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ラカン記念日



 『享楽せよ』と  君が言ったから  6月15日は  ラカン記念日







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多文化主義と目隠し


 メモ。

 多文化主義を唱える者の普遍的な位置を不断に支え続けている、まさしく特殊な文化背景ないしルーツとは、その「真相」、普遍という仮面の下に隠されているもの(「多文化主義の掲げる不偏不党な態度は、実際のところヨーロッパ中心主義でしかない……」)ではなく、むしろまったく対照的なものだ。つまり、特定のルーツを示す痕跡とは、その主体がすでに完全なる「根無し草」で、その者が本当に占めている位置は、普遍という名の虚空にすぎないという事実を隠蔽するための目隠し用のとばりとなる幻想だ。

(厄介 上 訳P387)







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人間は乗り物


 人間はDNAの乗り物にすぎない、という説がある。

 ならば、一歩進めて、人間はウイルスの乗り物にすぎない、と考えてもいいだろう。





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人間はウイルス


 人間は地球に対するウイルス(大規模な自然破壊的な活動と同時並行に、しかしながらそれに反対し、自然との共存を図るという論理矛盾するウイルス)だから、人を乗り物とする新型コロナウイルスに苦労しているからといって、それを排除しようと意図することは、倫理的に正しくない。

 よく考えてみると、人間は新型コロナ以上に、厄介なウイルスだ。

 まずはその認識から始めないと、先に進めない。






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言葉の過不足 その2


 ここでよく考えてみよう。

 男性は女性的にふるまうことができるが、せいぜいそこまでしかできない。

 女性は、男性を装うことによって、男性が女性のふりをすることを装うことができる。

 つまり、女性は女性の振りをすることができる。

 ジジェクが狙っているのは、そこにある。

 真理を多重に捻って隠す。

 それはしかし、将来の効果的な暴露を延期しているにすぎない。

 そして暴露には認識論的断絶が必要だ。

 それこそが、ジジェクが革命を、つまりコミュニズム(そのものではないとしても)を必要としている理由だ。

 ということは、オレにとっては行動としての認識論的断絶があればいい。

 そもそも、真理は自らを捻っているとしか言いようがないときがある。

 そういうわけでオレは、ジジェクからコミュニズムを外すことを可能だと考えている。






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言葉の過不足 その1


 ラカンは「真理を語るには言葉が不足している」(『テレヴィジオン』)と述べた。

 一方、ジジェクは、彼の著作において、過剰な言葉により真理を覆い隠す、という作業を経て、その真理は欠如でしかないことを示す、つまり、ジジェクの戦略はまるで「幻想を横断する」ような構造を持っている。

 どちらも戦略的には失敗しているが、少なからず追随者を生んでいる点では成功しているとも言える。

 覆い隠すことは、つまり変形の抑圧のようなもので、絵画に例えれば、カーテンやベールを描いているようなものだ。

 過剰な言葉は抑圧を見えにくくする。

 さらに、捻じれたロジックによって、真理を隠しているように振舞う。





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主体の解任


 そういえばジジェクの書物で、幻想の横断(走査)の話のときに頻出するラカンの「主体の欠乏(窮乏)」は、たぶん「主体の解任」のことだろう・・・ということに最近気づいたりする。

 こういうことはよくある話なので、オレは気にしないようにしているが、精神分析関係は重箱の隅をつつくように(複数の参考文献を同時並行的に)読まないと、見落とすことが結構あるので注意しよう。

