精神分析の知 その15
ラカンはつねに失敗している。
ラカン派もつねに失敗している。
ジジェクもつねに失敗している。
オレもつねに失敗している。
サントームもつねに失敗している。
という文脈において、たぶん、オレたちは救われている。
精神分析の知 その14
したがってオレは病気だ。
と逃げたところで、主体を背負うことには変わりはない。
それが、きっと、サントームの効果なんだろう。
精神分析の知 その13
ついでに、蛇足。
つまり、蛇足は存在しない。
なぜならば、蛇に足は無いからだ。
言い換えると、「蛇に足はない」ことは存在する。
精神分析の知 その12
オレはジジェクによって導かれて、ここまで来た。
とするならば、ジジェクを救う意義はない。
もっと正確に述べるならば、無意識は存在しない。
なぜならば、「存在しないから無意識なんだぜ」とフロイトが話したからだ。
精神分析の知 その11
というわけで、オレたちは精神分析の知の彼岸まで来てしまった。
ただ、こう考えていくと、「世界の闇夜」にはまだその意義があるように感じる。
そのようにオレの無意識が(を)誘導しているとしても、だ。
精神分析の知 その10
書かれないことをやめる・・・偶然性。
書かれることをやめない・・・必然性。
書かれないことをやめない・・・不可能性。
つまり、これらは穴の周囲の出来事だ。
もちろん、ここにないのは「書かれることをやめる」なんだが、それはいつでも「可能」なので欲望としてはナンセンスだ。
そして、欲動にとっては、すでに可能は実現されているので、もっとナンセンスだ。
どうでもいいことだが、(論理にとって)当たり前の前提だからつい見逃されていること・・・それを仮に例えば「原抑圧」と呼んでみてはいかがか(大嘘)。
精神分析の知 その9
例えば、ということだが・・・。
話すのは「それ」。
読まれるのは無意識。
書かれるのは穴の周囲。
精神分析の知 その8
「話す」と「読む」と「書く」の違いに注意。
これについては、ただ「アンコールを『読め』」としか「話し」ようがない。
・・・と「書く」しかない。
精神分析の知 その7
性関係がない理由、テキトー篇。
(1)想像界に関すること。男女の性器についての、たんなる公衆便所の落書き。
(2)象徴界に関すること。たんなるシニフィアン。
(3)現実界に関すること。たんなる穴。(註:欠如にあらず)
精神分析の知 その6
重要なのは・・・たぶん・・・男性はファルスというシニフィアンに依存しているが、女性は定冠詞というシニフィアンに補完されている。
それは同時に過剰でもある。
そして、定冠詞は不定冠詞へと移動する。
精神分析の知 その5 [メモ]
メモ。
わたしから見ると、わたしの弟子たちはわたしを読むことにおいて、自家薬籠中のものにしたいという欲望に突き動かされた取るに取らない下っ端(引用者註:残念なことにオレはここにすら入らない)に比べても、はるかに劣っており、しかも、シニフィアンの欠如、シニフィアンの欠如のシニフィアンについてわけの分からないへまをしたり、あるいはファルスについてとんちんかんなことを言ったりしなかった者はひとりもいませんが、それでもわたしはあなた方に、この定冠詞(引用者註:"女性"の斜線の引かれた定冠詞
(アンコール 訳 P130)
オレの感想を言うならば、まるで、失敗することの方が有効だと、言わんばかりの・・・アレだ。
精神分析の知 その4
知識としての精神分析は、体験としての精神分析と大きく違う。
元素人ラカン派としてのオレは、知識も体験も不足している。
たぶん知識も体験も、全体像の3%程度。
だから、さほど精神分析の知に惑わされない。
ただの阿呆ともいうが。
精神分析の知 その3
分析家は「知っていると想定された主体」を利用したうえで、それを裏切る。
まるで恋愛と破局の疑似体験だ。
なので、セミネールで何を語っているのかと、それがどういう効果をもっているのかはまったくの別問題だ。
というか、ラカンの語っている内容など、はっきり言ってどうでもいい。
その言説の効果がどうなっているか、の方が、その内容よりもはるかに精神分析的だから。
精神分析の知 その2
元「素人ラカン派」として言うならば、ラカンの「言説」からは、ラカンの分析手法は見えてこない。
