メシア性
デリダのメシア性(メシアニズムなきメシア的なもの)は政治的文脈で語られている、と思われているようだが、そんなことはオレにはまったく関係がない。
そうやって数学の公式に当てはめるように、安直に読むことこそ、脱構築とは程遠い。
そもそも脱構築すらどうでもいいんだが。
神なき時代の普遍性は可能か
まさに現代は神無き時代、父無き時代というわけで、混迷しているイメージが蔓延している。
混迷とか混沌は単なる墓碑銘として墓場に置いておけば良いとして、そこに普遍性を見出していかねば、という難題が待っている。
普遍性は、結局「神」あるいは神の代替としての「神の名」、あるいは神の欠如
示すシニフィアン、あるいはシニフィアンの欠如したシニフィアンを利用するしかない。
神の名は父の名で、父の名は他者を代替するという、恐るべき論理的飛躍によってオレたちは普遍に到達する。
一神教的構造はいくら脱構築されようが、ズタズタに破壊されようが、残滓として腐敗しながら、深海の底に屹立している。
あるいは、屹立している・・・という夢を見る。
白状 [メモ]
メモ。
つまり、あなたはこう白状するわけだ、私たちは否定神学について確かに何かを知っている、私たちは空虚さのなかで否定神学について語っているのではない、こうした知識がいかに最小限でもかりそめのものだとしても、私たちは事後的にやってくる。私たちは否定神学を事前に理解している・・・。
(sauf le nom p35)
放置理論
いつも思うことだが、オレはここに正しいことを何一つ書かず、むしろ誤ったことばかりを書き散らしている。
そういう事実があること、そしてそれをつねに確認できることを、オレは認めつつ、放置している。
不安理論
いつも思うことだが、オレはここに正しいことを何一つ書かず、むしろ誤ったことばかりを書き散らしている。
そういう事実があること、そしてそれをつねに確認できることで、オレは不安の中にいる。
安心理論
いつも思うことだが、オレはここに正しいことを何一つ書かず、むしろ誤ったことばかりを書き散らしている。
そういう事実があること、そしてそれをつねに確認できることで、オレは安心している。
否定神学の傍らで寝そべる
否定神学自体は、方法論として魅力的だが、正しく的を射るわけではない。
なんだか知らないが、そっちの方向へ飛んで行って、実際は通り抜けて、どこかへいってしまう。
なので、「否定神学のもとに滞留する」という宣言は撤回しなければならない。
「否定神学の傍らで寝そべる」。
これこそがオレたちの生き方・・・・かも。
デ・ヨングのポジションの変遷 [サッカー]
もともとフレンキー・デ・ヨングのポジションは、アヤックスではドブレ・ピボーテの一枚だった。
バルサに来た当初は、右インテリオールで、メッシが中央に寄るのでサイドのケアをしたり、右ラテラルが上がればその後ろをケアしたりと、裏方の仕事が求められた。
次に戦術の関係でバルベルデがラキティッチを右インテリオールに使い始めたので、左に移って、左サイドの裏のケアと、そこからのボールの運び出しをするようになった。
今のクーマン体制から、ドブレピボーテの左を担当するようになって、アヤックスの時と似た仕事をし始めた。
インテリオールの時よりもさらに守備の度合いが上がり、最終ラインに吸収されることも増え、また、ボールをよく運ぶようになった。
ブスケツが前線に上がってプレッシングをするのは、メッシの戻るスペースを作るという意味もあるので、メッシが下がってこないときは、デ・ヨングが一人で右までカバーしなければならない。
バルサの戦術はアヤックスと違い、メッシを生かす(守備に走らせない)意味が大きく、その歪みの補正(運動量でカバー)の大部分をグリーズマンとデ・ヨングとコウチーニョでやっている。
この3人が蓄積疲労等で怪我をした場合は、代わりがいるかどうかという問題は、補強で何とかしようという意図があった。
グリーズマンのところはデンベレでもトリンコンでもよさそうだし、コウチーニョのとこは、もしかするとグリーズマンがトップ下で、右にデンベレかトリンコンということか、そして、ピボーテはピャニッチができそうだ。
ダラダラ読書 その4
たぶん、「名指されないものは無理せず放置、名指されるときは、その時々の、その場所たちの、それぞれの理由があるはず」という主張が出てくるかと思うが、それはまた、きわめて現代的で微妙な思考だろう。
オレたちは、確かに現代に生きている。
ということを、オレたちは読書から得ることができる。
