グローバル資本主義との戦い
グローバル資本主義は、去勢を排することで国境を超えることを可能にした。
しかし、それだけでは何も進まない。
オレたちに必要なのは、グローバル資本主義の中で働いて給与を得ることと同時に、グローバル資本主義に投資し、利益を得ることだ。
つまり、賭けに勝たなければならない。
ボロメオの輪 リターンズ
しかし、オモシロそうなところは勝手に享楽してしまえばいい。
それが、任命する母としての願いのはずだ。
最後のボロメオの輪 [メモ]
メモ。
ボロメオの輪のメタファーは、そのもっとも単純な形態においては不適切だ。それはメタファーの濫用だ。なぜなら、実際には想像界と象徴界と現実界を支えるものなどない。性関係はないということ、これが私が言ったことの本質だ。性関係がないのは、ひとつの想像界とひとつの象徴界とひとつの現実界があるからだ。これは敢えて私が言ってこなかった。にもかかわらず今言った。
私が間違っていたことは明らかだ。しかしわたしはそのまま放っておくことにした。単に放っておいた。げんなりする。うんざりするよりもひどいかもしれない。正当化できないからますますうんざりだ。これが昨日私に分かったことで、だからこれを皆に白状する。
(セミネール「トポロジーと時間」1979/1/9)
ボロメオの輪
ボロメオの輪。
それは捨てられる。
ゴミのように。
使い物にならなかった。
だからオレ(たちの一人)は、ドン・ファンと二人きりで出会うことが必要だ。
21世紀は原抑圧の時代
1969年の作品、21世紀のスキッツォイド・マンは名作だ。
だから、キング・クリムゾンは誤っている。
彼らは21世紀を見損なっていた。
例外ではない
繰り返し、書いておこう。
ラカンは、例外ではない。
つまり、並外れた享楽を享受することはできなかった。
きっと、享受しようとしていたが。
優れた見せかけ
ラカンは優れた見せかけだったが、ミレールはそうではない。
それはミレールだけの責任ではない。
ラカンが例外だったなどと、誰が信じることだろう。
彼は、かつては例外だったが、70年代の半ばに例外をやめた。
うまく説明できない
ラカンもミレールも、うまく説明できないことがある。
それは他の享楽のすべて、あるいは女性の享楽のあり方すべてだ。
もちろんそれらはすべてではない。
それを知っていても、彼らはうまく説明できない。
彼らはずっと喋っている。
彼らは、目前の沈黙と空虚を愛することができないのだから。
それに気づいたので仕方なく、不定冠詞へ向かう。
ロルについての物語の仮説
ロルの物語についてのいくつかの仮説というか注釈というか雑文というか、を書いたんだが、どうせ誰も読まないし、しばらく寝かせておこう。
少し修正も必要だし。
破壊しに
破壊しに・・・についてはどこかで書くとして、この語感は「墓石に」になってしまうところがオレ(たち)の弱いところだ。
要するに死の欲動への関係をダジャレによって実感してしまう。
現象は、非自存的存在 [メモ]
メモ。
現象は存在をもつ否定的なものだが、他のもののうちに、すなわちそれの否定のうちに存在を持つにすぎない。それは非自立性で、それ自身において止揚されており、虚しいものだ。したがって、それは、自己のうちに還帰する否定的なもの、それ自身において非自立的なものとしての非自立的なものだ。否定的なもの自身とは別のものだ。それは否定的なものの自己に対する規定性か、あるいは否定的なものに対する否定性だ。だが、否定的なものにいする否定とは、自己にのみ関係する否定性、規定性自身を絶対的に止揚することだ。
(ヘーゲル『論理の学』より。『神話・狂気・哄笑』訳P77)
名指さない [メモ]
メモ。
彼女は私を摘み取り、私を巣から攫った。発音された私の名前が初めて誰も名指さない。
(デュラス ロル 訳P117)
われわれの無人化がいや増す。
(デュラス ロル 訳P117)
ジャックはロルを通して不可能なものに触れる。
だから「無人化」が増していく。
