さあ、かわいそうなこの手よ、剣をお取り、さあお取り、苦しい世の始まりへ突き進むのだ。女々しい心に、子供の可愛さを、生みの子供の可愛さを思ったりするではない。せめて短いこの一日だけ、お前の子供らのことは忘れておしまい。そのあとで泣いてやればいい。あれたちを手がけるにはしても、可愛さには、変わりはないのだもの――ああ、それにしても、何という不幸な女だろう、このわたくしは・・・・・・。

(メディア ちくま文庫 ギリシア悲劇 III P134)





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結婚間近の男 [メモ]


 メモ。

 結婚間近の男がいた。

 彼は、相手の女性の、片一方の足が短く、少しその足を引きずっているのが不満だった。

 結婚仲介をしてくれた会社の担当は言った。

「あなたは間違っています。健康で五体満足な女性と結婚したと考えてごらんなさい。どういうことになりますか。あなたは彼女が転びはしないか、足を折りはしないか、そして生涯足を引きずることになりはしないか、一日たりとも安心できません。そして精神的苦痛やら憤懣やら医者への支払いまで! ところが、彼女ならそんなことにはなりません。なにしろ、ことはもう済んでしまっているんですから」

(「機知」フロイト著作集4 P283 少し現代風へと改訳)






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デリダと鍋の論理 [メモ]


 鍋の論理についての単なるメモ。

 最初に発見したのは「真実の配達人」(デリダ読本P98)。

 次は「抵抗」(精神分析の抵抗P21)。

 おまけ、フロイト「機知」(著作集4 P282)。






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クーマンのアシスタント [サッカー]


 アシスタントコーチは、スロイデルとラーション。

 こうなると、一番要らないのはクーマンかも。

 いや冗談です。






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クーマン [サッカー]


 新監督のクーマンは「破壊者」としての役割を持っている。

 うまくいけば彼の思惑通りに行くだろうが、たぶん、会長選の関係で政治的にうまくいかない。

 とはいえ、「サイクルの終焉の推進」にうってつけの人材という説は正しい。

 あとは、彼がどれだけ「持つ」か、それだけが興味ある。

 もう一つの役割は、中盤選手のさらなる覚醒だ。

 少なからず進むだろうオランダ化によって、確固たる地位を築くのはデ・ヨングになると思う。

 アヤックスと代表での中心選手だとしても、バルサでどれだけ活躍できるのかは未知数だ。

 ただ、潜在能力はチャピやイニエスタに匹敵する。

 彼らが本当の意味で中心選手になったのは20代の後半だ。

 それを考えるとデ・ヨングに限らず中盤選手の「覚醒」は、伝統哲学へ新しい血を導入することになるだろう。









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居なくなるのは誰だ [サッカー]


 バルサから離脱するのは誰だ。

 アルトゥールは確定として。

 ラキティッチ、ビダル、ウムティティ、ジュニオールくらいか。

 スアレスを手放すことができれば、「改革」の意味も少しは出てくるが、仲の良いメッシの反発が予想されるため、そのような勇気のあるフロントは存在するだろうか。

 もちろん獲得する選手によるが、たぶんバルサに金がないのでネイマールとかラウタロは無理だろう。

 ブラウトバイテはCP高く、使い勝手が良いのでサブに置いておきたい、センターフォワードをやらせるという手もありそう・・・だがよい9番が取れれば放出候補だ。

 ピャニッチはブスケツとのレギュラー争いとなるだろうし、ブスケツを売ることまで視野に入れているなら、これはまあまあの買い物だと思う。

 DFはピケのいるうちに全員Bから上げていくしかない・・・つまり、SBは考えるのがメンドクサイのでセルジ・ロベルトとアレニャーでいいと思う。

 アンス・ファティ、リキ・プッチなどのカンテラーノは大切にしたい。

 デンベレは扱いの難しい選手になってしまったが、あと一年はキープしておきたい気がする。

 メッシは仕方がないので隠れセンターフォワードということで。






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バルセロナと育成 [サッカー]


 個人的な意見を言えば、ラ・マシア出身とアヤックス出身で主力を形成し、あとはクラックが1~2人でいいと思う。







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バルセロナとCL [サッカー]