ダラダラ読書 その3
また、「名」に関していうならば、名指しするのは、複数の「父親」で、過去とは違って彼らは世界を統べるような力を当然持っていない。
その都度償還される父(たち)の名指しは、一貫性がなく矛盾を招くことがあり、それゆえ、オレたちは軽くめまいを感じる。
めまいとともに生きるために、めまい程度で済むように、脱接続しないように、オレたちは工夫しなければならない。
ダラダラ読書 その2
というわけで、ダラダラと『名を救う』を読み始める。
否定神学というのは、オレの勝手な解釈では「理性の暴走」を利用して、把握不可能な「神」を捉えようという発想だ。
暴走とは、例えば分数の分母にゼロを置いて考えるようなもので、無限大への飽くなき追跡を「人間」が実行することによって、「限界を超えた」という意味での思考不可能なものを、作業として捉えることが、可能になる、という楽観的な発想だと言える。
ダラダラ読書 その1
ダラダラと『信と知』を読んでいる。
これはもしかすると、デリダの後期思想の多くの要素が闇鍋のように放り込まれているのではないか。
とはいえ、オレは宗教や政治論には興味がなく、ほぼ「真理論」とか「特異性と普遍性の対比」としてしか読んでしない。
『信と知』の内容が濃すぎて、食アタリを起こしそうなんだが、今後ダラダラ読み続けているうちに、きっと数年後には消化されるだろう。
シニフィアン
ごくごく単純に言うならば、オレはシニフィアンが好きなんだろう。
意味のない、シニフィアンが。
そして、たぶんララングが。
その「好き」を、「享楽」と呼ぶことへの、わずかな抵抗を・・・。
第5節・今季の可能性 [サッカー]
バルセロナ第5節の話。
結果は引き分けだが、多少の実りを感じさせるセビージャ戦だった。
前半は両チームとも切り替えの早い展開で、過密日程の中で出せる限りの、(ポゼッション戦術の守備としての)いわゆるモダンなハイ・プレッシングの典型をときどき見せていた。
個人的には後半35分の、デストとペドリの新加入若手コンビで左サイドを支配してメッシがシュートした場面で可能性を感じだ。
また、その次の場面でブスケツが右サイドを上がって、トップ下にポジションを変えていたデ・ヨングのシュートが印象に残った。
しかし、ただでさえ戦術的に運動量が多いのに、この過密日程下で最後にトップ下で相手最終ラインへのプレッシングをさせるという、過酷な役割をデ・ヨングにやらせていたが、それは彼だからこそ耐えられたといえる。
今季の戦術として、左サイドで「簡易」オーバーロードを作って、攻撃の体裁を保っていたが、デストの加入でさらにそれを補強できそうな予感がする。
デ・ヨングの代わりを、もしかするとペドリができるかもしれない、技術はともかくそれくらいの守備とパスのセンスはある・・・とすればデ・ヨングを休ませることもできるだろう。
というわけで、ファティもいるしコウチーニョも寄りがちな左サイドは安泰だと思う。
右サイドについては、グリーズマンが点を取れぱ、うるさい人たちが黙ると思うので特に心配はしていない、あれだけ守備をしていれば監督は使うしかない。
ピャニッチはイエローカードをもらいながらもパス供給としては効いていたので、今後の期待はできる。
セントラル(CB)は、ピケ、ラングレ、に加えてアラウホが使えそうなので安心、もちろんアラウホがハイプレスで狙われたらお終いだが、そこまでのチームはリーガにはないので大丈夫だし、いざとなったらブスケツがセントラルに入れば、その分若手を使えることになるので、CB候補のエリック・ガルシアの加入が伸びたのも、もしかすると良かったのかも・・・です、そういう諸々をクーマンが納得していればいいのだが。
立場の違い
オレは福田恆存の旧仮名遣いが好きだ。
とはいえ、彼の思想が好きかどうかは分からない。
オレは吉本隆明の、誰に対しても攻撃的な文章が好きだ。
とはいえ、彼の思想が好きなわけではない。
他人の、立場とか、思想とか、知とか、どうでもいい。
できれば、カントのように生きられれば、と思うときがある。
テン・ハフのプレッシング [サッカー]
バルサの試合を観ていると、なんとなく既視感があり、それが何かと考えていたら、テン・ハフのアヤックスと少し似ていることだ。
クーマンのACのスロイデルはテン・ハフのACをやっていたし、クーマンが率いていたオランダ代表も、アヤックス・スタイルの多くを踏襲しているとみていいいだろう。
歴史を繙いて考えれば、アヤックスの戦術をバルサがやることに違和感はない。
