SSブログ

晩年の沈黙


 晩年のラカンは、沈黙の講義者として非難されることがある。

 たぶんその証拠の一つになっているのが、アルチュセールの「ジャック・ラカンを援用する被分析者と精神分析家への公開状」(1980年3月)だと思われる(驚くべきことに、これもまた、日本語で読むことができる)。

 結果として言うならば、ラカンにとって、真理を語ることについては言葉が不足しているのだから、沈黙するしかない、何しろ喋りまくるジジェクとは違うのだから、という弁解が可能になる。

 彼の行為や言説を気にすることはない。

 問題は「何をしなかったか」「何を話さなかったか」だ。







nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

「ナルシシズム導入に向けて」の可能性と難点 その3 [メモ]


 そして第三の観察の問題に関しては、先ほど私たちはサーチライト型と分散型の二種類に分類したが、ここで問題となるのは観察という行為の別の側面だ。フロイトはこの論考では、ナルシシズムという現象を、あくまで「客観的」かつ第三者的な態度で記述している。そして彼は、距離を置いた観察に基づき、理論的かつ臨床的に解明しようと試みている。しかし、転移=逆転移が下地となって展開する精神分析行為において、そのような客観的な観察などあるだろうか。周知のごとく、転移=逆転移という現象を発見し、理論化したのはフロイトの功績だ。しかしその技法を体得して、患者を理解する方法を展開していったのは、フロイト以降の分析家たちだ。この意味で、転移=逆転移に基づく観察とは、フロイトの経験の外部に位置しているとも言える。

 フロイトが「客観的」な記述を選ぶのは、精神分析の「科学性」を維持するためで、またフロイト個人の資質によるものだろう。それに加えて、ナルシシズムという現象については、観察対象が観察者に強いる態度でもあった。彼は『精神分析入門講義』(1917年)において、「ナルシス神経症においては、われわれはせいぜい高い壁に好奇の目を投げつけながら、壁の向こうで何が起こっているのかを窺ってみるだけだ」と書いている。フロイトは彼の観察の仕方が、あたかもナルシス神経症という病理によって引き起こされたもので、その「壁」を乗り越える方法はないかのごとく考えいる。だが、ナルシシズムの本質は「壁の向こうで何が起こっているか窺ってみる」という観察方法では理解できないと私たちは考える。それは、転移=逆転移に基づいた観察でしか捉えることができない性質を持っている。とすれば、この論文の限界は、それまでのフロイトの観察方法の限界に由来するものだと言うことができるだろう。

(十川幸司「フロイト論」 岩波『思想』2012年8月号 P18)






nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感