一者的な享楽 [メモ]
メモ。
ラカン自身がこのような一者的な享楽について論じるようになったのは、おそらくは1969-70セミネール『精神分析の裏面』においてだ。彼はこのセミネールのなかで、フロイトの「唯一特徴」という概念を参照しながら、「享楽の侵入の記憶を留めるものとしての特徴」という表現を用いている。近年のミレールの読解に従えば。ここで言われている「享楽の侵入」とは、子供がはじめて言語と出会ったときに生じた衝撃としての「身体の出来事」のことだ。この享楽の侵入以降、人はその享楽を忘れることができず、たえずそれを反復するようになる。その意味において、反復は享楽の回帰によって基礎づけられている。そして、この反復的な享楽こそが、症状の根にある享楽だ。だとすれば、フロイトやラカンが取り扱ってきた症状、すなわちメタファーとしての症状は、その「享楽の侵入」の反復の結果として生まれた二次的な派生物ということになる。
(享楽 P56)
ラカン的思考を維持するために必要なこと
なぜオレたちはジジェクを支持するのか。
なぜオレは明晰にラカンを語ることを疑問視するのか。
それは、ラカン的思考を維持するためだ。
ラカンは、知の側にいない。
だから、ラカンに対する明晰な言明は、それを語る真摯な姿勢と卓越した優秀な分析能力にも関わらず、それだからこそ、知の側に居続けることで、ラカンとは離れる。
明晰な頭脳は、白痴の頭脳とは別のものだ。
ジジェクはつねに不足している。
言葉は過剰だが、つねに意味が不足(不作)している。
ただそれだけの意味で、ジジェクの存在意義がある。
というか、このような無意味な思考パターンを理解するのは難しい。