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デリダの真理 その1 [メモ]


 メモ。

 その確信とは、真理はつねに解釈から無限に退引し続けているということです。真理が存在しないというのではありません。「真理はない」などと私が口にしたことは一度もありません。私が言わんとしているのは、いつでも使いまわしの利く真理、ひろく承認された真理、信用に値する真理といった概念は、私が、私たちが解読作業において探し求めているものと、どうもぴったりと呼応していないということです。解読の果てに、何かしら安定した真の意味へといつしか辿りつくことなどありえない。解読をしようとするなら、真理の歴史、真理の概念の再検討を経ることがやはりどうしても必要となるのではありますまいか。私の全生涯を通じていつも私自身と歩みをともにしてきたものこそ、真理の歴史、真理の概念のこの再検討の作業なのです。ハイデガーにおいても然りです。「アレーティア」(非隠蔽性)としての真理から、「ホモイオーシス」(合致・適合)としての真理への移行がハイデガーにはあります。ハイデガーの足跡を追う途上にあって、おそらくはまた、ハイデガーを離れてであっても、私は真理というこの問題にいくたびも頭を悩ませてきました。真理の問題は、解釈をする際の鬼門だけとはかぎらず、逆に、解釈を鼓舞してたかだかと飛翔させるものでもある。伝達可能な真理とは類似していない何ものかを真理と呼ぶべきときもあるのではないでしょうか。私自身もまた、そうしたものを指して真理と呼ぼうとしたことがいくどかあります。こうした真理の概念については「蚕(=絹の詩行)」において取り上げています。ハイデガーのいう意味での、啓示としての、覆いとしての真理、覆いを暴くこととしての真理には、もう倦んでしまった。それは事実です。にもかかわらず、懐疑主義の名のもとに真理を放棄してしまうというのは、私の流儀ではないのです。私は懐疑主義でもなければ、経験主義でもない。真理と類似する何かが私を惹きつけるのです。この何かとは、私にとっては、到来するものの経験の中で贈与されるものです。この経験は翻訳できませんし、おそらくは伝達も--伝達不能な真理とは何でしょう?--不可能です。この経験を語るのに私が使用したくない語、それはまさに「光」という言葉ですし、「澄明」、「啓示」、「敬明」といった言葉です。さらに--ここが最も難しい箇所なのですが--「ありのまま」という言葉すら、使用したいとはどうしても思えません。物が「ありのまま」に具現するときにこそ真理の可能性は開くと一般に言われますし、ハイデガーにおいては特にそうですね。ハイデガーはこうした観点から、動物には「ありのまま」がないゆえに動物に真理は存在しないと述べています。私はそれとは逆に、「ありのまま」にすら現れてこない真理の経験を考えたいと思っているのです。というのももし、真理の経験が「ありのまま」に現れようものなら、この経験は通常の言語、日常的な意味の言語による捕捉が可能だと、つまりは伝達が可能だということになります。「ありのまま」に具現した事物の本質はこれこれしかじかだ、私はそれに名を与えよう、伝達しよう、この本質には、まだ潜勢的なものではあるが、普遍性がある、普遍化への可能性がある、と。(次回へ続く)

(デリダ「傷つける真理」P68)




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単純理論


 単純に言えば、精神病は殺人よりも深いところにある。

 ただ、単純な言説は、大抵、誤解を招く。






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