二種類の理性のアンチノミー 続き
前回の引用文について。
なんだか女性性だけに怪物性が強調されているような表現だが、それ以前の文脈を見ればまったくそうではなく、男性も女性も、あるいは力学的崇高も数学的崇高も、あるいは過度な法も過度な快楽も、どちらも暴力的で怪物的で、同時に「無」、「欠如」や「否定性」に依存していることを示している。
で、その「両性とも怪物的だ」という原因は「構想力=想像力」の弁証法の挫折(ジジェクの表現)にある。
挫折というより、構想力=想像力自体が持っている(一義的実在に対する)破壊性と(象徴的なモノの)構築性は、(所与の段階ですでに)バランスが取れないと言った方が分かりやすいか。
当初の目論見では独立していたはずの「構想力=想像力」を、結局カントは悟性の役割としてしまった。
そう解釈してしまうと、のちのヘーゲル弁証法のダイナミズムのエネルギー源の、否定性=暴力性=怪物性を見失ってしまう。
おそらく、特定の思想を「否定神学」として否定しまうことのデメリットはここにあるのではないか。
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