 いや、これはオレ自身に向けての注意事項です。





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ジジェクはこう読め その5


 いずれにせよ、ジジェクの書き方は普通ではないので、読み飛ばしていると自分を見失う。

 もちろん自分を見失った方が正しい道を見つけられるという側面は捨てがたいが、「ぶっ飛ばし読書」は二度目以降でするべきことだ。

 一番最初はとにかくじっくりと、あら探しをするつもりで読む。

 そうすることでジジェクの魅力は半分消え去るが、意外と濃密な知的経験が可能になる・・・かも。






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ジジェクはこう読め その4


 もう一つ気を付けなけれはならないのは、ジジェクは我田引水が多すぎることだ。

 ときには論理が主旨の反対方向に行くこともある。

 読んでいるときに、「これは矛盾だ→翻訳がおかしいのではないか→あれ、そうでもないか」という経験を何度か、している。

 翻訳がおかしいことはないわけではないが、その多くはジジェクの些細な論理破綻(註:現実界の効果による矛盾)に起因する。

 とはいえ、ラカンやジジェクに(悪い意味で)慣れてしまっていると、原文を離れ、自分流に解釈しなおす、という作業が脳内で行われてしまう。

 つまり、もはやジジェクやラカンとは呼べないものがオレの中にうごめき始める。

 ・・・つまり我田引水には我田引水で対抗する、というわけだ・・・言い換えると、オレは学者でないので、好き勝手に読む、という開き直りだ。

 そのような読書経験の自由は・・・たぶん・・・カント的超越論的構想力の弱さに起因する・・・うーむ、違うか。







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ジジェクはこう読め その3


 さて、政治の話・・・例えば『ラカンはこう読め』の第七章に出てくる原理主義の話をしているときは、「欲動の話≒倒錯の話≒原理主義者の話」(ザックリ)ということになっている。

 これは主体とかコギトの話をするときは「欲望の限界≒主体の壊乱≒他者の亀裂≒それがデカルト的コギトの正体」(しつこいようだが、これも当然ザックリ)という展開をすることが多い。

 あるいは例えば「現実界のかけら」「ラメラ」とか言い出したら、それは欲動の話になりやすい・・・とか。

 この辺りは読む側の慣れの問題にすぎず、「傾向と対策」に慣れてしまえばどうということもないが、それまでには結構時間がかかるかも。







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ジジェクはこう読め その2


 とりあえず、読み方のコツとしては、(1)それは欲望の限界の話か? (2)それとも欲動の話か? を考えると良い。

 ジジェクは時々この二つを混同しながら・・・突然語り出す。

 というか、そもそも「欲望と欲動の違い」はラカンの思想なので馴染みが薄い人もいるだろう。

 しかしながら、この違いはジジェクを読む際には実に重要だ、というより、あまりにも重要過ぎて、オレには説明できないくらいだ。

 精神分析を語るときには、さらに加えて、欲求、要求、欲望、欲動という四局面が重要になるんだが、ジジェクのような哲学の場合、「欲望と欲動の違い」でほぼ充分だ。





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ジジェクはこう読め その1


 パラパラと『ラカンはこう読め』を読んでいたら、これはトンデモナク難解な本だということに気付いた。

 つまり、オレはジジェク節(ついでに言うとラカン節)に慣れているので、多少ぶっ飛んでいても、伏線が「まーそのうち回収されるでしょ」と楽観的に読んでしまう。

 しかしながら伏線の回収は、驚くべきことに3度目くらいの読書によって為される。

 ということに、ついさっき気づいた。






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陰謀論は存在しない その4


 排除されたモノを認識することから、たぶん政治が始まる。

 それ以上の「政治らしきもの」をオレは知らない。







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陰謀論は存在しない その3


 とはいえ、オレたちはそういうフォーマットを享楽しているのであって、そこで語られている内容はさほど重要ではない。

 そこにあるのは、ある者に対する差別意識と、そうすることによる連帯感だ。

 全体主義は排除によって成立する。

 とするならば、陰謀論をとやかく言うことは無意味だ。

 それよりも、排除されたモノが何かをよく観察することが大切だ。






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陰謀論は存在しない その2


 しかしながらこの話は「ないことにされている」というわけでもないし、「丸見えの底なし沼」でもない。

 そして、陰謀論の恐ろしいところは、疑惑はすぐに事実へと変わってしまうことだ。

 つまり、陰謀論が語られた瞬間にそれは確信(→その人の認知としてはほぼ事実)となる。

 陰謀論は、その形式だけが心的フォーマットとして存在している。

 曰く「あいつは○○人だ」「彼は、本当は○○だ」といったような。

 そこに内容を放り込むだけで出来上がってしまう。

 実に心地よく、オレたちはその言葉を聞く。

 「やはりそうだったのか」と。





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陰謀論は存在しない その1


 プロレスには筋書きがあるかないか、ということで、あるひと時、いろいろとオモシロい話を聞くことができたが、それは陰謀論とは違う。

 なぜならば、「ないことにされている」にもかかわらず、「丸見えの底なし沼」(by I編集長)だからだ。

 さて、今流行の新型コロナウイルスが人工的なものかという話題がある。

 確かに疑わしい面があるし、疑わしいと思った方が圧倒的にオモシロイ。

 「陰謀論を享楽せよ」と言いたいくらいだ。





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神的暴力


 個人的な見解(というより単なる思い付き)だが、神的暴力(これは「神話的暴力」に対置されている)は、「死の欲動」そのものと言ってよい。

 崇高的なモノを論ずる際に、超越論的構想力の弱さを原因とする、主体と法の双方の暴力が語られるが、神的暴力は「実体の亀裂」を追体験したのちの、つまりジジェク的な絶対知を経由した後の、つまり欲望の彼方から派生する暴力だ。






