チャビ退団発表 [サッカー]
チャビの今季限りの退団決定は少し残念。
クーマンにしてもチャビにしても、のび太問題の影響によるチーム状況の悪い時期、そして金のないタイミングでチームに来てくれるのは、レジェンドだけだとよく分かった。
なんといってもギャラは安いし、その割にマスコミやファンからの風当たりが強すぎるし、そして何より一番ひどいのはフロントからの圧力(特に、フロント陣の人間関係による選手獲得の押し付け)だが、金のないビッグクラブにありがちな風景ということで。
クーマンの戦術は最悪に近いものだったがそれでもオレは感謝するし、チャビの戦術はその変更のスピードと幅が物足りないが、最悪というほどは悪くなかった。
来季の監督はミチェル・サンチェスのように、守備のことはともかくとして、まずビルドアップのアイデアが豊富な人選が良いだろう。
一度ビエルサにバルサの監督をやって欲しかった・・・全権与えないと引き受けないからフロント含めグチャグチャになるだろうけど、エル・ロコという劇薬に翻弄されながら新たに生まれ変わるバルサが見たいという思いは強い。
・・・そういえば、ラポルタはクーマンの次に、ドイツ系の戦術家を連れて来ようとしていたという噂があったので、まさかの展開があるかも。
ビジャレアル戦 [サッカー]
リーガ第22節カーサでのビジャレアル戦。
ひどい守備で3-5で敗れ、この試合展開なら負けてもオレは大いに納得、バルサらしい負け方と言うべきか。
選手たちの戦う意志が強く感じられたし、負け方にもバルサに相応しいパータンというものがあるはずだ。
この結果はチャビのキャリアにとっては痛い(今季限りの退団を発表)が、内容や姿勢を見るかぎりバルサにとっては悪くないのではないか。
極論だが、今後の展開に期待が持てる試合だった。
ラポール
性関係は無い、の「関係」はラポールだ。
ラポールは比率という意味もある。
比率は象徴界の特徴でもある。
ところが象徴界にも、比率的な秩序と、シニフィアンの連鎖のような自由運動(それは意味からの離脱傾向を示す)がある。
これがオレの言う「理外の理」だ。
それとは別に「理外の非理」がある、というのは、フロイト以降の発想なんだが、あまり指摘されることはない。
・・・そんなこんなを、ボロメオで説明しようとすると、肝心な点を誤る。
ボロメオの重なり部分について語っていたとしても、輪同士が繋がっていないなら、その説明は消去される。
そういう文脈で、ひとつの・・・ひとつの・・・ひとつの・・・がある、と言ったと考えるのが自然だ。
アーツ
リベラルアーツは、オレたちに大切なものなんだが、知識の習得だけと思われているような気がする。
その主体の変容を促すという要素を重要視されることは少ない。
それを一番端的に示しているのがエディプス神話だ。
そこには父の名とか父権よりも大事なものがある。
ベティス戦のバルサ [サッカー]
コパ敗退を受け、もう一度、現状を見てみる。
ベティス戦(1/21)試合のラインナップと年齢。
・イニャキ・べーニャ(24) *
・ロナルド・アラウホ(24) *
・パウ・クバルシ(16 試合翌日に17) *
・ジュール・クンデ(25)
・アレハンドロ・バルデ(20) *
・イリー・ギュンドアン(33)
・フレンキー(26)
・ペドリ(21)
・フェラン(23)
・ラミネ・ヤマル(16) *
・ロベルト・レヴァンドフスキ(36)
(途中交代)
・ヴィトール・ロッキ(18)
・フェルミン・ロぺス(20) *
・ジョアン・フェリックス(24)
*印は、ラ・マシア出身
仮に
仮に、オレがボルヘスの短編集を読んでいたとしよう。
その本を読むことは、例えば、カフカやコルターサルの読書の理解に役立つだろう。
なぜかというと、それはスキゾフレニー(破瓜型統合失調症)を分析するのに、パラノイア(妄想型統合失調症)と比較するのが有効なのと、よく似ているからだ。
パパン姉妹やエメの必要性も、そういう理由から導かれる。
ベティス戦 [サッカー]
リーガ第21節、フエラ(アウェイ)のベティス戦。
今期のベティスはカーサ(ホーム)では強いし、バルサの最近の低調を考えれば、ここは引分けでも御の字かと思いきや、結果としてはなかなかの出来だった。
