ハイデガーの位置
個人的な、どうでもいい話。
ソフィストからヘーゲルまで(問答法~弁証法)の一連のロジックは、一応ドイツ観念論によって「完成(陥穽)」された、と考えるとすると、その完成=陥穽から抜け落ちたものをフッサールとハイデガーが救出(発見)しようと試みた・・・そのようなザックリとした西洋思想史の図式をオレは描いている。
精神分析はヘーゲルとハイデガーの両方から大きな影響を受けているといえば、もちろん受けているんだが、よりヘーゲルからの影響が強い。
他方、脱構築は、当然ハイデガーからの影響が強い。
そう考えることによって、脱構築と精神分析の位置づけの違いが、多少は見えやすくなる・・・もちろん一面的な見方だが。
つまり、オレの動機付けは、モスラ対ゴジラの対立図式を、より効果的に楽しむために、無理やりハイデガーを参照項としているというわけだ。
ジローナのサッカー [サッカー]
少し前の試合だが、第29節ヘタフェ対ジローナをじっくり観た。
結果は1-0でヘタフェの勝ち、やっているサッカーの楽しさという点では、今季のジローナはメチャクチャオモシロイ。
確かに守備に穴がいくつかあるが、それはもう次の攻撃への布石みたいなところもあるので、ただ単にハイラインと選手の質で頑張るチャビ・バルサよりも、合理的な面がある。
選手に託されたタスクは、選手任せではなく、リスクも含めて事前に想定されて指示があるのだろう、多くの場面で選手に迷いがない。
今のサッカーは、守備時は4バックで攻撃時は3-2-5(2-3-5)のような可変が多く、その可変時のアレンジに監督のセンスがでるが、ミチェルはいろいろな工夫のパターンを持っている。
守備時の4バックか3バックかの選択は、レシャックによると相手が1トップか2トップの対応の違いで、それをどのように実行するか・・・つまり、相手の戦術に応じて「いつ、どの場所で人数を多くするか」というのを、状況に応じて複数の手段で実現するのが、監督の腕の見せ所というわけだ。
もちろん、配置された選手の質がたまたま戦術と噛み合っているだけというところもあるが、それでもジローナクラスのクラブでこのサッカーができるのは、素晴らしい。
チャビ残留 [サッカー]
急転直下、チャビ残留。
結果として、バルサを戦術面で強化する監督を呼ぶお金がなかったので、単にマルケスとの比較で残留となったということか。
究極の選択を強いられた状況と見るのが正しい見方のような気がする。
さて、経済状況は少し良くなっているようなので、果たして来季に向けて「正しい」補強ができるだろうか。
ダブル・ジョアンは諸刃の剣だし、ここ最近で良かったのはギュンドアンくらいだ。
なんといってもラ・マシアからの、ラミネ・ヤマルとパウ・クバルシという「補強」が素晴らしかった。
強豪相手に縦に早いサッカーを試みるという、遅まきながら戦術のバリエーションが少しずつ増えてきているので、チャビが残留してよかったという結果(オレにとっては予想外の結果)を見てみたいものだ。
Forca Barca!