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政治的な調和


 政治的な意味での調和はすべて誤魔化しだ。

 だからオレは政治に近寄らない。

 関わらないわけではない。






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政治としての主体


 オレたちが歪な形でしか政治と関われないのであれば、それは政治的態度として「正しい」と言える。






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王となる条件 [メモ]


 メモ。

 言い換えれば、いまや(マルクスの言葉を引用すると)人びとはある者を、その者自身が王という存在だという理由で王だとは見なさない、ということが自明の理となった。人びとが彼を王として処遇すること、それが理由となり、かつその限りにおいて、その者は王だ。

(厄介 上 訳P343)







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ジジェクの翻訳の問題


 ジジェクの翻訳を読む際に、個人的にはまったく気にしていなかったが、「翻訳が悪い」という人がときどきいるのに驚く。

 翻訳ではなく前厄や後厄の話ではないのか、というのは単なる冗談です。

 いやそんなことないんだけど・・・と思うんだが、そういう読者の気持ちを考えるに、翻訳者がラカンや精神分析の専門的な用語に慣れていないと変な訳になる、というのはわかる気がする。

 オレは精神分析関連の訳本をそれなりに読んでいたので、そこそこ専門用語を理解しているし、その多彩な翻訳の幅にも慣れているので、ジジェクの大抵の訳本にも違和感を感じないのかもしれない。

 しかしこれは日本語しか読めない人の弱点なわけで、少なくとも英訳を読めば、多少なりとも理解できるはずだ。






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「連帯」とは何か [メモ]


 メモ。

 イデオロギーと政治におけるヘゲモニー抗争とは、以上のように、つねに「それは政治と関わり合いをもたない」とか「すでに政治の守備範囲を超えてしまっている」などと、「気にもとめられず」流通している物言いが具体的に指している意味内容の占有をめぐる争いだ。こう考えてみれば、旧東欧諸国のなかでもっとも強大だった反体制勢力の名が「連帯」だったという事実は、別段驚くに当たらないだろう。それこそまさに--このように呼べるものがあったとして--社会という存在の見果てぬ充溢を指すシニフィアンだった。その状況はあたかも、ほんの数年のうちに、ラクラウが同一視の論理と呼んでいる事柄が、極限まで先鋭して現れ出たようだった。すなわち、「現政権の座にある共産党員ども」という言表は、社会をめちゃくちゃにするもの、そして腐敗と堕落のまさしく権化として機能し、多種多様な立場の人々を対抗勢力として、現政権に愛想を尽かした「実直な共産員たち」までも取り込みながら、まるで魔法をかけたようにひとつの場に凝集していった。「現政権の座にある共産党員ども」を指さして、頑迷なナショナリストたちは「ポーランドのあらゆる権益を、ソヴェート連邦という御主人様に売り渡した裏切り者」として非難し、自分のビジネスしか頭にない輩たちは、資本主義原理に従った拘束なき営利活動の障害と考え、カトリック教会は、不埒な無神論者と憎み、農民たちは、自分たちの伝統的な生活様式を徹底的に壊滅させた近代化という暴力の源と忌み嫌った。さらに、アーティストや文化人たちにとっては、共産主義体制というコトバ自体、自分たちが日々耐え忍んできた表現の自由を抑圧するばかげた検閲制度と同義だったし、労働者たちは、共産党という官僚主義凝り固まった政治組織に自分が搾取されていると考えいたばかりではなく、さらに悪いことに、その搾取行為が自分たちを指すはずの労働者という名において、労働者のために為されていたと囁かれてきたことに屈辱すら感じていた。そして皆のしんがりには、体制を「真の社会主義」への裏切りととらえ、現状に失望しきっている年老いた左翼たちが控えていた。同じ思いを共有するどころかお互いに敵対し合ってもおかしくない立場をこえて集まった、現実には起こりえないはずの「政治的な」協力関係は、言うなれば、政治的なものと、いまだ政治ならざるものとを分かつ境界線そのものの上にはためくシニフィアンの旗のもとでのみ実現可能で、それゆえ「連帯」という言葉は、この任を担うものとしては非の打ちどころのない敵役だった。

