精神分析空間
精神分析空間は、感性的ではなく叡知的でもない。
それらの混合ですらない。
ただひたすら、「何か」を共同作業の末に産み出そうとしている。
それを後から(仕方なく)知として記述する。
そういう意味では「精神分析=ソクラテス」か。
散種の神器 [メモ]
メモ。
簡潔に言えばこうです。散種は、父親に帰属しないことを表すのです。その発生においても、その去勢においても、帰属しないのです。この命題の輪郭を点検しようと試みてください。そうすればその途上で、歩みつつ、あなたは多義性と散種のあいだの限界を見出すでしょうし(標記 マルク)、そして見失うでしょう(余白 マルジュ)。
書くこと――散種――とは、去勢を(それのシステム全体とともに、そしてさっきあなたが指摘されたあの奇妙な算術に即して)考慮に入れることではないでしょうか--去勢の、シニフィエもしくは超越論的シニフィアンといった様相を呈するその位置を、再び戯れのなかにおきながら(なぜなら、超越論的シニフィアンといったものも存在しうるからです。たとえばある第一次的シニフィエの相関者としてのファルス、去勢と母親の欲望)。去勢の、シニフィエもしくは超越論的シニフィアンといった様相を呈するその位置は、あらゆるテクスト性の究極的な依拠点で、中心的な真理ないし最終審級の真理で、これは当のテクストがそこで発せられるところの生み出す(散種する)空虚の、意味論的に充実した置換不可能な定義です。散種は終わりのない置換を肯定するのです(私は、産出するとか、構成する、とは言いません)。散種はくだんの戯れを停止させもしないし、監視もしません(「去勢は――いつも変わらず戯れのなかにある」)。そこにはあらゆる危険がありますが、しかし否定性の形而上学的ないしロマン的なパトスはありません。散種とは、おのれを記号しないところの、シニフィエにもシニフィアンにも構成されるにまかせないところの、おのれを現前させもしなければ再現前もさせもせず、おのれを示しもしなければ隠しもしないところの、去勢のそうした戯れ的角(かど アングル)として「ある」のです。したがって、その戯れ的角はそれ自身のなかに真理(合致あるいは除覆としての真理)をも、覆いをも、持ちません。これこそは、私がい面のグラフィックと呼んだもので、そのグラフィックはもはや覆い/非-覆いという対立では測られえないのです。
(ポジシオンP128-9)
超越論的シニフィエ その2 [メモ]
メモ。
事実、超越論的シニフィエなるものが主題になったのは、絶対的に純粋で、透明かつ一義的な地平においてだった。翻訳が可能な限りにおいて、というより翻訳が可能だと思われている限りにおいて、翻訳はシニフィエとシニフィアンとの区別を実際に行っている。けれども、この区別が決して純粋なものでないとすれば、翻訳もやはり純粋ではなく、したがって翻訳という概念は、変形という概念へと置き換えられなければなるまい。すなわち、ある言語の他の言語による、またあるテクストの他のテクストによる規則だった変形という概念だ。ある言語から他の言語へ移すに際して、あるいはただ一つの同じ言語の内部においても、シニフィアンという道具--すなわち「運搬具=乗り物」--によって冒されず無傷のままでいるような、そういう純粋なシニフィエが、なんらかの仕方で「運搬」されるということは、決してないだろうし、これまでも決してなかった。
(ポジシオンP32)
超越論的シニフィエ その1 [メモ]
メモ。
というのも、「超越論的シニフィエ」なるものは、それ自体においてはその本質上いかなるシニフィアンへも差し向けず、当の記号連鎖を超過しており、もはやそれ自体、ある契機においてシニフィアンとして機能しないだろうから。ところが逆に、そのような超越論的シニフィエの可能性を問題視し、すべてのシニフィエはまたシニフィアンの態勢にもあることを認めるならば、その瞬間から直ちに、シニフィエとシニフィアンの区別は--つまり記号は--その根底において問題をはらんだものになる。
(ポジシオンP31)
デ・ヨングはバルサに必要か [サッカー]