CD
CDを置く場所がない。
というわけで新規購入はあまりできない。
このサブスク時代に、そして懐古的LP時代に、いまだにCDなど買っているのか、という問題はさておき。
困ったものだ。
ハードカバー
ハードカバーを置く場所がない。
というわけで新規購入はあまりできない。
だけど買う。
困ったものだ。
バルサに対する個人的な意見 [サッカー]
というわけで、以下は極めて個人的な意見だ。
財政のこともあるので、しばらくは雌伏の時を過ごすべきだ。
まず、次の監督は(ラファ・)マルケスでいいです。
補強はフリー選手のみであとはラマシアで頑張ってもらって、財政が回復してもしなくても監督もバルサOB(あるいはアヤックスOB)の(短期政権の)たらいまわしで、良いと思う。
リーガは2位狙い、CLはベスト8目標で、コパだけ頑張るチームで十分。
そのほうがクラシコは盛り上がるはず(負けたけど)。
CL敗退 [サッカー]
バルサCL敗退について。
今季のCL、戦力面、戦術面含めてPSGに勝てる気がしなかったんだが、11人いれば何とかなっていたかもしれない、という試合運びだったような気がする。
だから、よく頑張った方だということで・・・。
なぜか世間の期待が大きいが、元々バルサはビッグイヤーを目指すようなチームではないし、ロナウジーニョやメッシだけではなく、それ以外にもそれなりの戦力をそろえないと勝てない、しかも「美しく勝つ」などという、勝負論だけを考えるなら「何を言っているのか」というアホな哲学のチームなので、財政が立て直されない限りCL優勝など不可能だ。
チャビはいろいろ言われているが、条件の整っていないチームを率いてCLを勝ち上がるには、明らかに力不足だ。
とはいえ、継続して長期政権でやらせれば20年間のうちで1回くらいはビッグイヤーを取れるかもしれない・・・しかし結果が伴わないと金も回ってこないので、なかなか難しい。
一冊の本
一冊の本を読むのに参考にする本が10冊くらいある。
そのすべてを持っているわけではないが、ある程度は確保している。
なので、スペースの限界という意味で、ジャンルとか傾向について限られた読書が望ましい。
コーチェラ 続き
というわけで、3/14 youtube で生放送していたのを一部(サハラ)観たが、特筆すべきことなし。
たまたまle sserafimを観ることができたが、演奏者、ダンサー(そしてたぶんスタッフ達)を含めチームとして頑張っていて良いステージだったし、何よりも観客が盛り上がっていたので、キャリアを考えれば大成功とさえ言える。
ただそもそも、K-POPアイドルと、この大規模フェスとの相性がいいかどうかはよくわからない・・・・、例外はあるだろうが、野外の大会場は、多くのアイドルには対応が難しいと考えるべきだろう。
とはいえ、業界内の目標設定として、例えばビルボードのチャート・インとコーチェラへの参加があるとすれば、それはそれで尊重すべきだと思う、何しろハードルは高すぎるくらいだし。
・・・単なる個人的な感想で、他意はない。
コーチェラ
そういえば、コーチェラが、それほどすごいフェスだという認識がまったくない。
というか、オレが、今の欧米音楽事情からまったく逸脱しているだけかもしれない。
カラオケの歌
何を歌うのか、ということについては、歳と共にレパートリーが増えていくんだが、とはいえ、新しいものは歌えないし、そもそも知らない。
というわけで、古いものが充実していく。
困ったものだ。
カラオケ
ある休みの日、久しぶりに妻とカラオケに行く。
以前は、一年に数回のペースで行っていたような気がするが、コロナ以降なかなか行く機会が減っていた。
長い読書
難解な本を読み始めると、たぶん積読を含め何年も読み続けることになるんだが、いったんの区切りとしては半年くらいかかる。
そうなると、もはや読書ではなく受講のようなものだ。
しかし、いろんな文献を参照しながらということになるので、結果として包括的な読書体験となる。
インペリテリ
インペリテリの「スタンド・イン・ライン」(1988リリース、録音は1986)のMVがネットに残っていたので観る。
ドラムがパット・トーピーだというのも、知ってはいたけど改めて驚く(映像は別人)。
関係
ヘーゲルとフッサールとハイデガーとの関係を紐解いていくと、なかなかワケワカメでオモシロイ。