バルデの、守備時は左ラテラル、攻撃時はエストレーモ(ウイング)と、はっきりと配置したのはチャビの采配だろう。
イリー(ギュンドアン)、フレンキー、ペドリに、前線の一枚(主にフェラン)が加わって、四枚で中盤を回すのが、チャビ・バルサのうまくいくかたちのようだ。
ベティスのプレスが強くないから、うまくボールを回すことができて、なんとなくいい流れになったという考え方もある。
今後も希望が持てる勝ち方をしてくれたのが良かった、と思うが、しかしそうすると本質的な弱点を放置するのか、という忸怩たる思いもある。
まずは、首位との差を離されずにキープしたことを評価するしかあるまい。
ちなみに、先発したパウ・クバルシとラミネ・ヤマルの16歳(!!)コンビには驚かされたことに加えて、この試合で一番印象に残ったのは前半43分、イスコからフレンキーがボールを奪ったシーン、オレの頭脳では理解不能だ。
読まなくてもわかる
もちろん読まないとわからないんだが、読まなくてもわかる、と思わせてくれる特殊な書物が存在するのも確かだ。
できれば、優先して保管したい。
残数
残りの人生のことを考えると、読むべき書物はそれほど多くない。
5人くらいの作家と、5つくらいのテーマに、絞ってもよいのではないか。
ただ、資料的な意味を持つ書物を、ついつい重要だと思ってしまう。
それがオレの問題だ。
最初の短編
彼(作家)の最初の短編は決定的に彼自身の本質を表している。
彼によって記述される作品は、昔書かれた作品と、結果として同一のものになる。
しかしながら、当然それはオリジナルとして書かれている。
たまたま同じになっただけだ。
とはいえ、昔に書いた作家に影響は受けているし、生き方すらも意識している。
ある短編
彼のある短編を読めば、それが形作っているものは、ファルスによるものと同等だとわかるだろう。
それは構造主義以前に思考されたようなファルスだ。
オレたちが彼を読む理由は、そこにある。
構造主義の……
つまり彼(作家)は構造主義の生成の前提として存在する、そう考えるとレヴィ=ストロースを参照する必要はない。
たぶんそれは、シュルレアリスムとの関係が深いことで語られうるような気がする。
とはいえその関係を考察する場合、精神分析に、あまり存在の価値を見い出されない。
しかし、その理論は芸術的題材として示されることはある。
彼を読むとき
オレたちが彼(作家)を読むとき、そこには宇宙のすべてがあり、そして、同時にそれは私事として語られる。
それは無意味だが、だからゆえに意味の豊かな源泉だ。
それは世界のすべてを示してるが、だからゆえに、無だ。
時に生成を語り、時に絶望を語り、そして老いて死にゆくことを語る。
円環的構造と、その破綻を語る。
おそらくカフカを語るよりは、言葉は豊穣だが、意味は少ないだろう。
意味を殺戮していくか、無限に産み出すかの違いかもしれない。
構造主義を超えて
構造主義を超えるということは、構造主義以前、あるいは構造主義の基礎作り段階にいったん戻るということに、気づいた人はどれくらいいるのか。
うつ病
うつ病は、メランコリーとデプレッションに分類できそうだ。
そして、現代的なうつ病は、ほとんどデプレッションのように見える。
メランコリーは、もはや何かに反応することさえ難しくなっている。
つまり、「落ち込む」ことすらもできない。
アスペルガー症候群
例えば、アスペルガー症候群は、理不尽な現実にたいする、主体の反応の一つの形だ。
理不尽な現実に耐えきれるだけの耐性は、人間にはない。
治癒するとは
精神分析にとって「治癒」は永遠のテーマとなっている。
それは、たぶん「以前の社会生活に戻れること」ではない。
「復帰時点で、社会生活(日本だと会社内での振る舞い)になんとか適応すること」だと思うが、それで(会社側が)いいのか、という問題が残る(適応することはマストとして、それだけではなく、会社に利益を出す行動をとってほしい、という意図が会社にはあるため)。
会社側がどこまで求めていいのか、そのバランスが難しい。
強調点の変化
単なる一つの切り口。
ミレールの師の初期は、シニフィアンというか、ファルスがうまく機能するように分析で操作すれば、治癒に近づくと考えていた(ドルトの療法を参照)。