バルサの哲学はクライフがアヤックスから輸入してきたものだから。
特にプレッシング方法はテン・ハフ・アヤックスと似ているような気がする。
多分前線のサイドで菱形を作って取り囲むやり方を見て、既視感を感じたのだろう。
もちろん詳細は違い、例えばブスケツが前線へプレッシングしたりするのは、ラテラルが高い位置に常駐するバルサらしい守備と言うべきか・・・というか、もともとメッシの守備作業は軽減されているので、その調整(妥協)を必要とするのが、アヤックスと大きく違う。
生きる理由
オレは〇〇志願者だった。
と、ここで言うほどのことでもないが。
自分が生きるということの、価値を見出せなかった。
だから、自ら〇〇ことに対する違和感はなかった。
そういう権利があるものだと思っていた。
だけど〇〇なかった。
〇〇なかった。
理由は単純。
周囲に迷惑をかけたくなかったから。
というわけで、いつの日からか、〇〇なかったという、結果として生き延びてしまったという事実を基にして、オレは生きる理由を求め始めた。
土着思考
ときどき自分の思考のルーツが何か、考えるときがある。
逆に言うと普段は考えない、ということだが。
オレの思考の源は、たぶん不条理文学だと思う。
オレは小さいときから、ずっと自分がおかしいと感じていた。
それを環境のせいか、自分のせいか、という二択で解決しようとしていた。
しかし、もちろんそれらでは解決しない。
不条理文学は、気分として、自分のおかしさとか違和感を、他者の側から、自らの外側から、活字の側から示してくれた。
そのような現前は、それまでになかった、自らの居場所を見出したと勘違いするに値するものだ。
勘違いでも、それは、ある種の享楽だ。
それだけで、ひとは生き延びる。
否定的な道 [メモ]
メモ。
「否定的な道」は、たしかにキリスト教のうちにその出生証明書をもっているが、それにもかかわらず、もしくはキリスト教の内側からそれを突き抜けるかたちで、ある一つのギリシア的伝統に、すなわち存在を超えた彼方に「在る」ものという思想の伝統に、自らの可能性を認める。このギリシア的--プラトン的、プロティノス的--伝統は、ハイデガーまで、さらにその後にまで追求されている伝統だ。
(信と知 23章)
否定神学
否定神学は否定神学ではない。
デリダ的な否定神学は、東浩紀のデビュー作を読んで思い起こされるような否定神学とは違う。
それは、『名を救う』を読めばわかるはずなんだが、オレ自身がまだそこまでに至っていない。
とはいえ、「否定の道」「否定的な道」と訳されるあれやこれやが、否定神学との親和性が高いことが、彼自身によって記されている。
それは永遠の抽象性というか、どこにも所属しないような、どのような位置づけも拒否するような、どのような解釈からも免れるようなモノに類似し、同時に依拠している。
「存在の彼方にある極端な存在」というようなイメージは、否定神学のイメージとは違う、という読み方が可能ならば、否定神学は否定神学ではない。
読んでいる その2
ドルトは天才だ。
だからドルトの理論はあまり役に立たない。
天才の行為を実践することを、凡才はできない。
しかし、彼女の本はいつもオレを力づける。
きっと再現不可能な技術の実践を目の当たりにし、そこに可能性を感じるからだろう。
読んでいる その1
いま、読んでいるのはデリダ『信と知』、ドルト『少年ドミニクの場合』の二冊。
同時並行の読書だ。
そしてどちらも精神分析的な言説だ。
いや、どう考えてもデリダの本は宗教について書かれている。
しかし、例によって宗教を、あるいは政治を省いて・・・それは不可能なんだが・・・読むことができる。
それがまた、デリダの書の懐の深いところだ。
少なくとも
少なくともオレたちは、まだ希望をもって生きていこうとしても、その抵抗は少ない。
だからこそ、オレたちは話しながら、生きていく。
第4節セルタ戦 [サッカー]
クーマン・バルサの公式2戦目は、相性の悪いバライドスでのセルタ戦だった。
両チームともプレッシングする展開の中で、ボールを動かす技術はさすがにバルサが一枚上だ。
セルタが守備時に5バックなので攻めあぐねていたが、バルサはやはり左サイドからの攻撃がメインで、アルバ、デ・ヨング、ファティに加え、コウチーニョが左に寄ることが多いので、左の数的優位が自然にできてしまう。
そうするとボールに触らないと中毒症状を起こすメッシが右に張るわけがなく、右で孤立するグリーズマンはますますボールから遠ざかる。
とはいえグリーズマンの動きは決して悪くなく、DFを引き付けるべくボックス内に入りこみ、そこにチャンスが生まれている。
