称賛の省略
ソクラテスによるアガトンへの称賛が省略されたのは、そのタイミングで止めた方が効果的だからだ。
この考え方は、短時間セッションの発想と同じだ。
プラトン、恐るべし。
策士
セミネールの語り手は、プラトン以上の策士であり、ストレートに本音を語っていないことに注意しよう。
本音はややズラした形で表現されている。
セミネールは広い層に向けたメッセージだと言われているが、必ずしもそうではない。
その理由は一筋縄ではいかない人物によって語られているからだ。
アガルマ
アガルマというのは重要な用語だけど、実践的にはクソの役にも立たない。
ということがわかっていないと、それが語られていることの、本当の重要さを理解できない。
本当に重要なのは、アガルマの条件となっているものだ。
あるいはアガルマをめぐって、どのように人は場所を移動しているか、ということだ。
そう考えると、プラトンの『饗宴』は、途中何人か飛ばされたりエンディングのゴタゴタがあったとはいえ、それらを含めて長い時間をかけて綿密に計画され、完成した書物ということになる。
アルキビアデス
とにかく、アルキビアデスをしっかりと吟味することが大事だ。
ソクラテスはある意味、欲望としての道をはずれているわけで(倫理には適合している)、我われの欲望の実践において頼りになるのはアルキビアデスとアガトンだけだ。
私的な重要度で言うと、「アルキビアデス>アガトン>ソクラテス」となる。
アガトンとともに生きる、という意味もそこにある。
念のため、一応書いておくと、セミネールの主張はソクラテスが、ある場所から別の場所へと移動するということの重要性にあり、だからこそ、ソクラテスが中心に置かれている。
しかしながら、ソクラテスの動きは、理論の理解のために重要なだけで、実践ではあまり必要がないし、それを主張するには、その場所の構造を分離して解析するという、事前準備が必要となるし、それに加えて、アルキビアデスもアガトンも、実は同じような移動をしていた(あるいは、しようとていた)・・・・。
ナルシシズム 続き
コプチェクがそう考えたことよりも、ほかの人がそれを考えなかったことの方がオモシロい。
というわけで、エローメノスをどう捉えるのか、自らがそれを引き受けるとは何を意味するのか、そもそもそれはシニフィアンの範疇で思考可能なのか、など、いろいろ考えることが多い。
ナルシシズム
ナルシシズムを経由すればエローメノスを主体的に引き受ける可能性があると論じたのは、コプチェクなんだが、それを指摘した人は、ほぼいない。
なぜだろう。
エローメノス
エローメノスを表現するのは難しい。
対象を主体として引き受けることについて、主体としての一貫性への不安があるからだ。
岩波文庫 その3
翻訳が読みにくいとしても、そこに文句を言うのは違うと思っている。
だったら原書を読む努力をすればいい。
原書を読むだけの知性、および継続的な知の努力がないのは、人生の落伍者のようなものだと感じている。
知性がないのは、オレの運命だから仕方がない、とあきらめている。
岩波文庫 その2
翻訳があるだけありがたいと思え、と大学の先輩によく言われた。
オレは、某先生に「大学の最初の二年間で岩波文庫を100冊読め」と言われた。
それは達成しなかったと思うが、いまだに「ありがたいと思え」の精神で、岩波文庫を読むことが多いような気がする。
ヘカベ
ギリシア悲劇はいろいろ読まないといけないが、そのひとつがエウリピデスの『ヘカベ』だ。
あと『メディア』も重要だ。
とはいえ、ただ読むだけでは無駄だが。
ナルシシズム
コプチェクのナルシシズム論は、少し方向性が違うような気がするが、これはひとつの解釈として有効だろう。
それがどうやって紡ぎ出されたかという過程が重要だから。
敢えて理論的なことを言うならば、基本的な構造さえ把握しておけばいい。
カント対カント
カントの実践理性は、構造としては正しいが、展開としては間違っているというか、少々言葉足らずのところがある。
とはいえ、真や善、美について、いずれも幻影だと言い切るようなロジックでなければ、なかなかそこまで到達できない。
しかも、同時に言語の働きと主体の関係の複雑性を理解していないといけない。
だからオレは、カントに同情している。
精神分析の弁証法
精神分析の弁証法にはいくつかのパターンがある。
まずは在と不在の弁証法で、これはフリュストラシオン、Versagungと深い関係がある。