ロルはドレスの下の身体がないものとして、ジャックは名前の下の身体を忘却したものとして。
不完全 [メモ]
メモ。
女学校でも、と彼女は言った。ロルには何かが欠けていた、すでに彼女は奇妙なふうに不完全だった、少女時代も彼女がなるべきはずだがどうしてもなれなかったなにかからの呼びかけの中で生きていたという。
(デュラス ロル 訳P79)
繰り返される結び目 [メモ]
メモ。
そこでやり直されるのはあの出来事ではなく、ひとつの結び目だ。そして、文字通り魅了するのはこの結び目が締めつけているものだが、ここでもやはり誰を魅了するのかという問いは残る。
(ラカン『デュラスへの賛辞』向井雅明訳)
アンドレ対ハンセン
久しぶりに1981年9月の田園コロシアムのアンドレ・ハンセン戦を観た。
どうでもいいことだが、ハンセンを先導したのは前田日明、アンドレを先導したのは高田延彦だった。
三界のふたつのパターン(仮)
1.現実界が身体(痛み)、想像界が幻想(まなざし)、象徴界が統覚
2.現実界が穴、想像界が穴埋めの幻想(a)、象徴界が見せかけ(Φとしてのシニフィアン)
なんとなく、時代の変遷によるギヤのチェンジが必要な気がする。
ただし、この表現については今後の研究が望まれる。
性差の図式
性差の図式は、デュラスの小説をもとにしているのではないか、思ってしまうくらい適合性がある。
だからといって、デュラスを読めばいいってものでもない。
主体化のふたつのパターン [メモ]
メモ。
この新たな主体化は、大きく二つに分類される。まずは言語による主体化だ。これは存在を、それを代表して表象する対象(現象)に一致させる試みだ。ここでは、言語による分節化により、存在そのものは消失されるが、代わりに意味付与された対象(現象)が獲得される。言い換えれば、存在の消失点が意味作用の出発点となり、そこから言語によって分節化された欲望しうる対象(現象)が次々に生成される。つまり、欲望しうる対象(現象)を欲望する主体が誕生する。これは後でみるホールド(デュラスの小説の登場人物)の戦略だ。次に、言語による分節化以外の方法での主体化がある。これは先とは逆に、存在を、それを代理して表象するいかなる対象(現象)にも一致させない試みだ。ここでは、言語化による存在そのものを覆う対象(現象)が期待される。こうなると、意味作用の出発点となる消失点が定まらないため、無意味が反復し続けられる。つまり、欲望しえない対象(現象)--存在そのもの--を欲望する主体が誕生する。これは後でみるロル(デュラスの小説の主人公)の戦略だ。
(春木奈美子『現実的なものの歓待』P33-34、一部引用者の趣向により改変)
このラカンの主体に関する理論の紹介は、まさにヘーゲルのイエナ草稿そのものから始まっていると言っても過言ではないし、また、その先にあるラカンの「性差の図式」(特に他者の享楽)を見据えているということもあり、きわめて見通しの良い考察だ。
もちろん「言語化による存在そのものを覆う対象(現象)」とは何かを見極める必要があるが・・・ここでは仮に「自己像を伴わない状態での命名」としておく。
政治的主体
ジジェクは以前からつねにいつもいつまでも政治的主体を念頭に置いている。
だから、ラジカルで断裂的(超越的)な表現や例が出てくると、そこに敏感に反応する。
逆に、最晩期ラカンのような、「サントーム=父の名(複数)」による、かろうじて「繋ぎ止め」とともに生きるという、単調な事例は、政治的主体との相性が悪い。
・・・というか、デリダとの相性が良いような気がするのはオレだけか。
併読
春木奈美子『現実的なものの歓待』、ジジェク『脆弱なる絶対』、ラカン『アンコール』を同時に読んでいる。
同時に読むということは、たがいに関連するところを探して拾いながら読むわけで、苦労の割には効果が少ない。
つまりは苦行だ。
とはいえ、そうでもしなければ『アンコール』を読む気にならない、という事情もあるので、断片的かつ断続的に続けてみよう。
形而上学
