崇高 [メモ]
メモ。
つまり崇高とはまさに苦痛の経験からくる快楽のことで、それは想像力が痛ましいほどに機能しないという経験だったり、理解力と包括力の間に痛々しい裂け目が生ずるという経験だったりする。すると、われわれはまたもや、苦痛の中の快楽として、「快感原則を超える」フロイト的/ラカン的な享楽のパラドクスに出くわしてしまうのではないだろうか――否定的な方法によってのみ、経験されうる「もの」das Ding のパラドクス――その外形は目に見えない無のかたちとして否定的にしかとらえられない。また同様に、「法」(道徳律)が屈辱や自己卑下といった痛々しい感情を、主体が自分の義務を果たしたという深い満足感と混濁して引き起こしてしまうならば、「法」そのものが崇高な「もの」ではないだろうか。
(厄介 上 訳P70)
自由 その3
唯狂論的な側面を敢えて強調するならば、カントの三批判書は、まさに唯狂論の聖典となっている。
つまり、純粋理性は、超越論的構想力の挫折として。
実践理性は、人間として成立した、暴力の片方としての「過度な法」(自由奔放な法、とも言える)の残余として。
判断力=芸術は、もう片方(「原主体」あるいは「悟性」)の「自由」の暴力の発露として。
そう考えると、カントは奥深い。