両論併記 [両論併記]
マス・メディアが両論を併記することの危険性と、両論を併記しないことの危険性。
この二つを比較してどちらの危険が大きいか、よく考えてみて欲しい。
とはいえ、この件でオレが主張したいことなど何もない。
勝手にしろ、だ。
両論併記と非決定 [両論併記]
両論併記し結論を出さなかったために戦争になった、という本がある。
これは少し危険な考え方で、そもそも両論併記は選択決定の可能性の提示だった。それがたまたま非決定になったからといって・・・あれれ、しかし結局戦争という「決定」はしたんだよなあ。
ということは戦争へと誘導するための手段として、両論併記を利用した人がいたというわけだ。なるほどそれなら理解できるが、歴史に疎いオレには証明のしようがない。
この話のポイントは、(お互いに)「正論」を一つだけ主張し続けると戦争になりやすい、そして、両論を併記したとしても戦争になりうる・・・・ということだ。
なので両論併記によって戦争になったという発想は、個人的にどうかと思う。
ネガキャン続き [両論併記]
片肺飛行のメディア状況を世間に通用するように言い換えると「プロテスティング(提訴、抗議)」ということになるらしい。「報道はプロテスティングでなければならない」・・・朝日新聞の慰安婦に関する記事訂正などはまさにその路線の悪い面が出た例だろう。確かにそういう時代は必要だったかも。
しかし、構造的な弊害が出てきた。そして弊害が出てきたのは、アジアの経済的枠組みが変わったからだ。単純に言うと、日本はアジア経済のナンバーワンではなくなった。日本はアジアの王様ではなくなった。
そういう状況で領空領土領海的な軋轢が生じたとすれば、集団的自衛権のような議論が必要になってくる。第二次世界大戦の記憶だけではなく、現在の状況の考慮も求められるため、片肺飛行的な、プロテスティング的な言説は通用しない。抗議の対象は日本政府ではなく、新しい王様に向かうべき、というのが本来のジャーナリズムの筋だから。
オレは基本的に政治や外交に興味がないのでアベさんが正しいとか誤っているかという話はしない。ただ経済の枠組みが変われば政治、外交、軍事の議論の内容も変わってくるのは必然だと思う。
片肺飛行の根っこには両論併記がある。つまり、いろんなバランスを考えて、書けるが敢えて書かない。あるいは書かずとも仄めかせる。それが記者の技術だろう。世論誘導のためではなく、バランス修正のためだ。それを忘れるとプロテスティング・パラサイト(プロパラ)になる。(続く)
ネガティブキャンペーン [両論併記]
集団的自衛権の問題はいろいろあっておもしろいが、マスコミの報道を見ていると、まるで裏で動いている国があるように錯覚してしまう。そのように見ることが可能だ・・・という事実が興味深い。
もともとは尖閣諸島の問題があるので、アベさんが強行中という経緯がある。強行するのが正しいかどうかは別として、その論理を逆転させるようなキャンペーンをするということは・・・ま、こんな話はどうでもいいか。
というわけで、ますます今のマスコミの言うことは信用できない。両論併記ではなく世論誘導だから。反政府という「立場」は仕方ないにしても、その書き方や展開・・・いやそのジャーナリズム精神に問題あり。
一応書いておくと、両論併記と言っても、形式的に両方載せるだけで世論誘導するのは片肺飛行と同じだ。ただ、両論併記はジャーナリズムの基本だから最低ラインとして維持する。
ところが「戦争責任」の問題に関しては形式的にも片肺で書く。つまり、この問題に関しては「両論併記」というジャーナリズムの基本を放棄していた。それが戦後マスメディアのタブーだった。(続く)
武器を持つ持たない以前の話 [両論併記]
というわけで武器を持つ持たないの話はどうしても、平和憲法がどうしたという議論を誘発してしまうのでオモシロくない。
さて、それ以前の話として考えるべきなのは、国民は時の政府を信用しているのか、ということだ。
政策によっては信用するし、信用しない場合がある、ということは考えづらく、一つでも気に入らない政策があれば、その政府は信用できない、という論理が横行することだろう。
それは決して正しい判断とは言えないが、マスメディアや野党はそういう戦略を取らざるを得ない。なぜならば彼らは「そういう存在」だから。
とにかく、結果として野党とマスメディアは「反政府」という立場を取る。「両論併記」という原則がないがしろにされるとその立場はさらに増強される。
ここで、問題は国民だ。政府与党は支持率が高ければある程度暴走する。野党は全面的にあるいは一部だけ反対する。マスメディアは反政府キャンペーンを打つ。
これらはある程度決まりきったお約束事項だ。そこで国民はどう判断するのが「お約束」なのか。