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崇高の図式化 [メモ]


 メモ。

 ・・・カントは、崇高とはまさしく「理性の理念」そのものを図式化する試みだ、と想定している。つまり、崇高がわれわれに突きつけてくるのは、想像力が機能しないこと、永久にかつアプリオリにし想像が起こらないままの状態だ、ということだ--そして、この点でこそ、われわれは否定という虚無の状態の主体と遭遇する。ようするにハイデガーが主体性という過剰な次元とそこに内在する狂気について発言できないのは、図式化論の分析を超越論の分析に限定してしまっているからだ。

(厄介 上 訳P104)






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カントの受け身の暴力 [メモ]


 メモ。

 われわれにとっての問題とは、主体のあり方の根拠になっている身振りをどのように想定すべきかということで、これは「受け身の暴力」、すなわち(想像力=構成力にはまだいたらない)抽象化という否定の行為で、「世界の闇夜」へと自己に引きこもることを意味する。この「抽象化」というのは、存在論的なジンテーゼによって、現実を構成する超越論的想像力=構成力によって隠蔽された深淵のことだ。--そのようなのとして、超越論的「自発性」が不可思議にも現れる瞬間が「抽象化」だ。

(厄介 上 訳P104)





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宇宙は存在しない [メモ]


 メモ。

 「宇宙」などというものがあるはずがない。宇宙とは存在論的に完全に構成された定率の全体性だ、といった概念など成立しない。

(厄介 上 訳P103)


 これはMガブリエル「世界は存在しない」とリンクする・・・はず。





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差異 [メモ]


 メモ。

 この点で極めて重大なのは、弁証法的唯物論の考え方=「象徴による記録」、つまり「事後に」その当の事実に現実性を刻み込むという考え方と、観念論の考え方による等式「存在=知覚すること」とのあいだに見られる差異だ。

(厄介 上 訳P100)






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意味を孕むこと その2 [メモ]


 メモ。

 もうひとつの具体的な例としては、芽生えたばかりの恋愛にみられる張りつめた状態がそうだろう。魔法の沈黙が破られる前、その状態の魅力というものを誰もが経験する--恋人の二人はすでにお互いに魅力を知っており、エロティックな緊迫感がただよう。このような状況そのものが意味を「孕んでいる」ように見える。つまり、その状況が「ことば」のなかにいきなり飛び込んで、その状況に名を与えてくれる「ことば」を探し求めようと「ことば」を待ちかまえているように見える--だが、一度言葉が現れてしまうと、それは決してしっくりとすることはない。かならず期待はずれとなって、魅力は失われ、生まれてくる意味はことごとく流産する……。

(厄介 上 訳P98)






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ドイツ観念論の意義 [メモ]


 メモ。

 しかし、ドイツ観念論が、存在論以前の手に触れることのできない領域=「現実界」の枠組みとその特徴を正確にとらえたのは、大きな前進だった。「現実界」とは存在論的に構成されている現実に先立つもので、存在論的な現実のとらえ方では理解できない領域のことを指す(これは「反論理主義」の立場から、あらゆる現実を「観念」の自己媒介による産物に還元してしまうという、ドイツ観念論についての常套句とは対照的だ)。存在論的にとらえた現実のあり方にこのような亀裂が走っていたことを最初に見破ったのは、カントだった。

(厄介 上 訳P93)





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意味を孕むこと その1 [メモ]


 メモ。

 つまり、言葉は「意味を孕んでいる」が、意味は自由に浮遊して特定できないため、その意味に決定的な解釈をつけるといった実際の象徴化は後からやってくる……。

(厄介 上 訳P92)

 何となく、精神分析の「事後性」との類似に注目しておく。





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カントの消えゆく媒介者 [メモ]


 メモ。

 たとえば、カント思考の筋道に結論をつけるとすれば、愚直な動物性と「法」に従属する人間の自由との間で、ジンテーゼをおこなう以前の想像力(=構想力)という怪物性が「怒り狂い」、部分しかない対象という亡霊のような幻像を生み出すと前提しなければならない。不完全なリビドーの対象を装って、主体の絶対的な自発性が純粋に無という状態と相互関係にある、ありえない対象にわれわれが出会うのは、このレベルにおいてだけだ。このような部分しかない対象(「血まみれの頸と--別の青白い、亡霊のような幻影」)とは、絶対的自発性としての主体が「さまざまな対象の中から、自らに出会う」ことを見せかけた、ありえない形だ。