ところがセミネール自体が、ラカン信者に対する分析的言説になっている可能性を否定できない。
分析的言説とは、要するに分析空間(分析時間とも言える、つまり短時間セッションとしての区切り)を通して無意識的なものを醸成することだ。
分析家と被分析者の間に、空間と裂け目を登場させること、それが分析空間(時間)だ。
精神分析の知 その1
精神分析にとって「何を知っているか」は問題ではない。
知は、主に大学のディスクールに属するが、それでは精神分析にとって知とは何か。
それは、知の反対側で起こっていることから推測できる。
それが話すところで、それは享楽する。
そして、それは何も知らない。
(アンコール 訳 P186)
性関係
性関係はない。
より正確に言うと、(心の世界では)性関係はなかった、と言うべきか。
男性だ女性だとミレールの師の公式と遊んでいても仕方がない。
まず、ヒトは話す存在としてヒトと出会う。
そして、シニフィアンとはすぐれて見せかけのものだ。
つまり、象徴界の欠如と現実界の穴(の周囲)にいったい何ができるというのだ。
もちろん何もできない。
それだけで性関係はないと言える。
都知事選挙
都知事選挙にいろんな人が出るらしい。
自国の多数を形成する民族を大切にするか、グローバルスタンダードを大切にするか、ということで議論が分かれるとするならば、どちらもレイシズムを誘発するだろう、という予測ができるので、都民は究極の選択をすることになる。
だが、そこで絶望してはいけない。
幸いなことに、ヒトラーとムッソリーニだけが立候補する選挙ではないから。
二段階作戦
よく考えてみると、世界の闇夜がすでに二段階作戦の考え方だった。
つまり、原抑圧をヘーゲルのテキストの中に読むには、細分化が必要というわけだ。
いずれにせよ、『差異論文』に「二つの闇夜」という表現はあるが、「原抑圧的な穴」と「全体の中の欠如」の対比になっているかは(そういう解釈はできなくもないが)、イマイチ判然としない。
そう主張するだけなら、簡単なんだが。
原抑圧
世界の闇夜を原抑圧と考えてよいものかどうか、オレは少し逡巡している。
「対自」と「自己意識」の二段階作戦なら世界の闇夜は二つ存在可能だが、単なる数合わせになってしまう。
世界の闇夜の二つ目はどこに登場するか
主体の欠如、これは恐らく象徴界の欠如だろう、主体の欠如が他者の欠如と通底しているのは、幻想の横断(走査)によって語られる。
しかし、他者の欠如を穴として、限界は超越に優先しないものとしての穴を考えなければならないときがある。
例えば、幻想を伴わない場合、オレたちはもはや症例(サントーム)とともに生きるしかない。
とはいえ、イメージを伴わない世界の闇夜は、ただの漆黒だ。
つまり、スターレス・アンド・バイブル・ブラック。
というわけで、オレたちはジェイミー・ミューア脱退直後のキング・クリムゾンを聴くしかない。
ジジェクの限界
ジジェクの限界は、要するに最晩年のラカン、死にぞこないのラカン、言葉が不足しすぎてついトポロジーに歩み寄ったラカン、マテームで遊ぶしか能のないラカン、そして結局ボロメオの輪を捨てるしかなかったラカン・・・そんな彼を捉え損ねていることだ。
限界の理由は簡単で、闇夜について、ラカンのようにヘーゲルは述べていないからだ。
なので、ジジェクは既存の「現実界のかけら」とか「ラメラ」の話を出して誤魔化す、あるいは無限判断的言説で誤魔化す。
ミレールの視点からはペテン師と呼ばれても仕方がないが、限界は超越に優先するのだから、特に問題はない。
コミットさん
コメットさんといえば大場久美子なんだが、そんな名前知らないよ、と言うあなたは若い。
大場久美子だってすでに2代目なんだぜ、などという話はどうでもいい。
さて、オレはここで「コミットさん」というドラマを思いつく。
彼女は常に何か(会社、家庭、友人関係、恋愛等々)へコミットすることに失敗するという、まさにポストモダンの主体として生きる青春ストーリーを考え始めたが、オレ自身がこのストーリーへコミットすることに失敗し、挫折した。
ヘルダーリンと世界の闇夜
ヘーゲルの「世界の闇夜」は、ヘルダーリンの狂気の影響があるような、ないような・・・。
われ思うゆえにわれあり・・・の実在論
Mガブリエルは、デカルトの「われ思うゆえにわれあり」を、「私が考える」からこそ「私は存在する」、言い換えると「私が考えないと私は存在しない」ということを述べている。
