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センスデータ論とヘーゲル


 オレの思想的な前提として、こんな話をするつもりは毛頭ないんだが、センスデータ論を考えるに、ヘーゲルの「モノ→心像→名付け」という(神話的)心的運動を参照すれば、主体に取り込まれた時点で、センスデータは最初から主体の影響が強いので、客観的なデータとしては・・・つまりエビデンスとしては・・・弱いのではないか。

 逆に強みとしては、主体を経由することで、積極的に「世界」と対峙することが可能になる。






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対自的


 ヘーゲルを理解するために肝要なのは、「自己意識」だという。

 概ねオレはそれに同意するが、しかし、細かく言うとそうではない。

 まず即自的な直観があって、次に対自的な・・・ある意味「認識の革命」だと言ってよいと思うが・・・「直観の直観」がある。

 そこでいったん、モノは強制的に単なる認識の「心像」・・・この段階が一部で有名な「世界の闇夜」・・・として取り扱われる。

 それらの「心像」に「名」を与えることで、やっと精神は「目覚め」て、「意識」というレベルへと到達する。

 おそらくカントの構想力は、(物自体を奈落の底に沈めることで)モノを心像へと変換する「対自」の役割として定義された。

 そのあとにその名の群れを関係付けたのは自我(カント的には「統覚」)だ。

 それで主体はやっと、ヘーゲルによって「意識」と呼ばれるようになる。

 厳密に順序を言うと自己意識は、そのあとだ。

 しかし、(こういう発想が許されるとすればだが)上述は概念的な時間軸にすぎず・・・つまり事後的に与えられた考察にすぎず、思考の実態としては、対自的な動きは、ほぼ自己意識の活動と考えても構わない、と思う。







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