名指すこと、名指されること
ここしばらく名指すこと、名指されることに関する本(の群れ)を読んでいる。
それはつまり名指さないこと、名指されないことに関する考察だ。
それは例えばロルが名指すことに関与していると言ってよいが、クリプキのそれとはやや異なっているだろう。
たぶん究極的にいえば、名指されないことは、固有性、個別性、唯一性、特異性とは無縁の世界だ。
そこに普遍性を見出そうというのは、はたして有効だろうか。
普遍性の次元が違う・・・ということくらいは理解できるが・・・。
参照点
ラカンを参照点としたくても、もはや材料とするネタがない。
とすれば、小文字の父の名として、ミレールを参照点とすればいいのか、というと、それもまた、違う何かだ。
小さい父の名がウジャウジャしているのが、適切な構造だとしても、そこに母を持ちこむだけの隙間ができたような気がする。
精神分析は、簡単に他者と触れ合うことができる。
なぜならば契約のもと、被分析主体が、分析者のもとに現れるからだ。
しかし、日常では簡単ではない。
それは待ち望まれているとしても、保証は何もないからだ。
そしてそこに情動を見出すべきなのかどうか。