・・・と言うからには、極論すれば「私が考えなければ、何ものも存在しない」と言っているに等しい。
メイヤスーは、逆に「私が考えなくても、私は存在している・・・それどころか、人間が存在しなくても、いろいろなものがここに「在る」ではないか」と主張する。
センスデータ論とヘーゲル
オレの思想的な前提として、こんな話をするつもりは毛頭ないんだが、センスデータ論を考えるに、ヘーゲルの「モノ→心像→名付け」という(神話的)心的運動を参照すれば、主体に取り込まれた時点で、センスデータは最初から主体の影響が強いので、客観的なデータとしては・・・つまりエビデンスとしては・・・弱いのではないか。
逆に強みとしては、主体を経由することで、積極的に「世界」と対峙することが可能になる。
対自的
ヘーゲルを理解するために肝要なのは、「自己意識」だという。
概ねオレはそれに同意するが、しかし、細かく言うとそうではない。
まず即自的な直観があって、次に対自的な・・・ある意味「認識の革命」だと言ってよいと思うが・・・「直観の直観」がある。
そこでいったん、モノは強制的に単なる認識の「心像」・・・この段階が一部で有名な「世界の闇夜」・・・として取り扱われる。
それらの「心像」に「名」を与えることで、やっと精神は「目覚め」て、「意識」というレベルへと到達する。
おそらくカントの構想力は、(物自体を奈落の底に沈めることで)モノを心像へと変換する「対自」の役割として定義された。
そのあとにその名の群れを関係付けたのは自我(カント的には「統覚」)だ。
それで主体はやっと、ヘーゲルによって「意識」と呼ばれるようになる。
厳密に順序を言うと自己意識は、そのあとだ。
しかし、(こういう発想が許されるとすればだが)上述は概念的な時間軸にすぎず・・・つまり事後的に与えられた考察にすぎず、思考の実態としては、対自的な動きは、ほぼ自己意識の活動と考えても構わない、と思う。
オレたちのヘーゲル
オレたちが、まるで現代思想の誰かの著作を読んでいるように、ヘーゲルを読んでいるという事実を蔑ろにしてはいけないだろう。
むしろ、そういう現代思想の状況こそが非常に危うい。
だからといってその解決策は、思想界にはない。
主と奴の弁証法と嘘つきのパラドクス
主と奴の弁証法が、主人と奴隷の「逆転」する過程を語っているとするならば、それよりも、もっとふさわしい表現がある。
それは「私はいま、ウソをついている」という、パラドクスだ。
語り手としての「私」はウソをついているのかいないのか、この表現では判定がつかない。
というか、思考するたびに「逆転」が繰り返される。
こういう思考の方が、主と奴の逆転を語るには、ふさわしい。
残念ながらヘーゲルの『精神現象学』の文脈では、このようなパラドクスを意図していない。
主と奴の弁証法に関するきわめて安直な考察
哲学者の岡本裕一朗は、ヘーゲルの『精神現象学』の「主と奴の弁証法」という名で一般に信じられている「主人と奴隷の逆転現象」など存在しない、と主張している。
主と奴の弁証法(というか「逆転現象」)は、主にコジェーヴ(フランス現代思想の形成に大きな影響を与えたヘーゲル学者)による解釈でお馴染みだ。
そして、ラカンやジジェクもそういう文脈で理解している。
そう理解する動機はたぶん、マルクス主義への「配慮」だ。
では本当にヘーゲルは「主と奴の逆転」を語っているのか、オレは原典に当たってみようとした。
ところが身近に原典がないので、翻訳に当たってみることにした。
なぜかウチには『精神現象学』の翻訳がいくつか(個人的な趣味で書いておくと、とりあえず岩波のデカい箱入り2冊と作品社を押さえておけばいい)あるので、読み比べてみたら、たしかに、少なくとも「主と奴」は逆転していない。
そのあとのストア主義への言及を考慮に入れるならば、奴隷の「自主・自立性の獲得」は、主人と立場を入れ替えることではなく、「物」に対する(「物」という他者を経由した)労働を通して、達成される、と考えるのが自然だ。
とはいえ、個人的には、この辺りは些細なことであまり問題視していない。
ヘーゲルは、いろんな身分がある中で、あえて極端な「主人」と「奴隷」という関係をピックアップし、その「選択」の結果、後世に誤解されることになったのだと推定している。