フレンキー・デ・ヨングは自分が「やらなきゃ」と思っている真面目な人間で、一生懸命やるし技術もあるんだが、「バルサの哲学」を骨の髄まで理解しているわけではなく、「アヤックスの戦術」を応用してバルサに適応している。
なのでじつは少しズレているんだが、アヤックスとバルサの類似性ゆえに何とかやれている、というのが実情だ。
4231はアヤックス時代に経験したやり方なので、今季はさらに適応度が上がっているんだが、だからといって「バルサの哲学」をマスターせずにバルサの中心人物になるのはクラブとして問題がある、というか、バルサはそういうクラブだ。
クーマンが長期政権となる可能性は小さいとみるべきで(つまり4231が長続きするとは限らない)、ピャニッチやアレニャー、プッチの出番をもっと増やして、デ・ヨングにベンチから勉強させてもいいのではないか、という気がする。
メッシはバルサに必要か [サッカー]
トップにいるはずのメッシの居場所がどんどん下がってきて、今は433の右インテリオール辺りが馴染みやすい場所になっている。
言うならば「偽インテリオール」だ。
クラシコではピボーテの位置まで降りることもあった。
確かにアルバやコウチーニョやファティへの決定的なスルーパスを、ピボーテの前あたりから出す技術と判断には驚かされる。
しかし、メッシがそこにいると、グリーズマンはもっと右に寄るか、トップに入らなければならないが、グリーズマンも同じ場所を取りたがる。
その二人のポジションに応じて、自分の位置を調整しているのがブスケツだったりする。
ウルトラスーパーだったメッシが、ただのスーパーになっていたとしても、やはり別格の働きをしているわけで、チームがメッシ依存心理から少しずつ自主性を取り戻しつつあるとすれば、全体のバランスはよくなるはずだ。
青春の手紙 [メモ]
メモ。
おそらく、手紙の場と意味は諸主体が自由にできるものではないだろう。おそらく、それらの主体はシニフィアンの運動に従属させられているだろう。しかしラカンが手紙は固有=本来の場を持たないというとき、以降はこう理解しなければなるまい――書簡の中に書かれたことの汲みつくし得る内容としての意味は持たない、と。なぜならシニフィアン=手紙は、われわれが相手取っている精神分析的=超越的なトポロジーと意味論の中では、シニフィアンの循環全体の、また論理全体の条件、起源、宛先をなすところの固有の意味および場を持つのだから。
まず固有の場。手紙は発送と宛先との場を持つ。それは一つの主体ではなく一つの穴、そこから出発して主体が構成される欠如だ。この穴の輪郭は決定可能で、それは迂回の行程全体を磁気誘導しているが、この行程は穴から穴へね穴から行程自身へ導く、したがって一つの円環的な形をもつ。これはまさしく穴へ向けての迂回の回帰を組織する秩序正しい循環だ。真正の契約を完遂する再固有化と再適合化。行程が固有かつ循環的なこと、それはラカンが文字通りに(a' la lettre)言っていることだ。
「このようにしてわれわれはわれわれの迂回が正しかったこと、われわれをその迂回に引きずり込むまさに当のものによって確信を得ることになる――というのもわれわれが相手しているものはまさしく、迂回させられた手紙、その行程が引き延ばされた手紙、あるいは郵便用語を持ち出すなら、受取人不明の手紙だから。
こうしていまや、第一ページから言われているように、単純かつ突飛に手紙の特異性はその最も単純な表現に還元されているわけだが、この手紙こそ、表題が指示しているように、この短編の真の主体だ――それが一箇の迂回を蒙る以上、つまり手紙はそれ固有の行程を持っているということだ。この特徴において手紙のシニフィアンとしての効力が確認される。というのもわれわれが理解できるようになったところでは、シニフィアンが維持されるのは、電光ニュースか、人間-のように-考える-機械(コンピューター)の回転式記憶装置の移動にも比べられるような移動においてのみで、このことはシニフィアンの原理として循環的なシニフィアンの働きゆえだが、この原理はシニフィアンがその位置を離れることを、但しそこに循環的に回帰するのも覚悟の上で離れることを要求する」
(配達人P49-50)
第7節クラシコ [サッカー]
