精神分析と相互受動性 [相互受動性]
メモ。
こうした相互受動的な対象への依存は、精神分析治療のダイナミックをも説明しないだろうか。ここで私たちが考えていることは、彼(女)の欲望、その象徴化の真実、そうしたことに直面することを回避するために、患者は彼[分析者]を誘惑し、彼と恋愛関係に入ることを試み、分析家の欲望の受動的対象として彼女自身を差し出す、などという月並みな事実などではない。むしろ相互受動性は、分析家がそこに平然とした様子で存在するという状況のもとで、この「分析者が私から必要としていること」のトラウマ、分析家の欲望の暗黒点とうまく折り合いをつけるために、[分析対象者としての]主体が、治療の間中、物語や記憶を語り、その宿命を哀れみ、非難するなど、絶え間なく能動(行為)的となるときにこそ、介在する。患者としての私が能動(行為)的なのは、私が分析者の謎めいた沈黙に飽き飽きしたり、苛立ったりするというようなことに原因があるのではなく、おそらくそれ以上の理由がある。すなわち、患者の私が能動(行為)的なのは、他者(分析家)を黙らせておくためで、またその結果、何事も起きないようにすること、分析家が絶え間なく泡立つように語られる私の見せかけの内容のなさを暴露する言葉やその他の振舞いを言い触らしたりあるいは行ったりしないようにすること、そういう目的をもっている。こうした事例によって相互受動性の基本的特徴とはどのようなものかが再び明らかになる。それは、他者が私に成り代わる、あるいは他者が私のために何かをする、という状況を指示しているのではなく、その正反対の状況、すなわち、私は他者の受動性によって、絶え間なく能動(行為)的で、そうすることで私の行動を維持するという状況を指示している。
(いまだ妖怪は徘徊している 訳P62-63)
この観点は、政治的には「真の問題が明らかにならないように、アイデンティティなどの流動的な問題がずっと議論されている」というような話へと展開していくんだが、この引用した部分だけを切り取ると、実に興味深い。
気分は相互受動性 [相互受動性]
オレはここにいる、というメッセージさえ不要だ。
なぜならばオレにとってそれは所与だから。
もちろん勘違いかもしれないが。
誰かがオレの代わりに何かをしてくれている。
そう考えるだけでいい。
それが生きることの本質だなんて言うつもりはない。
人は何かのために生きる・・・なんてことは常に考えることではない。
多くの時間をダラダラと過ごしている。
そうでなければ相互受動性などという言葉が存在するものか。
睡眠時に見る夢は、かなり相互受動的なメディアだと思う。
つまり、アレは誰かの夢で、オレの夢ではなく、ただオレが他人の夢を見ているだけだと。
ネットで必要なのは [相互受動性]
ネットで必要なのはレスポンス。
インタラクティヴとはそういうことだ。
しかし、オレはジジェクにならって相互受動性を主張している。
つまりオレ以外の誰かが書いて、暗闇の中に埋没していく。
誰かが書いているらしいことがわかればそれでいい。
書く内容などは、気にしない。
それがコミュニケーションの本質だったりするんだが、まーどうでもいいか。
息を吐くように [相互受動性]
こういうブログは、本当は息を吐くように書ければいいんだが、あいにく才能がない。
なので、ダラダラ書くことでお茶を濁している。
ダラダラ文体を発見してからは、ブログを更新することに抵抗がなくなった。
てゆーか、もはや「書いている」という意識はない。
相互受動性という「思考」とダラダラ文体という「技術」のみ。
CDを買う [相互受動性]
そういえばつい出来心で2012年ころのダイナソーjr のCDを買ったが、既に買ったことすら忘れている。これもある種の相互受動性か。
・・・いや、ここではっきり書かないとダメだな。痴呆症です。
現代ラカン派の・・・の続きの続きの続き [相互受動性]
もう、この話は続かなくてもいいんだが、とりあえず続けてみよう。
「普通精神病」の脅威は、いきなり他者的享楽の津波が襲ってくることだ。フロイト的に理解可能なファルス的享楽というある種の防波堤が存在していないがゆえに。
その先にあるのは、ただ自殺のみ。これが不幸なのかというと、当人にとってはそうでもなく、唯一の解放となっているようだ。それがまた、残されたものの脅威となる。
オレがこのテーマをここに書くのは、そのような負の連鎖を断ち切ることを目的としている。いや別にオレが断ち切れるとは思っていないんだが、断ち切るための一つの縁(よすが)にならないかと思い、敢えてここに書いている。
いずれにせよ、相互受動性の影響下で、自動筆記的に書いているだけなんだが。