(厄介 上 訳P89)





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哲学的テーマ 続き


 そこにジジェクは、追加する。

 4.政治

 なかなか政治を定義するのは難しいし、そこに何の意義があるのかを見出すことすらわからないが、「裂け目」や「無」や「消えゆく媒介者」などが見え隠れする「政治的状況」を見つけた時、ジジェクは大いにその現象に注目する。

 そこに、マルクス主義的なもの・・・イデオロギーのみならず、暴力的なもの=革命的なもの・・・を結びつける努力をしているようだが、オレの知る限りたいていは失敗している。

 つーか、ジジェクには失敗していることに意義があると思っている節があり、理解に至らない。





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哲学的テーマ


 1.コギト

 2.倫理

 3.崇高

 いずれもカントのテーマだが、哲学史的な共通項を持ちやすいので、考察として応用が可能という利点がある。

 思考の順番があるとすれば、2と3が逆かも。






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アンティゴネーに対するふたつの解釈


 アンティゴネーに関しては、欲望を諦めないことと、絶対知(絶対的否定性)を再-経験することにより、欲動がオレたちの現前において発動してしまうこと(典型例はメディア)、というふたつの解釈がある・・・ありえる・・・はず・・・かも・・・違うかな。





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主体の壊乱


 「主体の壊乱と欲望の弁証法」の次に来るのは、たぶん「主体の解任と反復される欲動」となるはずだ。

 オレたちはその違いを見逃してはならない。






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ハイデガーを通して


 うーむ、ハイデガーはいまだ謎だ。

 暗黒が多すぎて、見えない。






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ヘーゲルを通して


 もっと言えばヘーゲルを通してヘーゲルを読むのが一番手っ取り早い。

 とはいえ、精神現象学以前の、という但し書きが付いてしまうが。






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ラカンを通して


 ラカンを通してヘーゲルを読む、とかヘーゲルを通してラカンを読む・・・などといった苦行に飽きてきたので、例えばジジェクを通してジジェクを読む、ということにしよう。





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ヘーゲル


 なんだかんだで、ヘーゲルに戻っているのがオレの弱いところ。






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否定神学の立ち位置


 郵便的=交通的な思考と内在平面的な思考は、どちらも必然的な暴力や破壊から逃れるための究極の方法を模索している。

 しかし否定神学は暴力や破壊のもとに留まり続ける。

 そして、そこから何かが動いていくダイナミズムを観察し、変化を叙述するのが役割だということをジジェクは示しているのではないか。






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郵便的、内在平面的・・・そして否定神学的


 否定神学は、それほど神学ではない。

 そして、否定神学は、郵便的=交通的ほど行動的ではない。

 あるいは内在平面的ほど、内部に留まることの強調をすることはない。

 否定神学は、常に外部を参照する。

 これらの関係は、思うに思考の気分転換のようなものだ。

 「否定神学的→郵便的→内在平面的」は単純に「外部→交通→内部」と表現してよいだろう。

 その一連の流れから否定神学を排除してもよいのかもしれないが、そうすることのデメリットの方が大きいと感じるのはオレだけではあるまい。

 へーゲルの「肯定的判断→否定的判断→無限判断」という流れを見るならば、ますますそう感じるのはオレだけではあるまい(おいおい、しつこいっての)。






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二種類の理性のアンチノミー 続き


 前回の引用文について。

 なんだか女性性だけに怪物性が強調されているような表現だが、それ以前の文脈を見ればまったくそうではなく、男性も女性も、あるいは力学的崇高も数学的崇高も、あるいは過度な法も過度な快楽も、どちらも暴力的で怪物的で、同時に「無」、「欠如」や「否定性」に依存していることを示している。