第7節はカンプノウでのクラシコ。
バルサは4231というより442のような布陣で、敵の最終ラインまでプレッシングするのでもなく、ラインを上げるわけでもなく、パスがつながるわけでもなく、ポゼッションが高いわけでもなく・・・という、策のないクーマンの悪いところばかりが目立ってしまった。
一方のレアルマドリは今季一番のモチベーションをもってカンプノウに乗り込んできたことは一目瞭然で、ラモスのリーダーシップが際立ち、もともと個人技で何とかするチームなので、選手のやる気さえあれば本来の強さを見せる、というところが如実に表れ、つまりジダンにも戦術的な策があるわけではなく、あるのは気持ちのコントロールだけだろう。
バルサの救いは右サイドのデストがヴィニシウスをほぼ完封できたこと、ファティの勢いはまだまだ続きそうなこと、くらいか。
バルサという難しいチームで、しかもチームの雰囲気がいいわけがないという状況で、若い選手が多く阿吽のコンビネーションが完成していないチームが、モチベーションの高いレアルマドリに勝つのはなかなか難しい。
試合開始時、グリーズマンを外してペドリというのは明らかに守備重視メッセージで、まずは固く行きたかったクーマンなんだろうが、それでは強いチームには勝てないことが証明されてしまった。
ただそれでも希望はあるし、監督に策がない割にはいろいろ試しているのは好感が持てる。
パスワークの質をもう一段上げないと「本来のバルサ」とは言い難いので、クーマン体制の理想のイメージ(敢えてここでは触れるまい)に近づけるべく、練習内容の工夫やスタメン選択をしていくしかないだろう。
モスラとゴジラの差異 [メモ]
メモ。モスラ対ゴジラについて。
この意味において、去勢=真実は細片化の反対物、その解毒剤でさえある。そこで自らの位置に欠けるものは自らの位置をもつ――固定し、中心的な、一切の代償を免れる位置を。何ものかがその位置に欠けている、しかし欠如は決してそこに欠けることはない。ファロスは、去勢のおかげで、われわれが先に語った超越的トポロジーの中ではつねにその位置にとどまる。ファロスはそこで分割不可能で、したがって破壊不能だ。それの代理をする(その場を占める)手紙と同様に。そしてだからこそ、分割不可能性としての手紙の物質性という損得のからんだ、けっして証明されない前提は、この限定された経済=家政、この固有なものの循環に不可欠だ。
ところで、私の関心を引く差異というのは、お好きな意味に解していただいて構わないのだが、欠如は散種の中にその位置をもたない、ということだ。
(配達人P55-56)
主体の位置 [メモ]
メモ。
主体がシニフィアンの主人でなければその作者でもないのは、意味がそうしたものでないのと同様だ。支配し、発送ないし方向づけ、場、意味=方向、起源を与えるのは主体ではない。シニフィアンの主体があるなら、それはシニフィアンの法則の臣下にされているからだ。主体の位置はシニフィアンを参照することによって、その字面(レトル)のトポロジーによって、その諸移動の規則によって割り振られている。
(配達人P29)
ナイーブ
哲学者が政治に向かうときは、オレの知る限り、実にナイーブなケースが多い。
それだったら発言したり、書いたりしなければよいのに、と思うほどだ。
政治的なことを匂わせて書く哲学者の中で、デリダはうまい書き方をする方だと思う(ジジェクは大きな目的の一つが政治なので評価外)。
カント
メンドクサイが、カントに倣って考えてみよう。
オレたちは感性によって外部に触れ、悟性によって自らの魂の内部へと到達する。
それを抽象的に思考して捉えなおすのが理性の役割だ。
理性が捉えているものは、たくさんのモノが抜け落ちている。
だからそれらをどのように拾っていくか。
精神分析のようにシニフィアンの欠如のシニフィアンとして拾うのか、脱構築のように差延の効果として拾うのか。
あるいはまた、何もせずにただ把握する前の状態を再現し、ジッと観察するだけなのか。
知的に理解する
例えばラカンを知的に理解しようとすれば、必ず抜け落ちるものがある。
というか、抜け落ちるモノの方が多い。
ラカンのみならず、これは一般的に言えることだ。
