否定的な道 [メモ]
メモ。
「否定的な道」は、たしかにキリスト教のうちにその出生証明書をもっているが、それにもかかわらず、もしくはキリスト教の内側からそれを突き抜けるかたちで、ある一つのギリシア的伝統に、すなわち存在を超えた彼方に「在る」ものという思想の伝統に、自らの可能性を認める。このギリシア的--プラトン的、プロティノス的--伝統は、ハイデガーまで、さらにその後にまで追求されている伝統だ。
(信と知 23章)
否定神学
否定神学は否定神学ではない。
デリダ的な否定神学は、東浩紀のデビュー作を読んで思い起こされるような否定神学とは違う。
それは、『名を救う』を読めばわかるはずなんだが、オレ自身がまだそこまでに至っていない。
とはいえ、「否定の道」「否定的な道」と訳されるあれやこれやが、否定神学との親和性が高いことが、彼自身によって記されている。
それは永遠の抽象性というか、どこにも所属しないような、どのような位置づけも拒否するような、どのような解釈からも免れるようなモノに類似し、同時に依拠している。
「存在の彼方にある極端な存在」というようなイメージは、否定神学のイメージとは違う、という読み方が可能ならば、否定神学は否定神学ではない。