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超越論的シニフィエ その2 [メモ]


 メモ。

 事実、超越論的シニフィエなるものが主題になったのは、絶対的に純粋で、透明かつ一義的な地平においてだった。翻訳が可能な限りにおいて、というより翻訳が可能だと思われている限りにおいて、翻訳はシニフィエとシニフィアンとの区別を実際に行っている。けれども、この区別が決して純粋なものでないとすれば、翻訳もやはり純粋ではなく、したがって翻訳という概念は、変形という概念へと置き換えられなければなるまい。すなわち、ある言語の他の言語による、またあるテクストの他のテクストによる規則だった変形という概念だ。ある言語から他の言語へ移すに際して、あるいはただ一つの同じ言語の内部においても、シニフィアンという道具--すなわち「運搬具=乗り物」--によって冒されず無傷のままでいるような、そういう純粋なシニフィエが、なんらかの仕方で「運搬」されるということは、決してないだろうし、これまでも決してなかった。

(ポジシオンP32)





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超越論的シニフィエ その1 [メモ]


 メモ。

 というのも、「超越論的シニフィエ」なるものは、それ自体においてはその本質上いかなるシニフィアンへも差し向けず、当の記号連鎖を超過しており、もはやそれ自体、ある契機においてシニフィアンとして機能しないだろうから。ところが逆に、そのような超越論的シニフィエの可能性を問題視し、すべてのシニフィエはまたシニフィアンの態勢にもあることを認めるならば、その瞬間から直ちに、シニフィエとシニフィアンの区別は--つまり記号は--その根底において問題をはらんだものになる。

(ポジシオンP31)




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