 バルサが大耳を取ったのは91-92ドリームチーム、2005-06ロナウジーニョ、2008-9ペップ、2010-11ペップ、2014-15エンリケ一年目の5回。

 今年の結果を反映させずに書くと、レアルマドリ13回、ミラン7回、リヴァプール6回、バイエルン5回、アヤックス4回、インテル3回、マンU3回となる。

 もともとバルセロナは安定性に欠き、勝負強いチームではない。

 ロナウジーニョのいた時代とペップの監督時代が異常だったのかも。

 エンリケ監督の時は、オマケのようなもの。

 極私的な感想だが、バルサに「常勝」は似合わない、「守備はザル」「背が低い」「足が遅い」「走らない」「カウンターに弱い」が昔からのアイデンティティなので、ぜひ貫いてほしい。







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バルセロナと4-4-2 [サッカー]


 メッシとスアレスが守備をしない、あるいはさせない、ということが戦術の前提にあるとすれば、現実問題として4-4-2は仕方がない。

 つまり、相手にボールを持たれているときは4人×2列で守り、攻撃の時には4-3-3に変化するというバルベルデのやり方は、一つの解答として優秀だったと思う。







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バルセロナの話 [サッカー]


 バルセロナFCがバイエルンに屈辱的な敗北をしたのは「会長の手腕」と「メッシ依存システム」という理由があるため仕方がないとしても、これで「改革」が求められていることが明白になった。

 改革の政治的な側面を言うならば、要するに「会長」をどうするかということと、「メッシ」をどうするかということだ。

 これは会長選が行われる2021年の3月までに、何らかの結果が出るだろう。

 戦術的な側面では、ペップ時代の「5秒ルール」のような基本的な戦術の徹底が望まれている。

 つまり、ポゼッションをベースに何を加味するか。

 単純に言えば、インテンシティーとか縦への意識を加えればいいということになるが、所属選手の特徴を生かしながら、どうアレンジするかは「監督」の術にかかっている。

 チャビが監督をやればいいという意見が選手からも出ているようだが、今の彼ではまだ無理だろう。

 チャビにイニエスタのような人間性やブジョルのような強烈なリーダーシップがあるわけではない。

 彼の戦術的意図がビッグクラブの選手に正しく浸透するようになるには、これから何年もかかると思われる。

 ペップは選手時代から監督のようなものだったが、それはクライフも同様で、残念ながらチャビはそこまでではない。

 つまり、5年後はともかく、今ならチャビよりもルイス・エンリケや、短期ということで可能ならFデブールやコクーのほうが適任だと思う。

 ただし監督の話は会長選と密接になっているので、長期政権が保証されなければ(たぶん現会長のバルトメウは、バルサ内での改革の気運が強いため、負けるだろう)誰も手を上げないと思う。






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解説との関係


 よくよく考えてみると、解説は必要ない。

 それはただのおしゃべりだ。

 オレたちは生きている。

 おそらく、何かの愛を感じているだろう。

 そして、空虚な感じと。






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書物との関係


 仮に、たとえば死について語られたすばらしい小説があったとする。

 それを読み終え、それを解説していると思われる、別の書物を手に取る。

 もちろん、オレの知りたいことはそこには書かれていない。

 というか、そんなものは、この世のどこにも存在しない。

 それを確認するためだけに、オレは書物を手に取る。






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パラノイア [メモ]


 メモ。

 パラノイアの激烈な病相期には、このような世界破局が他の病歴においても稀ならず見出せる。リビード備給に関するわれわれの理解に立脚するとき、他の人間たちが「束の間に組み立てられた男たち」と見なされている事情を考慮するならば、このような破局が起こる理由の解明は困難ではない。患者は、それまで彼の周囲の人間たち及び外的世界全体に向けられていたリビード備給を撤収した。それと同時に、彼にとって、いっさいは均しく無意味かつ無関係の存在となり、二次的な合理化によって「奇跡によって生じた、束の間に組み立てられた」と説明されなければならなかった。世界没落とはこの内的破局の投射にほかならない。彼が彼の主観的世界から彼の愛情を撤収してしまったがゆえに、彼の世界は没落した。

(シュレーバー症例 全集P173-4)






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デリダの真理 その2 [メモ]