 で、その「両性とも怪物的だ」という原因は「構想力=想像力」の弁証法の挫折(ジジェクの表現)にある。

 挫折というより、構想力=想像力自体が持っている(一義的実在に対する)破壊性と(象徴的なモノの)構築性は、(所与の段階ですでに)バランスが取れないと言った方が分かりやすいか。

 当初の目論見では独立していたはずの「構想力=想像力」を、結局カントは悟性の役割としてしまった。

 そう解釈してしまうと、のちのヘーゲル弁証法のダイナミズムのエネルギー源の、否定性=暴力性=怪物性を見失ってしまう。

 おそらく、特定の思想を「否定神学」として否定しまうことのデメリットはここにあるのではないか。





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二種類の理性のアンチノミー [メモ]


 メモ。

1.カント自身、はっきりと表明はしていないが、次のような場合、すでに二つのアンチノミーに性の問題を含んでしまっている。それは、第一の(数学的)アンチノミーを生み出す現象全体のあり方が、怪物的な純然たる集合体の「女性的な」原理に結びつけられ、そして、第二の(力学的)アンチノミーが、道徳の「法」を受け持つ男性的な原理に結びつけられてしまう場合だ。

2.「崇高」を経験するさい、苦痛が快楽へと移行することも、やはり暗黙のうちに性の問題をもり込んでしまっている。この以降が起こるのは、無秩序の集合体としての現象は恐怖を生み、その恐怖のもとには道徳の「法」があるとわれわれが気づくようになるときだ--それは、女性的な怪物性から男性的な「法」へと「魔術的な」意向が起こることと関係がある。

(厄介 上 訳P71)





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崇高 [メモ]


 メモ。

 つまり崇高とはまさに苦痛の経験からくる快楽のことで、それは想像力が痛ましいほどに機能しないという経験だったり、理解力と包括力の間に痛々しい裂け目が生ずるという経験だったりする。すると、われわれはまたもや、苦痛の中の快楽として、「快感原則を超える」フロイト的/ラカン的な享楽のパラドクスに出くわしてしまうのではないだろうか――否定的な方法によってのみ、経験されうる「もの」das Ding のパラドクス――その外形は目に見えない無のかたちとして否定的にしかとらえられない。また同様に、「法」(道徳律)が屈辱や自己卑下といった痛々しい感情を、主体が自分の義務を果たしたという深い満足感と混濁して引き起こしてしまうならば、「法」そのものが崇高な「もの」ではないだろうか。

(厄介 上 訳P70)





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自由 その3


 唯狂論的な側面を敢えて強調するならば、カントの三批判書は、まさに唯狂論の聖典となっている。

 つまり、純粋理性は、超越論的構想力の挫折として。

 実践理性は、人間として成立した、暴力の片方としての「過度な法」(自由奔放な法、とも言える)の残余として。

 判断力=芸術は、もう片方(「原主体」あるいは「悟性」)の「自由」の暴力の発露として。

 そう考えると、カントは奥深い。





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自由 その2


 人としての成立時に何が起こっているかは、ヘーゲルとシェリングを読めばいい。

 デカルトやカントが仄めかしていたことを、ヘーゲルとシェリングが後世に残しているから。

 そこに、ヘルダーリンが関与していると考えるのは楽しいが、おそらく事態は逆だろう。






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自由 その1


 元「素人ラカン派」の「唯狂論者」として告白するが、唯狂論の「教義」は未だ完成されていない。

 というか、永遠に完成しない。

 完成することなど教義(つーか、よく考えると教義など存在しない)には一言も書かれていない。

 それでもその断片をここに記しておこう。

 享楽・・・それは自由のようなものだ。

 動物的本性とは関係ない、

 人間としてもたらされるものだ。

 人間は、過度な法(=超自我)と、過度な快(=享楽)を同時に持つ。

 それは呪術的で自然に屈服する動物的本性とは相容れない。

 そのような、人としての成立を忘れてはならない。





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シェリング


 つらつらと考えているうちにシェリングの『世界年代論』(なんと『諸世界時代』と題して、過去編の第二草稿の邦訳が出ている!)は、きわめて重要な書物だということがわかる。

