ブランダム再び その9 [ブランダム再び]
論理の意味論的役割は、認識論的なのか、それとも表現的なのか。
ブランダムは後者。
ブランダムは「主張=意味論的自己意識」と考えている。
その主張による表現を基に、推論し明示化していく。
その過程こそがブランダムの本意だ。
オレはほとんどブランダムに同意しているが、産みだされる意味が「合理的」で「正しい」とは限らず、また「自己意識」の定義がなかなか難しいと考えているので、ブランダムほど楽観的ではない。
ブランダム再び その8 [ブランダム再び]
伝統的な表現主義か、合理的な表現主義か。
伝統的な表現主義とはなにか。
身振りや感情による表現を認める、ということだ。
合理的な表現主義とはなにか。
身振りや感情による表現は、すべて言語による表現に置き換えられる、ということだ。
ブランダムは後者。
ただし表現することによって心理への影響度は強いこともあり、個人的には態度を保留している。
つまり、表現することにおいて、合理的ということ・・・つまり狂っていないこと・・・は必ずしも言えない可能性がある。
ブランダム再び その7 [ブランダム再び]
原子論か、全体論か。
ブランダムは推論主義でトップダウンなので、後者。
ブランダム再び その6 [ブランダム再び]
意味論的説明はボトムアップか、トップダウンか。
プラグマティズムでは、語や概念については使用ということを前提にするが、意味の付与はトップダウンになる。
ただし、「意味の付与」自体が「言語」そのものではないところから発せられた場合、どう考えるべきか。
ブランダム再び その5 [ブランダム再び]
概念的なものを区別する・・・内包主義か、推論主義か。
『推論主義序説』と題する本を書いているブランダムは、当然後者。
言語をどのように使うかということにおいて、相手(主として母親)の反応を探りながら言葉を学んでいく人間を、「推論主義」と呼ぶのにふさわしい。
ブランダム再び その4 [ブランダム再び]
概念的な活動の種類は、表象か、表現か。
単純に言えば「知覚的表象」か「言語」か。
語の使用を前提とするブランダムは後者。
シニフィアンを「表象」と考えるか「言語」と考えるかによって、ニュアンスが変わる。
この辺りの判断は、個人的には微妙だと感じている。
で、前にも書いたが、「実存」「表象」「言語」のどこに力点を置くのか、という立場の違いを考えるのは、ブランダム的な発想に基づいている。
ブランダム再び その3 [ブランダム再び]
志向性の本拠地は心か言語か。
ブランダムは「言語的プラグマティズム」なので後者。
そもそも「心」をどうやって示すのか、という問題があり、結局それが表象化されるのは、過去から現代に至るまで言語しかない。
ただし将来的にはそうではなくなる可能性がある。
ブランダム再び その2 [ブランダム再び]
概念に関するプラトニズムか、プラグマティズムか。
もちろんブランダムはプラグマティズム。
後期ヴィトゲンシュタインもそう。
逆に前者は前期ヴィトゲンシュタイン。
「主体の欲望の源泉は他者の欲望だ」という主張はどちらに属するのだろう。
たぶん後者だ。
ブランダム再び その1 [ブランダム再び]
言語的な動物と非言語的な動物について・・・連続性か、非連続性か。
当然ブランダムは非連続性。
たぶん言語を意識する思想家は非連続性だと思われる。