知的に理解した(つもりになった)後での、実践、現実への対応、政治との向き合い方を考えるときは、その抜け落ちたものを如何にして拾うか、という作業が必要になる。
政治的知
政治は難しい。
なぜなら、政治的な知は、政治的な行動と一貫しているように振舞うからだ。
知は、反省的に行動へと反映されなければならない。
なぜならば独断的な知に依拠すれば、独断的に行動するしか術がないからだ。
言うまでもないが、平和とは、独断的知や独断的行動を避けることだ。
そして、精神分析や脱構築は、知と行動が断裂していることを示している。
それは、欠点かもしれないが、しかし、オレたちの有効な基準だと思う。
図式とゾンビ
ラカンがマテームやトポロジーやボロメオの輪で遊んでいるときに、たぶん彼は、そこに父の名が失われていることを経験し、そしてその恥ずべき代替を見出したはずだ。
つーか、そうでなくても構わないが、そう考えた方が現代ラカン派にとって都合がいい。
鉄の秩序は排除型の秩序で、オレたちが理想だと思っている包摂型の秩序とは程遠い。
だからこそ、それは普通精神病と直結していくんだが、そうは言っても、「で、それが何か?」という話だ。
排除された父の名の現実界での回帰・・・などというものが、オレたちを支配しているとすれば、それは既にシフトチェンジした思考形態で、その過去の一部もしくはすべてはゴミ箱へと捨てなければならない。
そういう文脈において、ラカンは死んだ、と言うべきなのか否か。
ミレールたちはいまだ参照点として70年代へと遡っているが、死んでいるにもかかわらず「アンデッド」という無限判断の存在として認識しているようなものだ。
つまり、ゾンビとともに、ゾンビとして現代ラカン派は蠢いている。
弔意の表し方
有名人が亡くなったとき、別の有名人が弔意をすぐにあらわさないと、非難されるという話がある。
人の死の受け止め方は人によってさまざまだし、それを自分の中に受け入れる時間もさまざまだし、亡くなった人との距離によっても相当違うし、そもそも弔意の表し方だって必ず外に出さなければならないわけではない。
原則的に弔意は遺族に向けて示すべきものなので、遺族との関係が薄い場合は表に出さずともマナー違反にはならないだろう。
という当たり前のことを当たり前だと思わないのは、要するに想像力というか、相手を慮る力が不足している。
そんな力の不足している人間が偉そうなことを語るわけがないので、わざと「インターネット空間がすべて」というような明らかに誤ったことを前提として、オモシロオカシク雑談しているのだと判断し、オレは無視している。
誤り
正しさや誤りなど、オレにとってはほとんど役に立たなくなってしまったが、それでも他人が書いたものの誤りによって、学ぶことは多い。
誤ってくれたことに感謝しよう。
つまり、正しいことが書かれている書物ばかり読んでいると、人は〇〇になるということだ。
なので、オレも間違ったことをたくさん書き散らすことにしよう。
政治的正しさ
少し前に流行った政治的正しさ(PC)の問題点は、エレーヌ・ブルースの論文を読めば理解できる。
しかし、ほんとうの問題は、知以外の部分、つまり無知の部分、存在の部分、享楽の部分にある。
それを感覚的に自らのものとするためには、地域としての新宿を研究するとよいだろう。
政治的な観点
そこに政治的な観点はない。
希望をもつべきだが、適切な政治など存在しない。
また、権力と反権力はまったく同値だ。
さらに言うと、反権力は権力以上に暴力的に機能する。
ということにさえ気づいていれば、ジジェクのように地面を這いずり回ることは大切なことだと思う。
第6節ヘタフェ戦 続き [サッカー]
バルサは全体的に代表ウイークの疲れが残っているようで、デ・ヨングがいなかったらボールを運べず、プレスの餌食なって、もっと点差がついていたと思う、だんだん替えの利かない選手になってきた(相手が疲れてきたこともあり、後半35分にブライトバイテと交代)。
たぶんブスケツは、デ・ヨングのポジションのケアと、メッシの降りてくる場所のケアの両方できるという理由で、クーマンはブスケツを外せない、それでいいのかという問いに対しては、メッシがいる以上仕方ないという回答しかないだろう。