(厄介 上 訳P317)



 めちゃオモシロい。

 左翼政権がこのような事実(もちろん誇張しているだろうが)を付随させていたことに笑ってしまう。

 しかもこれは続きを読めばわかるが、ポスト社会主義体制でもまったく同じことが起こるという歴史の皮肉に、再び笑い転げる、という仕組みになっている。






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精神分析の存在論 その6


 これはドイツ観念論の影響下で、という但し書きが必要かもしれないが、精神分析の思考は、主体の否定性を強調する場合と、「主体の否定性」の結果として「対象の否定性」が暴露されてしまった場合とで、様相が一変する。

 カントのロジックに準えるなら、コギトや崇高の話と、倫理の話へと分離してしまう。

 だがもはやこうなると「存在論」は脇に置かれてしまっているので、この話はここでやめておこう。





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精神分析の存在論 その5


 で、精神分析の考え方によると、人間は、物質界を人間の内部に把握しようとしたときに、「現象」として取り入れる代わりに「物自体」を水底に沈めた。

 つまり、現象と物自体の間に強力な裂け目が形成されている。




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精神分析の存在論 その4


 最後に主体の亀裂、裂け目としての「現実界」を考えてみよう。

 これが精神分析の存在論的な、不思議な世界となる。

 メイヤスーに、本筋としてこの考えはない(師匠のバディウにはある)。

 カントは潜在的にこう考えているはずだが、ロジックとしてはさほど表面化していない(ただし見え隠れしている)。

 ガブリエルは、こういう思考にも柔軟に対応できている(逆に言うと「存在そのもの」に対する厳密な定義を避けているところがある)。




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精神分析の存在論 その3


 次に「物自体」そのものを考える。

 メイヤスーにとっては、極論すると「物自体」は物質界の下位概念だという認識だろう。

 カントは「物自体」を人智を超えた(=叡智的な)ものとして捉えている。

 ガブリエルの考えはカントに近い、というかただのドイツ観念論だ。





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精神分析の存在論 その2


 まず、(人間以前の)「物質界」そのものを考える。

 これはメイヤスーの唯物論だし、カントだと「物自体以前のモノ」という感じ。

 ガブリエルは物質界そのものは「思考」と含蓄的絡み合いをしている。




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精神分析の存在論 その1


 ハイデガーやメイヤスー、ガブリエルの「存在論」はなんとなく理解できるような「錯覚」が可能だ。

 問題は精神分析における存在論で、これはカントの物自体やラカンの現実界を軸として考えるしか方法はないようだ。





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理性をもつ機械 [メモ]


 メモ。

 ところがラカンは、前例にない身振りでもって、まったく正反対の主張をする。フロイトの無意識は、構造上必要かつ還元できないその背景(つまり、すでに巻き込まれている主体としてのわれわれが、はめ込まれている生活背景)の不透明さとは全く関係がないという。むしろ無意識とは、主体の生活世界が要求するものに関係なく行くべき方向に従うといった、肉体は持たないが理性をもつ機械だ。無意識が理性ある主体の代わりとなるのは、それがもともと「ずれて」いる場合、つまり無意識がコンテクスト化された状況と一致しない場合で、いうなれば、無意識とは主体の根本的な足場を「世界内存在」以外の何かにしてしまう、亀裂だ。

(厄介 上 訳P106)


 ラカンを出しにしたハイデガー批判だが、意図として、ハイデガーの先にデリダやドゥルーズを見据えているのかもしれない。

 ただし、デリダもドゥルーズも(内実はともかくとしてその構造は)ハイデガーほど単純ではない。

 というか、ハイデガーを単純だと思わせてしまうフランス思想の「複雑怪奇」な構造を感じるのはオレだけではあるまい。







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デカルト的主体の過剰 [メモ]


 メモ。

 カントの「悪魔的な悪」、ヘーゲルの「世界の闇夜」・・・。

(厄介 上 訳P105)


 もう一つ言うなら、シェリングの、世代論第二草稿の「狂気」。





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