ジジェクはこう読め その4
もう一つ気を付けなけれはならないのは、ジジェクは我田引水が多すぎることだ。
ときには論理が主旨の反対方向に行くこともある。
読んでいるときに、「これは矛盾だ→翻訳がおかしいのではないか→あれ、そうでもないか」という経験を何度か、している。
翻訳がおかしいことはないわけではないが、その多くはジジェクの些細な論理破綻(註:現実界の効果による矛盾)に起因する。
とはいえ、ラカンやジジェクに(悪い意味で)慣れてしまっていると、原文を離れ、自分流に解釈しなおす、という作業が脳内で行われてしまう。
つまり、もはやジジェクやラカンとは呼べないものがオレの中にうごめき始める。
・・・つまり我田引水には我田引水で対抗する、というわけだ・・・言い換えると、オレは学者でないので、好き勝手に読む、という開き直りだ。
そのような読書経験の自由は・・・たぶん・・・カント的超越論的構想力の弱さに起因する・・・うーむ、違うか。
ジジェクはこう読め その3
さて、政治の話・・・例えば『ラカンはこう読め』の第七章に出てくる原理主義の話をしているときは、「欲動の話≒倒錯の話≒原理主義者の話」(ザックリ)ということになっている。
これは主体とかコギトの話をするときは「欲望の限界≒主体の壊乱≒他者の亀裂≒それがデカルト的コギトの正体」(しつこいようだが、これも当然ザックリ)という展開をすることが多い。
あるいは例えば「現実界のかけら」「ラメラ」とか言い出したら、それは欲動の話になりやすい・・・とか。
この辺りは読む側の慣れの問題にすぎず、「傾向と対策」に慣れてしまえばどうということもないが、それまでには結構時間がかかるかも。