コウチーニョが好調なのは、精神的な面の復活だろう、少しずつ自信を取り戻し、縦横無尽な動きとして反映されつつあるので、クーマンが彼を戦力として残したのは慧眼だと思う。
おかげで、メッシ依存症という致命的な難病からは脱しつつある。
もともとバルサは伝統的にスーパースターシステムを取っていて、必ずそこに守備の歪みが生じるので、誰かが犠牲になるしかない。
例えばセルジ・ロベルトが相手のペナルティボックスに行く機会が少ないのは、冒頭に書いた左サイド偏重に加えて、彼の裏をフォローするのがブスケツしかいないからで、これはデストが来ても状況は変わらず、ポスト・メッシを視野に入れた獲得という考え方もありそうだ。
あるいは忘れてはならないこととして、グリーズマンが献身的な守備をしなくてはならない理由もここにあるんだが、この時点でそれを語るのはやめておこう。
デ・ヨングが中盤で機能しているのは当然で、ACのスロイデルはアヤックスで、クーマンはオランダ代表で、彼の卓越した動きを経験しているので、単にそういう成功事例を再現しようとしているに過ぎないだろう。
だからクライフの嫌いな4-2-3-1(生きていれば必ず文句を言うはずだ)でも、クーマンは自信をもって「ボールを回せる」と断言できるというわけだ。
ドブレ・ピボーテは横の関係だけではなく縦の関係もあり、ブスケツはときどき前線まで敵のボールにプレッシングに行き、そのときデ・ヨングはおとなしく味方のセントラル(CB)の前で待っている、この2人の関係は、それぞれ敵味方の状況に応じた戦術的なセンスがあるので、ほぼ阿吽の呼吸でやっていると思う、練習時には当然コーチ陣から指示があるとはいえ、こういう関係はいかにもバルサらしい。
前半終了間際にラングレが退場になり、グリーズマンに代わってアラウホが入ったのはともかくとして、残り25分で一人少ない中、好調なコウチーニョとファティを外してペドリとトリンコンを入れたのには驚いた、こういう起用は若手を育てると思うので、勇気ある英断に拍手したい。
一人少ないときの守備は4-4-1で、当然振り回される展開の中、運動量で頑張り無失点に抑えたのは感動的とも言える。
後半の得点シーンはいずれもメッシ絡みで、カピタンがチームが苦しいときに力を発揮するのは良い展開だ。
というわけで今のところクーマンへの期待は膨らむ一方だ。
次のセビージャ戦で、バルサのプレッシング戦術の有効度を計れると思われる。
簡単にバブルがはじけないことを祈ろう。
健康
オレたちは健康を求めている。
健康は、医療費の削減につながるという説があるけど、長生きすることで、かえって国レベルの医療費の負担は大きくなるような気もする。
長生きはまた、年金の負担の増加にもつながる。
つまり、健康とは完全に個人の幸福の問題だ。
一者的な享楽 [メモ]
メモ。
ラカン自身がこのような一者的な享楽について論じるようになったのは、おそらくは1969-70セミネール『精神分析の裏面』においてだ。彼はこのセミネールのなかで、フロイトの「唯一特徴」という概念を参照しながら、「享楽の侵入の記憶を留めるものとしての特徴」という表現を用いている。近年のミレールの読解に従えば。ここで言われている「享楽の侵入」とは、子供がはじめて言語と出会ったときに生じた衝撃としての「身体の出来事」のことだ。この享楽の侵入以降、人はその享楽を忘れることができず、たえずそれを反復するようになる。その意味において、反復は享楽の回帰によって基礎づけられている。そして、この反復的な享楽こそが、症状の根にある享楽だ。だとすれば、フロイトやラカンが取り扱ってきた症状、すなわちメタファーとしての症状は、その「享楽の侵入」の反復の結果として生まれた二次的な派生物ということになる。
(享楽 P56)
ラカン的思考を維持するために必要なこと
なぜオレたちはジジェクを支持するのか。
なぜオレは明晰にラカンを語ることを疑問視するのか。
それは、ラカン的思考を維持するためだ。
ラカンは、知の側にいない。
だから、ラカンに対する明晰な言明は、それを語る真摯な姿勢と卓越した優秀な分析能力にも関わらず、それだからこそ、知の側に居続けることで、ラカンとは離れる。
明晰な頭脳は、白痴の頭脳とは別のものだ。
ジジェクはつねに不足している。
言葉は過剰だが、つねに意味が不足(不作)している。
ただそれだけの意味で、ジジェクの存在意義がある。
というか、このような無意味な思考パターンを理解するのは難しい。