ただ、フッサールとハイデガーは、ヘーゲルを乗り越えようとしている。
そして、乗り越えるために、トリッキーな方法を取っている。
差異の理由
例えば、プラトンの『ソピステス』と『ティマイオス』とでは主張がズレているではないか、との指摘があるかもれしないが、それはあの時代が・・・というか、そもそもギリシア哲学とは・・・ということを考えれば、おのずと理由が見えてくる。
オレたちは、まだ学習の途上にいる。
存在論
存在論について何かを言おうとすると、きっとハイデガーになる。
だからオレは、そこに触れないように、逃げまくっていた。
症状の世界は、妄想(幻聴)がメインなので、敢えて存在を考慮しなくても良い世界だ、という言い訳ができるし。
逐語訳
逐語訳はクソの役にも立たないときがあるが、しかし有効なときもある。
なので古い訳が多い岩波文庫を重宝している。
長谷川宏訳
デリダの話をするなら、長谷川宏訳のヘーゲルは弱点になるかもしれない。
そうでなければ、長谷川訳は、ある意味最強だと言える。
向こう側
とはいえ、デリダは敵というか、敵というより「向こう側」の人だし。
ときどきオレの中の四分の一くらいは「向こう側」行くこともあるので、それがダメなのかもしれない。
発見する男
ヘーゲルの『哲学史講義』とハイデガーの『存在と時間』に共通するものを発見するのだから、デリダはすごいと思う。
突発性デリダ嗜好症候群
ときどき、意味もなく突然デリダを読まずにはいられなくなる、というピョーキに罹患する。
これはもう末期の症状だろうという自覚がある。
動機としては、現実逃避の、さらなる現実逃避ということになるんだが、自分でもよくわからない。
フランス現代思想の多くには特徴があって、それは、言語と事態の一致が原理的に可能だと考えていることと、その一致から逃げ切れることは実践的に可能だと考えていること、そしてハイデガーは少なくともヘーゲルより上と考えていることだ。
なので、なんとなくその周辺を深掘りして巡ることの多いデリダの文体とロジックが恋しくなるのかもしれない。
オレが学生時代に爆笑しながら読んだ『ポジシオン』はいまでも愛読書だし、これまた学生時代に雑誌掲載されていた『真実(真理)の配達人』(翻訳『絵葉書2』に収録)はいまだに笑えるし、さらには無数の翻訳が出ているにもかかわらず、最近では講義録まで翻訳され始めて、さすがに手を出すまいとは思ってはいるが、きっと数年後に何冊かは半笑いで読んでいることだろう。
ヤバい、早く治さないと。
ハイデガーとヘーゲル 続き
精神分析はヘーゲルと親近性がある、とオレは見ている。
ハイデガーが絡むのは、とのあえず現存在分析ということになりそうだが、あるいはデリダ的精神分析というものがあるとすれば、それは間違いなくハイデガー的だと言える。
それに対してミレールの師のハイデガー理解は、デリダも述べているが表面的にすぎない。
その理由は、ミレールの師が歴史の「解体」を志向しないからだ。
というわけで、オレは小笠原晋也氏の居る位置に、なかなか立てそうにない。
ハイデガーとヘーゲル
ヘーゲルはギリシア哲学の伝統・・・というか、そもそも哲学の源流は何か、ということを踏まえて思想を展開している。
ハイデガーは、その歴史的伝統を解体することから始める。
なので、この二人はまったく立場が違う。
デリダと鍋の論理 続き
その昔(2020年8月)、こう書いたが、肝心なことを忘れていた。
ポジシオンの原註33にも載っている・・・ということを。
個人的な感触ではあまりにも当たり前なので、書くのを忘れていたようだ。
反省しよう。
入門書や解説書 続き
原文には原著者というフィルターがかけられている。
訳文には訳者のフィルターがかけられている。
解説書には解説者のフィルターがかけられている。
入門書には、入門書の著者のフィルターがかけられている。
原文のフィルターは当然として、訳者のフィルターはたいていの場合許容範囲内だが、あと二つのフィルターは有害とさえ言える。
なぜなら思想を学ぶ際には、原著者や訳者のフィルターと自分のフィルターとの違いを比較することが理解への道となるからだ。
・・・とはいえ、前回最後に書いたように、そんなことはどうでもいい、どんな学習でも数十年飽きることなく続けることができれば誰も文句を言わなくなる。