形而上学はアリストテレス(もちろんプラトンでもよいが)が元祖だ。
アリストテレスの形而上学は、知への欲望から始まっている。
ソクラテスのことを考えると当たり前と言えば当たり前なんだが、知への欲望、正しく言い換えると「他者の知への欲望」から始まっているということが、実に興味深い。
オレたちがラカンを(イヤイヤながら)読まなければならない理由も、ここにある。
いやここではラカンではなく、ヘーゲルと書くべきか。
ヘーゲルなら「(いやいやながら)」と書かなくて済む、という利点がある。
闘争宣言 [メモ]
メモ。
こうした[現代の]哲学者たちの間で普及しているイデオロギーは、正しく理解するという魔法の力を「科学」に授ける曖昧な自然主義ないしは科学主義だ。しかし、もしメイヤスーによって相関主義と呼ばれる哲学者たち、すなわち、カントやフッサール、ハイデガーのような哲学者たちが、太陽は人間よりも先に現実に存在するということを理解できなかったとしたら、当然それは非常に大きな驚きをもたらすだろう、観念論も現象学も、人間存在を、太陽、天の川、ナイアガラの滝といった特定の対象の存在の作用因とするような存在的理論ではない。経験の可能性の認識論的条件が、あるいは、規定性一般の可能性の存在論的条件さえもが、存在するというのは、二階の反省の主張だ。[それゆえ]この主張は、内在的実在論と完全に両立可能だ。それは、ある枠組みが固定されるとすぐに[対象の]指示が生じることを、それゆえ普通の真理(と虚偽)が生じることを許容する。メイヤスーの相関主義批判は、単純に存在的な(一階の)理論化と存在論的な(反省的な)理論化の区別を見逃している。
(神話・狂気・哄笑 訳P165)
二階建てにすると、「メタ言語が存在する」ようになり、論理に亀裂が生じてしまう、・・・だからこそ、イギリス経験論的哲学や現代で主流の科学的哲学が、二階建てを拒否する、・・・なぜヴィトゲンシュタインが『論考』を棄てたのか、すっかり忘れてしまったかのように。
言い換えると、純粋な論理はつねに一階建てに過ぎない、ということだろう。
形而上学は、すでにつねにいまだ「メタ」で、逆に言うと「メタ」でしかない。
決意宣言 [メモ]
メモ。
我々は、「我々自身がここに存在すること」に向き合うために、表現の有限性と、あらゆる枠組みが持つ抹消できない偶然性を承認する必要がある。我々は、この有限性を率直に認めなければならない。というのも、バタイユがいうように、まさに「本質的なものは明かしえない」からこそ、我々は有限性を率直に認めなければならない。
(神話・狂気・哄笑 訳P177)
この有限性を「真理を語るには、言葉が不足している」というラカンの言葉になぞらえたくなる誘惑については、ジジェクに任せてしまえばいい。
息子たちの凶行 [メモ]
メモ。もはや過去の遺物か。
フロイトがそのもっとも神話的な著作の『トーテムとタブー』で思い巡らせているように、父殺しは、「社会と罪責意識の端緒となったあの偉大な凶行」だ。近代性の根底に存する「偉大な凶行」は、「父への思慕」の抑圧だ。つまり、空しさ--それはニーチェの言がよく知られているように、我々が自ら案出したものだが--を埋めてくれる何物かへの憧れの抑圧だ。私は、フロイトとは異なり、偉大な凶行が文字通り「はるか太古の時代に[考えられないほど遠い過去に]」生じたとは考えない。「凶行」という概念はすでに象徴的秩序を前提にしているが、しかしそうした象徴的秩序の方も「凶行」によってのみ確立される。それゆえ、「偉大な凶行」なくしてはいかなる象徴的秩序も設立されえないが、そうした「偉大な凶行」が凶行として規定されうるためには、我々が象徴的秩序の構造を不当に過去に投影しなければならない。だが[それでも]、フロイトの創出した神話は、シェリングが「神話的意識」と呼んだもの、つまり、世界そのもの(全領域の領域)に対する我々の関係において依然として自らを顕現するという意識の形を、よりよく理解するのに役立つだろう。
(神話・狂気・哄笑 訳P176)