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青春の手紙 [メモ]


 メモ。

 おそらく、手紙の場と意味は諸主体が自由にできるものではないだろう。おそらく、それらの主体はシニフィアンの運動に従属させられているだろう。しかしラカンが手紙は固有=本来の場を持たないというとき、以降はこう理解しなければなるまい――書簡の中に書かれたことの汲みつくし得る内容としての意味は持たない、と。なぜならシニフィアン=手紙は、われわれが相手取っている精神分析的=超越的なトポロジーと意味論の中では、シニフィアンの循環全体の、また論理全体の条件、起源、宛先をなすところの固有の意味および場を持つのだから。

 まず固有の場。手紙は発送と宛先との場を持つ。それは一つの主体ではなく一つの穴、そこから出発して主体が構成される欠如だ。この穴の輪郭は決定可能で、それは迂回の行程全体を磁気誘導しているが、この行程は穴から穴へね穴から行程自身へ導く、したがって一つの円環的な形をもつ。これはまさしく穴へ向けての迂回の回帰を組織する秩序正しい循環だ。真正の契約を完遂する再固有化と再適合化。行程が固有かつ循環的なこと、それはラカンが文字通りに(a' la lettre)言っていることだ。

「このようにしてわれわれはわれわれの迂回が正しかったこと、われわれをその迂回に引きずり込むまさに当のものによって確信を得ることになる――というのもわれわれが相手しているものはまさしく、迂回させられた手紙、その行程が引き延ばされた手紙、あるいは郵便用語を持ち出すなら、受取人不明の手紙だから。

 こうしていまや、第一ページから言われているように、単純かつ突飛に手紙の特異性はその最も単純な表現に還元されているわけだが、この手紙こそ、表題が指示しているように、この短編の真の主体だ――それが一箇の迂回を蒙る以上、つまり手紙はそれ固有の行程を持っているということだ。この特徴において手紙のシニフィアンとしての効力が確認される。というのもわれわれが理解できるようになったところでは、シニフィアンが維持されるのは、電光ニュースか、人間-のように-考える-機械(コンピューター)の回転式記憶装置の移動にも比べられるような移動においてのみで、このことはシニフィアンの原理として循環的なシニフィアンの働きゆえだが、この原理はシニフィアンがその位置を離れることを、但しそこに循環的に回帰するのも覚悟の上で離れることを要求する」

(配達人P49-50)





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第7節クラシコ [サッカー]


 第7節はカンプノウでのクラシコ。

 バルサは4231というより442のような布陣で、敵の最終ラインまでプレッシングするのでもなく、ラインを上げるわけでもなく、パスがつながるわけでもなく、ポゼッションが高いわけでもなく・・・という、策のないクーマンの悪いところばかりが目立ってしまった。

 一方のレアルマドリは今季一番のモチベーションをもってカンプノウに乗り込んできたことは一目瞭然で、ラモスのリーダーシップが際立ち、もともと個人技で何とかするチームなので、選手のやる気さえあれば本来の強さを見せる、というところが如実に表れ、つまりジダンにも戦術的な策があるわけではなく、あるのは気持ちのコントロールだけだろう。

 バルサの救いは右サイドのデストがヴィニシウスをほぼ完封できたこと、ファティの勢いはまだまだ続きそうなこと、くらいか。

 バルサという難しいチームで、しかもチームの雰囲気がいいわけがないという状況で、若い選手が多く阿吽のコンビネーションが完成していないチームが、モチベーションの高いレアルマドリに勝つのはなかなか難しい。

 試合開始時、グリーズマンを外してペドリというのは明らかに守備重視メッセージで、まずは固く行きたかったクーマンなんだろうが、それでは強いチームには勝てないことが証明されてしまった。

 ただそれでも希望はあるし、監督に策がない割にはいろいろ試しているのは好感が持てる。

 パスワークの質をもう一段上げないと「本来のバルサ」とは言い難いので、クーマン体制の理想のイメージ(敢えてここでは触れるまい)に近づけるべく、練習内容の工夫やスタメン選択をしていくしかないだろう。






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