次に、善[=財]や美に関する弁証法で、善や美は、所有しようとしても(本質的に)所有できないものだ、ということを含意する。
汝何を欲するか、という質問に対しても、在と不在の弁証法で学んだことにより、主体は、あまりストレートに答えることができない。
さらには、これはより大胆に言えば、という留保付きだが、エロスとタナトスを弁証法的に表現すると享楽となる、・・・このような概念把握へと至る。
いずれにせよ、たとえば「知っていると想定された主体」(あるいは、ソクラテスの「無知の知」)のように端的に表現されてしまうと、なかなか理解しにくいのがミソだ。
その理解しにくい理由は、そこに主体のやむにやまれぬ欲望が強く浮き出て、それを取り巻くあらゆる関係者(まさにこれを読んでいる[=書いている]オレたちを含む)に対して、その欲望の影響が及んでしまうような現象は、何ごとも客観的に理解しようとする科学的思考では、なかなか把握が難しいだろう、という事情による。
ワンダー・ワールド
スティービー・ワンダーの曲を聴きながら散歩をしていると、音楽の勉強になる。
彼が評価されるのはコードとかメロディーなんだろうが、リズムの作り方が素晴らしいことに気づく。
とくに70年代の作品は孤高と言ってもいいほどのクォリティだ。
ポジシオン
先回書いたことに少し関連するが、なんと、デリダ『ポジシオン』の新・新装版が出ている。
本屋で発見してビックリ、つい買いそうになってしまった。
今持っているのは「増補新版」(1992)で、今度買うと3回目になってしまうので、やめた。
何度か書いた気がするが、この本で一番面白いのは原注(33)だ。
この原注を読んでから「フロイトとエクリチュールの舞台」を経て、『絵葉書』の「真理の配達人」(以前は「真実の配達人」として訳されていた)へと至るのが、一番効率的な「デリダ的精神分析」の理解となるはずなんだが、それはオレ個人の意見にすぎないし、そもそも「デリダ的精神分析」の需要がどれくらいあるのか、皆目見当がつかない。
ダラダラ無神論
精神分析関係の書をダラダラと読んでいると、突然、ラディカル無神論の主張が眼前に現れ、ビックリした。
デリダによる精神分析理論の深さ、強さ、オモシロさを示しているのかもしれない。
性関係はないの端緒
「性関係はない」の出発点の候補はいろいろあるが、少なくともプラトン『饗宴』の中にも、あることは間違いない。
それはエロースが誕生した由来を示した神話だ。
S8の前半で書かれているのは、誰が見てもかなり強引で、ジジェク以上に我田引水、牽強付会だと思うが、「無意識」という未知の(非知の)構造を利用したその剛腕こそが、精神分析の持ち味で、抜群にオモシロいし、だからこそ今でも「剛腕の二人のテキスト」が読まれ続けるのは仕方がない。
当然それは精神分析の長所であり、かつ短所だ。
饗宴 [メモ]
メモ。
プラトン『饗宴』の、どれを読めばいいのか。
というわけで以下に邦訳を挙げておこう。
・岩波文庫、久保勉訳。
・光文社古典新訳文庫、中澤勉訳。
・角川ソフィア文庫、山本光雄訳。
・新潮文庫、森進一訳。
・東京大学出版会、山本巍訳。
・『饗宴・パイドロス』岩波書店、鈴木輝雄訳(饗宴)。
・『饗宴/パイドン』京都大学学術出版会、朴一功訳。
・『哲学の饗宴』NHK出版、荻野弘之著。
・『プラトン哲学への旅』NHK出版、納富信留著。
他いろいろ。
科学の罠
科学の罠に気をつけよう。
一般的に「科学は万能だ」と言ってもよいと思うが、科学には妙な癖がある。
それに気がつけば問題ないレベルの話だが。
それは科学の歴史を見ていれば分かる。
例えば、ガリレオがなぜケプラーを認めなかったのかを注意深く考えてみることが大切だろう。
神々の世界
神々は、リアルだ。
とここで書いても理解されないだろうな、と思う。
妄想の無い世界では、無用の産物か。
ギュンドアン続き [サッカー]
サッカーの攻撃練習では、よく三角形を作れというが、実際はそれほど簡単ではない。
相手ゴールと味方の最終ライン、相手中盤の枚数と位置を確かめながらボールをコントロールしていくのは普段から意識してボールを回していく必要がある。
ギュンドアンが来ると、練習時からバルサの展開力が上がっていくはずだ。
あと、彼の加入で、もしかすると専門のピポーテは要らなくなるかもしれない。
フレンキーをセントラルにいれ、ギュンドアンをピボーテにしておけば、ボールは容易に前へ進むと思う。
その欠点は、もちろん守備力の低下だが、バルサなので守備の細かいところは気にしない・・・それがバルサの哲学だ・・・って違うか。