モスラ対ゴジラ
結局オレはモスラ対ゴジラの関連としてしか、デリダを読んでいない。
まったく役に立たない読み方をしているというわけだ。
タイパの時代
とはいえ、タイパという世の動きに乗るつもりはない。
ある程度の精度と深度のない読書に価値はないので。
時間がかかる
本を一冊読むのに半年以上かかる。
そういうタイプの本を読んでいるから、という事情があるにせよ、タイパの時代に何をやっているのか、という気分になる。
事象そのもの
「事象そのものは存在者ではない」(デリダ『ハイデガー講義』第三回)。
これは、意味が通じにくい文章だ。
一応前後の文脈から理解できないことはないが、とはいえ、普通に考えると、「事象そのもの」は「存在」そのものではないとしても、どうして「存在者」ではないのかを考えなくてはならないからだ。
このようにハイデガー近辺は恐ろしいまでに細かい罠が仕掛けられていて、そこを避けて歩いていこうとするほど沼にはまり、沈没してしまう。
そういう経験はヘーゲルでうんざりしているので、さっさと逃げようとしているが、さて、どうなるだろうか。
思想の歴史を考える
ヘーゲルで哲学はいったん一区切りとなった。
なぜならば、哲学はある種の学問の一ジャンルに過ぎなかったからだ。
それはある意味歴史だし、物語とも呼べる。
とはいえ、彼はあくまでも否定的なもののもとへと滞留してから思考し、行動する。
一方、フッサールと同様ハイデガーは何ごともなかったようにヘーゲルの語らなかったことを語る。
それはまず「存在」そのものが語られなかったことを語る、新しい「歴史」、あるいは言語的な影響の強い哲学(なぜならば、言語は存在の隠れ家のようなものだからだ)ということになる。
新しい歴史を紡ぐのはデリダの仕事だったかもしれない。
ドゥルーズは歴史の語り手だが、紡ぐ者ではない。
オレたちはヘーゲルを否定的に辿り、そしてその多様性に加え、否定判断と共に無限判断を同時にもたらす・・・その運動はもはや歴史ではない、過去の反復だ。
ハイデガーから始まる動きは、デリダと共に、それまでの歴史で無視されたものを、救い出し続ける。
人間中心主義を排したのは構造主義だと思われているが、その端緒となったのは存在論や実在論で、さらに言うならばマルクスとフロイトだ。
そこに脱構築の動きが加わり、いわゆるフランス現代思想という小さくない潮流が築かれた。
英語圏では、存在者的なモノと存在論的なモノを区別する文法がないために、いったん終わった哲学を捉えなおす言語哲学とは、別のタイプの言語哲学を発展させる。
たとえば一瞬流行ったように見える「新実在論」(QメイヤスーとMガブリエル)の動きは、原理的には、ほぼハイデガーによってすでに検証されていると言えなくもない(いまだ全貌がよくわからないところがあるので、不確定だが)。
今必要なのは、ハイデガーを再読することと、フロイトを捉えなおすことと、マルクスをまったく無視すること、そのうえで、デリダが向かわなかった方向を見出すことだ。
言語による支配
オレたちは言語に支配されている。
そう書くと、あら大変と思うかもしれないが、そこで考えなければならないことがいくつか出てくる、ここではとりあえず2つだけ記しておこう。
1.言語は無と有の両方を語り、無と有を語ることは「無」を語るための方便だ。
2.言語は、二律背反を簡単に生み出し、その狭間に人間を捉える。
1.で大切なのは「方便」ということで、厳密には論理ではないことだ。しかし、ヘーゲルはそこに賭けているし、ハイデガーはその(とくに存在論的な意味での)非論理性を批判している。
2.は、「症状」の要因が言語にあるという一つの確認だ。
ゴールデンウィーク
ゴールデンウイーク後に退職する人が多いという話を聞く。
オレは普通に仕事してたし。
電車は空いてて良かったし。
イマイチ何が何やら理解不能だ。
誰かにみとめてほしい
誰かにみとめてほしいと思っていたこともあったが、表面的にみとめてもらったところで自分の価値が上がるわけではないということを、経験で学んだ。
自分は何者か
自分が何者か、オレは知らない。
知るわけがない。
たぶん「わからない」ということは、わかっている。
いやそれすらも怪しい。
フレンキー続きの続き [サッカー]
とはいえ、仮に攻撃時が3-2-5だとすれば、2はクリステンセンとフレンキーでよいと思うし、相手次第だがクバルシが最終ラインにいるならロメウとフレンキーでもなんとかなりそうだ。
つまり選手の配置についてどうこう言うより、どう繋ぐかのパターンをいくつか決めた方がバルサらしい試合を進められるはずだ。
というような話をペップなら0.5秒で気づいて修正するんだが、チャビは半年かかる。
要するに、我慢のできない単細胞の記者と自分の懐事情しか考えないフロントをどう説得するのか、というのが今の監督に求められていたりする。
フレンキー続き [サッカー]
ギュンドアンとペドリとフレンキーが同時に出て、どうしてうまくいかないか、という疑問が出てくるだろう。
それはこの3人だとギュンドアンに4番をさせるのがもったいないから、どうしてもペドリとフレンキーのドブレ・ピボーテにしたくなる。
仮にブスケツがいてフレンキーがいないときはうまくいくかというと、そうでもないのがフットボールのオモシロいところ。
一番の問題はボールの「受け取り方のコンビネーション」ができていないこと。
これは選手の問題というより監督の問題だ。
フレンキー [サッカー]
フレンキーはアヤックスで輝き、そしてバルサで躓き停滞し・・・。
しかし、躓いて停滞してあの出来だという、驚くべき素材だ。
マジメさと賢さと技術の高さとフィジカルの強さ。
そんなのバルサの選手じゃないよね、というところが素晴らしい。
彼を中心にチームを作ったら絶対に楽だろうけど、例えば、バルサとかシティはそれはできない、なぜならフレンキーはメッシやロナウジーニョではないから。
もっとわかりやすく言うと、フレンキーはリバウドではないから。
象徴的同一化 続き
象徴的同一化を、ある種の反復と捉えることも可能だ。
というか、そう考える方が楽しいし、脱構築と精神分析の対話や対立は、こういう発想から進めるべきだろう。
象徴的同一化
象徴的同一化は、ある種の症候と同じだが、肝心なのは、症候の要因と考えられていることだ。
ただ、象徴的同一化は、特に宗教的な雰囲気に馴染みやすい人に起こりやすい傾向がある、ということを考えると、見えてくることがいくつかある。
果たして21世紀は、宗教の世紀なのか、あるいは無宗教の世紀なのか。
精神分析は科学ではない
精神分析は科学ではない。
とはいえ、臨床経験を理論として落とし込み、別の臨床で検証していくという姿勢は、科学的と言ってもいいかもしれない。
個人的には、この辺りの、曖昧さ、主観的選択の幅広さ、稀にあることだが「とんでも理論」の横行、などが科学と断言しにくいと感じている。
精神分析の領域は、エヴィデンス至上主義ではあまり得るものがないという事実も、そう感じる要因だろう。
たぶん、精神医療現場のヒエラルキー関係以外で、精神分析が科学でなくても誰も困らないんだが、エヴィデンス至上主義が世間一般に広まっていて主流になっているとしたら、それは「AIのデータ収集を徹底することがオレたちの未来だ」と信じているから、かもしれない。
・・・少数派でもいい、気にすることは何もない。