 メモ。

 そうではない。特異な、伝達不能な真理こそが問題なのです。特異で伝達不能な真理は「ありのまま」に現出することすらないのかも知れない。無意識、--精神分析的な意味でというには漠然としていますが、少なくとも精神分析的なタイプの--無意識のうちに残存していたままでいることもあるのです。にもかかわらず何らかの働きかけを行う[=作品を作る]。それは真理の一様態で、これが物事を変形させ、働きかけ、またこれに働かせ、物事を変容していくのです。変化や革命の生じるときには、いつも何かしらの真理が介在します。啓示というよりもむしろ、変化や革命の話です。もちろん、この啓示が革命的なもので、新しい世界を到来させ、古い世界を一変させる場合は別です。これは真の革命だ、などとそうやすやすとひとは口にしたりはしませんから、むしろ次のような問いを立ててみることにしましょう。ある変化や革命、遂行的な出来事は、どんな点において真理だといえるのか。この問いには、遂行的なものをともなわない出来事すら含まれます。数年来にわたって私か強調してきた主題の一つは、これまで特権的な位置が遂行的なものにあてがわれてきたものの、はたしてそれは、そう考えられているほど、正当化できるものなのかどうかという問題でした。出来事は遂行的でない場合もあるのです。厳守すべき所与の契約=約束事があるとして、これを遵守する際に遺憾なく発揮される支配力という意味も、遂行的なもの=パフォーマティブという概念には含まれています。では遂行的なものを超えた出来事、遂行的とは別な出来事が真理だなどと、言明することはいったい可能なのでしょうか。私は可能だと信じています。私は次のように信じているのです。真理の伝統的な概念を超えた意味での真理、私の関心を惹きつけているこの真理は、つねに革命的=転回的なものだと。お望みならばそれが詩的なタイプの、あるいは、出来事のタイプの真理だと言ってもよいでしょう。公理のタイプに属する真理ではないのです。自己の前にその姿をありありと見て取れるような、伝達することのできるたぐいの真理ではないのです。それは後になって初めて考察を試みることが可能となるような、変化としてあるのです。生じかねないあらゆるリスクを冒してこういった真理を伝達可能なものに変えていくことはできますが、しかし、この真理が到来してきた際には、これを思惟することも、主題化することも、客体化することもできないのです。思惟へとひとを向かわせるものなのですが、ではこの真理自体はというと、これを思惟することは不可能なのです。いわば真理の欲動とでも言えそうなひとつの要請がある。真理の欲動は私の解釈の作業の滋養分となっています。それでいてなお、究極な意味としての真理と一般に呼ばれるものに対する、ある種の警戒心や猜疑心とも両立するものなのです。真理の欲動というものがある。にもかかわらず、この欲動をありのままに呈示しようとするようなまねは私はしません。あまりにも多くの誤解を招き寄せかねないですから。

(デリダ「傷つける真理」P69)





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デリダの真理 その1 [メモ]


