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モスラとゴジラの差異 [メモ]


 メモ。モスラ対ゴジラについて。

 この意味において、去勢=真実は細片化の反対物、その解毒剤でさえある。そこで自らの位置に欠けるものは自らの位置をもつ――固定し、中心的な、一切の代償を免れる位置を。何ものかがその位置に欠けている、しかし欠如は決してそこに欠けることはない。ファロスは、去勢のおかげで、われわれが先に語った超越的トポロジーの中ではつねにその位置にとどまる。ファロスはそこで分割不可能で、したがって破壊不能だ。それの代理をする(その場を占める)手紙と同様に。そしてだからこそ、分割不可能性としての手紙の物質性という損得のからんだ、けっして証明されない前提は、この限定された経済=家政、この固有なものの循環に不可欠だ。

 ところで、私の関心を引く差異というのは、お好きな意味に解していただいて構わないのだが、欠如は散種の中にその位置をもたない、ということだ。

(配達人P55-56)





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主体の位置 [メモ]


 メモ。

 主体がシニフィアンの主人でなければその作者でもないのは、意味がそうしたものでないのと同様だ。支配し、発送ないし方向づけ、場、意味=方向、起源を与えるのは主体ではない。シニフィアンの主体があるなら、それはシニフィアンの法則の臣下にされているからだ。主体の位置はシニフィアンを参照することによって、その字面(レトル)のトポロジーによって、その諸移動の規則によって割り振られている。

(配達人P29)




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