前節のセビージャ戦と今節の試合を観ると直近の課題は決定力、という能のない結論になるが、逆に言うと決定力だけなら、メッシやグリーズマンが徐々に上げてくるだろうからそれほど心配していない。
もう一つの課題は右サイドでの展開が少ないことだが、グリーズマンやメッシが点を取れば自ずと解決するので、これもまた気にしなくてもよい。
クーマンは戦略家ではないので、策はない(スロイデルにはあるので今は問題ない)が、若手を我慢して使うのには好感が持てる、トリンコンなんかどう見ても試合で効いていないが、彼のこの経験が後で役立つはずだ。
つーか、短時間としても、リキ・プッチまで使ったのは驚いた。
ペドリとデストはもっと試合で観てみたいと思わせる素材だ。
2年後にはバルサはメッシ抜きでも期待できる強いチームになっているはずだが、それまでクーマンがもつのかどうか、それが問題だ、ゴタゴタ(例えばメッシ残留問題)が残っているうちに経験の少ないチャピに代えるのは失敗しそう。
第6節ヘタフェ戦 [サッカー]
結果は 1-0 でバルサの負け。
芝の状態とか審判の裁き方とかについては敢えて触れない。
例によってヘタフェは体力勝負のライン上げハイプレスで、こんなのサッカーではないという意見があるようだが、現代的戦術とも言える。
あのラインの上げ方はリスクたっぷりで、実にオモシロい、数年前のただの荒いサッカーとは違う戦術的な意志を感じている。
最終ラインにボールがあるときに、ドブレピボーテのところからしっかりマークすれば、ビルドアップが遅れる、うまくいけばボールが取れる。
良い作戦だが、これを90分続けるのは大変に決まっている、しかしヘタフェはそれをやろうとしている、結果として選手同士当たる機会が多いので荒れた試合になりやすい。
このハイプレスをどうやって剥がすのか、これは世界のサッカー監督の誰もが課題としているんだが、バルサの場合はメッシのことを除けば「現代アヤックス方式」と呼ぶべき戦術になっている。
名指すこと、名指されること
ここしばらく名指すこと、名指されることに関する本(の群れ)を読んでいる。
それはつまり名指さないこと、名指されないことに関する考察だ。
それは例えばロルが名指すことに関与していると言ってよいが、クリプキのそれとはやや異なっているだろう。
たぶん究極的にいえば、名指されないことは、固有性、個別性、唯一性、特異性とは無縁の世界だ。
そこに普遍性を見出そうというのは、はたして有効だろうか。
普遍性の次元が違う・・・ということくらいは理解できるが・・・。
参照点
ラカンを参照点としたくても、もはや材料とするネタがない。
とすれば、小文字の父の名として、ミレールを参照点とすればいいのか、というと、それもまた、違う何かだ。
小さい父の名がウジャウジャしているのが、適切な構造だとしても、そこに母を持ちこむだけの隙間ができたような気がする。
精神分析は、簡単に他者と触れ合うことができる。
なぜならば契約のもと、被分析主体が、分析者のもとに現れるからだ。
しかし、日常では簡単ではない。
それは待ち望まれているとしても、保証は何もないからだ。
そしてそこに情動を見出すべきなのかどうか。
父なき時代のカント
オレたちは父なき時代におけるカントを見出す。
そして、路頭に迷う。
形而上学を思考的実態ではなく、むしろ視霊者の夢として捉える。
戦術としてのプレッシング [サッカー]
今のバルサのプレッシングは、誰かが行ったら交互に詰めていく感じで、少しずつ囲いに行くイメージ。
なので、さほど細かな戦術的ではなく、ダラダラっとやっている。
メッシがそれをやり始めると、突然スイッチが入ったように厳しくなる、というのは、攻撃でも同じで、このことからもチーム全体に対するメッシの影響力は大きい。
カントとか
そう考えていくとヘーゲル以前・・・といっても、カントとプラトンくらいだが・・・にまで遡って参照点を見出していくべきか。
小文字の母
現代的な小文字の父の名の陰に隠れて、決して見えない小文字の母を想定してみよう。
小文字の母の役割は、現象≒シニフィアンを産み落として、静かにしていることだ。