ときどきわからない [相互受動性]
ときどきここを自分で書いているのかどうかわからない文章があったりする。でも確かにオレが書いた・・・に違いない。
いよいよボケが進行してきたのか・・・。
・・・その言い訳のために「相互受動性」という言葉を使ってきたのでは・・・。
ブログを読む [相互受動性]
オレのブログに対する位置付けは相互受動性なので普段他人のブログを読んだりはしないが、たまに読むときがある。
読んでいると世の中には変わった人がいるモノだ、と感心する。もちろん自分のことは棚に上げている。棚に上げないと人は何も言えなくなるときがある。だから心に棚は必要だ。「心に棚を作れ」(『炎の転校生』)という名言があるくらいだ。
理性と非理性 [相互受動性]
てゆーか、理性を求めるのなら誰もドイツ観念論やフランス現代思想へとは近づかない。分析哲学や科学哲学で充分事足りる。それ以外はバカだよねって言って笑っていればいい。
ところがそれでは少しもオモシロくない。オモシロいと思う人はどうぞご勝手に。例えば初期のジジェクなんてのを読もうとすると、理性が拒絶するだろう。何がいけないって論理の飛躍がいけない。それどころか鍋の論理よりぶっ飛ぶ理屈が展開される。そんなもの読んだってなんの役にも立たないよ・・・と理性は言う。
オレはあまり理性の言うことをきかない。てゆーか、非理性こそが理性の真骨頂とすら感じる。大文字の他者だとか相互受動性だとか交換ネットワークがどうしたとか、そういうのが一番オモシロい。
オレたちは所与で狂気にさらされている。統合失調症なんてのは、ヒトの本来的な世界=死に一歩早く行き着いただけで、まともな歩みだと言える。逆に生き延びることは奇跡的だとすら感じる。だからオレたちは生きようと努力しなければならない。生きることは奇跡だ。
と、書いているのは、非理性ですのでどうぞお構いなく。
日記の意味 [相互受動性]
オレはこの日記を徹頭徹尾自分自身のために書いている。もしかするとメッセージの受け手として想定している読者がいるのかもしれないが、まーその対象はほとんど大文字の他者というところだろう。
それをブログというメディアを通して反転して受け取っているわけだ。
そこに何らかの価値があるのかというと、たぶん、ある。
相互受動性という立場からいうと、もはや日記を書いてさえいない。読んでもいない。
誰かがオレの代わりに書き、誰かがオレの代わりに読んでくれている。だからオレは狂わずに生きていける。インターネットに書き込まれている有象無象の悪意と善意とその他諸々のおかげで、オレたちはなんとか生を保っていられる。実にありがたい。
相互受動性への強襲と郷愁 [相互受動性]
ブログを相互受動性だと考えているが、SNSをどう位置付けるべきか。
実際問題としては、生存確認。つまり、書く方の感覚からすると、「わたしは生きています」という意味で開設するだけで、そこでの発信自体にあまり意味はない。
受け取る側の感覚は開設しているのを確認して、「うはは、あいつ生きてるよ」てな感じ。これもまた、相互受動性の一種もしれない。存在確認だけでメッセージの意味の希薄性。積極的なアプローチ感覚の欠如。
仕方がないので音楽アーティストの最新情報を仕入れるのにも使っている。といっても彼らが活動するのも海外の情報なので、これもまた生存確認のようなものだ。
なぜ書くのか [相互受動性]
なぜ日記を書くのかというと、そこに日記があるからだ、と答えるのは良いことなのか悪いことなのか。
とくに理由はない。「相互受動性」というのもあるけど、それは言い訳みたいなもの。目的なき目的に、少し方向性を与えるようなものだ。
表現しようという意志さえもないにもかかわらず、惰性で書いてしまうことの不条理性を、オレは味わっている。
「表現の抜け殻」とでも呼ぶべきか。
忘れないために [相互受動性]
前回ケリー基準のことを書いたが、ついついこのような内容を忘れがちであり、少しだけケリー基準の再研究をしてしまった。
忘れないためにここに書く、というのも大事なことだ。これはこの日記の相互受動性ではない役割もあることを示している。
相互受動性による何か [相互受動性]
つまりここに書いているのは、相互受動性によって導かれた何か、だ。
特に意味があるわけでもなく、しかし意味がないわけでもなく、日記を書かない読まない、ということによって成立している何かなんだが、それっていったいなんでしょう。
日記日記と日記は進む [相互受動性]
昔は日記を真面目に書いていた。今は書いていない。ネットでも書かない。ここに書いているのは何かというと、少なくとも日記ではない。たわごとですらない。一番近いのが自動筆記か。