 メモ。

 その確信とは、真理はつねに解釈から無限に退引し続けているということです。真理が存在しないというのではありません。「真理はない」などと私が口にしたことは一度もありません。私が言わんとしているのは、いつでも使いまわしの利く真理、ひろく承認された真理、信用に値する真理といった概念は、私が、私たちが解読作業において探し求めているものと、どうもぴったりと呼応していないということです。解読の果てに、何かしら安定した真の意味へといつしか辿りつくことなどありえない。解読をしようとするなら、真理の歴史、真理の概念の再検討を経ることがやはりどうしても必要となるのではありますまいか。私の全生涯を通じていつも私自身と歩みをともにしてきたものこそ、真理の歴史、真理の概念のこの再検討の作業なのです。ハイデガーにおいても然りです。「アレーティア」(非隠蔽性)としての真理から、「ホモイオーシス」(合致・適合)としての真理への移行がハイデガーにはあります。ハイデガーの足跡を追う途上にあって、おそらくはまた、ハイデガーを離れてであっても、私は真理というこの問題にいくたびも頭を悩ませてきました。真理の問題は、解釈をする際の鬼門だけとはかぎらず、逆に、解釈を鼓舞してたかだかと飛翔させるものでもある。伝達可能な真理とは類似していない何ものかを真理と呼ぶべきときもあるのではないでしょうか。私自身もまた、そうしたものを指して真理と呼ぼうとしたことがいくどかあります。こうした真理の概念については「蚕(=絹の詩行)」において取り上げています。ハイデガーのいう意味での、啓示としての、覆いとしての真理、覆いを暴くこととしての真理には、もう倦んでしまった。それは事実です。にもかかわらず、懐疑主義の名のもとに真理を放棄してしまうというのは、私の流儀ではないのです。私は懐疑主義でもなければ、経験主義でもない。真理と類似する何かが私を惹きつけるのです。この何かとは、私にとっては、到来するものの経験の中で贈与されるものです。この経験は翻訳できませんし、おそらくは伝達も--伝達不能な真理とは何でしょう?--不可能です。この経験を語るのに私が使用したくない語、それはまさに「光」という言葉ですし、「澄明」、「啓示」、「敬明」といった言葉です。さらに--ここが最も難しい箇所なのですが--「ありのまま」という言葉すら、使用したいとはどうしても思えません。物が「ありのまま」に具現するときにこそ真理の可能性は開くと一般に言われますし、ハイデガーにおいては特にそうですね。ハイデガーはこうした観点から、動物には「ありのまま」がないゆえに動物に真理は存在しないと述べています。私はそれとは逆に、「ありのまま」にすら現れてこない真理の経験を考えたいと思っているのです。というのももし、真理の経験が「ありのまま」に現れようものなら、この経験は通常の言語、日常的な意味の言語による捕捉が可能だと、つまりは伝達が可能だということになります。「ありのまま」に具現した事物の本質はこれこれしかじかだ、私はそれに名を与えよう、伝達しよう、この本質には、まだ潜勢的なものではあるが、普遍性がある、普遍化への可能性がある、と。(次回へ続く)

(デリダ「傷つける真理」P68)




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単純理論


 単純に言えば、精神病は殺人よりも深いところにある。

 ただ、単純な言説は、大抵、誤解を招く。






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晩年の沈黙


 晩年のラカンは、沈黙の講義者として非難されることがある。

 たぶんその証拠の一つになっているのが、アルチュセールの「ジャック・ラカンを援用する被分析者と精神分析家への公開状」(1980年3月)だと思われる(驚くべきことに、これもまた、日本語で読むことができる)。

 結果として言うならば、ラカンにとって、真理を語ることについては言葉が不足しているのだから、沈黙するしかない、何しろ喋りまくるジジェクとは違うのだから、という弁解が可能になる。

 彼の行為や言説を気にすることはない。

 問題は「何をしなかったか」「何を話さなかったか」だ。







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「ナルシシズム導入に向けて」の可能性と難点 その3 [メモ]


 そして第三の観察の問題に関しては、先ほど私たちはサーチライト型と分散型の二種類に分類したが、ここで問題となるのは観察という行為の別の側面だ。フロイトはこの論考では、ナルシシズムという現象を、あくまで「客観的」かつ第三者的な態度で記述している。そして彼は、距離を置いた観察に基づき、理論的かつ臨床的に解明しようと試みている。しかし、転移=逆転移が下地となって展開する精神分析行為において、そのような客観的な観察などあるだろうか。周知のごとく、転移=逆転移という現象を発見し、理論化したのはフロイトの功績だ。しかしその技法を体得して、患者を理解する方法を展開していったのは、フロイト以降の分析家たちだ。この意味で、転移=逆転移に基づく観察とは、フロイトの経験の外部に位置しているとも言える。

 フロイトが「客観的」な記述を選ぶのは、精神分析の「科学性」を維持するためで、またフロイト個人の資質によるものだろう。それに加えて、ナルシシズムという現象については、観察対象が観察者に強いる態度でもあった。彼は『精神分析入門講義』(1917年)において、「ナルシス神経症においては、われわれはせいぜい高い壁に好奇の目を投げつけながら、壁の向こうで何が起こっているのかを窺ってみるだけだ」と書いている。フロイトは彼の観察の仕方が、あたかもナルシス神経症という病理によって引き起こされたもので、その「壁」を乗り越える方法はないかのごとく考えいる。だが、ナルシシズムの本質は「壁の向こうで何が起こっているか窺ってみる」という観察方法では理解できないと私たちは考える。それは、転移=逆転移に基づいた観察でしか捉えることができない性質を持っている。とすれば、この論文の限界は、それまでのフロイトの観察方法の限界に由来するものだと言うことができるだろう。

(十川幸司「フロイト論」 岩波『思想』2012年8月号 P18)






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