シェリング著作集〈4b〉歴史の哲学

シェリング著作集〈4b〉歴史の哲学

  • 出版社/メーカー: 文屋秋栄
  • 発売日: 2018/11/01
  • メディア: 単行本













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否定的な…… [メモ]


 メモ。

 ヘーゲル『精神現象学』序言より。

「精神」が真理を勝ちとるのは、完全な分裂の中に、自らを見出すときだけだ。「精神」というこの力は、否定的なものから目を背けてしまうような肯定的なものではない。何かについて、これは無意味だ、間違いだとみなし、その後「精神」が顔を背けて他のものへと向かってしまうということはありえない。そうではなく、「精神」とは否定的なものを直視し、ともに留まることによって、力をふるう。この否定的なものとの滞留とは、「精神」がその否定的なものを存在へと変えてしまう魔力のことだ。この魔力こそが、先ほど「主体」と呼んだものだ……。

(厄介 上 訳P55)

「悟性」→「事実への反駁」→「ジンテーゼが行われる前の想像力」=破壊力





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世界の闇夜 [メモ]


 メモ。

 ヘーゲル『イエナ実在哲学』(草稿)より。

人間とはこのような闇、存在しない空っぽなもので、その単純なつくりの中には、あらゆるものが含まれている--それは、数多くの表象やイメージで表される終わりのない富だったりするが、どれ一つとして人間には属さないもの--あるいは現前しないものだ。このような闇とは自然の内部のもので、魔術幻燈によって映し出された表象のようなものの中に--純粋な自己として--存在する。そして、その闇は自己をすっかり取り囲んでおり、そこから血まみれの頸が勢いよく飛び出す--すると、別の青白い亡霊のような幻影が突然その頸の前に現れ、やがて消えてしまう。こんな闇夜を垣間見るのは、瞳に映る人間を見つめ--しだいに恐ろしさをおびてくる闇となるときだ。

(厄介 上 訳P53)






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物自体と現象の分割 [メモ]


 メモ。

 このようなことから、一時的なものと永遠的なものという関係を根本からとらえて帰結してみると、一時的なものは永遠的なものの不完全な形ではない、ということになる。それどころか「永遠」なものこそが、主体の一時的な(自己)経験から生じるある特定の変異だと考えなくてはならない。これが意味するのは、両者を区別する本物の亀裂は、もはや現象の領域(一時的で認識可能な経験の領域)と、もの自体の世界を真っ二つに切り離す。そして、もの自体の「即自」が主体に現れる世界と、主体を媒介することなく、直接近づくことができるようなもの自体の「見果てぬ」「即自」の世界とを二分する。たとえば「神」は最高善という「理念」を肉体にあたえる「至上のもの」で、当然、もの自体の存在だ(われわれが一時的な経験によって認識するモノと同じような一貫性をもって、「神」を認識することはできない)。しかし「神」はもの自体の世界の存在だが、「対自」という状態の物自体だ--言い換えれば「神」とは理念をもち有限な存在(人間)が自らに対し、もの自体の世界にいる最高の存在を表象しなければならない、というあり方だ。現象学的にいえば「至上の存在」としての「神」は、経験によって一時的に認識できる対象という意味で、ひとつの現象だということは決してありえないのだが、もっと本質を突く意味においては、つまり、意識や自由を取り込む力をもった限りある存在に現れ出る存在としての意味では、「現象だ」と言える。おそらく、人の手の届かないような心的なものにあまりにも近づきすぎると、この至高の「善」にある崇高な性質が、耐え難い「怪物性」に豹変してしまうのかもしれない。

(厄介 上 訳P48)





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ホーリズム


 ホーリズム(全体論)的思考について言うならば、オレはラカンの大文字の他者という考え方に慣れているので、クワインやデイヴィドソンの思考は、個人的にそれほど違和感はない。






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イデオロギーの裏


 イデオロギーの裏に「内なる偉大さ」があると考えてしまう。

 そうすると、(誤った)イデオロギーの裏に、正しい何かがあると信じてしまう。

 しかし、イデオロギーはそのような誤解を前提(エネルギー源)としている。






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