次には、シニフィアンというか、ファルスがうまく機能しないことが原理的にありえるので、その「機能しなさ」に対する主体の反応(幻想、妄想、その他)によって、症状と療法が変化すると考えていた。
さらには、症状そのものが療法と密接に関係していて、症状が実はそれ以上症状を重くしないような工夫がなされている(そして、それは時には失敗する)ことが強調された。
最後まで捨てられなかったのは「性関係は無い」と「ひとつの想像界と、ひとつの象徴界と、ひとつの現実界は在る」で、それらはヘーゲルの「否定的なもののもとへの滞留」と密接な関係をもっている。
ラス・パルマス戦 [サッカー]
第19節、フエラ(アウェイ)の対ラス・パルマス戦、バルサはやっとのことで勝った。
これで不調なのかというとそうではなく、実力だろう。
オフサイドが多いのは、ラス・パルマスの最終ラインがうまく上げていたということと、バルサが裏抜けを狙っていたという二つの要素がある。
あと、イリー(ギュンドアン)、フレンキー(デ・ヨング)、セルジ(ロベルト)という、若手中心だった最近では珍しい中盤構成はオモシロイ。
最後は執念でなんとか勝利を引き寄せた感じだが、良いときのバルサもこういう試合をたくさんやっていたのでそこは心配していない。
PKは審判買収の結果ではないか、という考え方の人もいるかもしれないが、当然バルサにそんな金はないし、あるなら、契約時点で万全の体制でリーガ登録できるように、ヴィトール・ロッキのために使っていたはず、ということを忘れてはならない。
問題があるとすれば、
・得点が少ない
→バルサならもっとチャンスを作るべき
→ビルドアップがうまくいっていないように見える
→とはいえイリー(ギュンドアン)とフレンキー(デ・ヨング)は悪くない
→では「誰が悪いのか」
という話になっていって、チャビやレヴィ、あるいは一部でカンセロがやり玉に挙がっているところか。
ゴール・チャンス数の割に点を獲れないのはいつもの話で、MSNの時代は例外的、しかもオレはMSN時代のサッカーはバルサらしくないと思っているということもあり、なかなか難しい。
本来のバルサらしさを出すには、ポゼッション(で休む)、そしてプレスとショートカウンター(で戦う)というメリハリをどうやってつけるかということだと思われ、そこは得点経過やゲームの流れを読みながら、ピッチ上で判断していかなければならない。
なので、今は成長過程の苦しい段階だし、そもそもチャビはすぐに結果を出すタイプの監督ではない(ある意味、昨季は幸運あるいはまぐれ)し、何より金がないので、もう少し時間がかかる。
しかし、サッカーのサイクルは早いし、関係者はファンを含めほぼ全員気が短い。
どうなることやら。
身体なき器官
「器官なき身体」とドゥルーズ&ガタリが言ったのは言い過ぎだが、ジジェクが「身体なき器官」と言ったのも言い過ぎだ。
オレたちには身体があるし、そして何よりも器官がある。
だとすればどちらかが無いということはないが、思想というのは何かが「無い」とすることによってオモシロいことが語れればそれでいいというジャンルなので、いちいち気にしていても仕方がない。
誰かがあると言えば、無いと言い、無いと言えば、あると言う。
それは、特定のジャンルのみならず、自己正当化を必要とする人にとっては普遍的なもの(ある意味詭弁)だと思うのはオレだけか。
1962年から1968年のモンク
というわけで1962年から1968年までのモンクのソロを聴いている。
オリジナリティに溢れる独特な演奏だ。
誰も真似のできない(真似しても下手だと言われるだけの)演奏は、モンクというシーニュ(徴)が付いていないと、なかなか認知されにくい。
1968年のモンク
というわけで1968年10月27日のモンク(カルテット)を聴いている。
誰かの文句を聞いているわけではないので、念のため。
椅子がギシギシいってる。
足をバタバタさせている靴音までも聴こえる。
この頃のモンクはやりたいことができていたのか、バンドとして完成度の高い演奏を聴かせてくれる。
1958年のコルトレーン
というわけで1958年9月11日(2曲は1958年7月)のコルトレーンを聴いている。
ダラダラ聴くには丁度いい、音質の悪さ。
ガレージロックを聴き慣れた耳に、海賊盤を聴き飽きた耳に、心地よい。
しかし唸りがいいね。