言葉の過不足 その2
ここでよく考えてみよう。
男性は女性的にふるまうことができるが、せいぜいそこまでしかできない。
女性は、男性を装うことによって、男性が女性のふりをすることを装うことができる。
つまり、女性は女性の振りをすることができる。
ジジェクが狙っているのは、そこにある。
真理を多重に捻って隠す。
それはしかし、将来の効果的な暴露を延期しているにすぎない。
そして暴露には認識論的断絶が必要だ。
それこそが、ジジェクが革命を、つまりコミュニズム(そのものではないとしても)を必要としている理由だ。
ということは、オレにとっては行動としての認識論的断絶があればいい。
そもそも、真理は自らを捻っているとしか言いようがないときがある。
そういうわけでオレは、ジジェクからコミュニズムを外すことを可能だと考えている。
言葉の過不足 その1
ラカンは「真理を語るには言葉が不足している」(『テレヴィジオン』)と述べた。
一方、ジジェクは、彼の著作において、過剰な言葉により真理を覆い隠す、という作業を経て、その真理は欠如でしかないことを示す、つまり、ジジェクの戦略はまるで「幻想を横断する」ような構造を持っている。
どちらも戦略的には失敗しているが、少なからず追随者を生んでいる点では成功しているとも言える。
覆い隠すことは、つまり変形の抑圧のようなもので、絵画に例えれば、カーテンやベールを描いているようなものだ。
過剰な言葉は抑圧を見えにくくする。
さらに、捻じれたロジックによって、真理を隠しているように振舞う。