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世界の闇夜 [メモ]


 メモ。

 ヘーゲル『イエナ実在哲学』(草稿)より。

人間とはこのような闇、存在しない空っぽなもので、その単純なつくりの中には、あらゆるものが含まれている--それは、数多くの表象やイメージで表される終わりのない富だったりするが、どれ一つとして人間には属さないもの--あるいは現前しないものだ。このような闇とは自然の内部のもので、魔術幻燈によって映し出された表象のようなものの中に--純粋な自己として--存在する。そして、その闇は自己をすっかり取り囲んでおり、そこから血まみれの頸が勢いよく飛び出す--すると、別の青白い亡霊のような幻影が突然その頸の前に現れ、やがて消えてしまう。こんな闇夜を垣間見るのは、瞳に映る人間を見つめ--しだいに恐ろしさをおびてくる闇となるときだ。

(厄介 上 訳P53)






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物自体と現象の分割 [メモ]


 メモ。

 このようなことから、一時的なものと永遠的なものという関係を根本からとらえて帰結してみると、一時的なものは永遠的なものの不完全な形ではない、ということになる。それどころか「永遠」なものこそが、主体の一時的な(自己)経験から生じるある特定の変異だと考えなくてはならない。これが意味するのは、両者を区別する本物の亀裂は、もはや現象の領域(一時的で認識可能な経験の領域)と、もの自体の世界を真っ二つに切り離す。そして、もの自体の「即自」が主体に現れる世界と、主体を媒介することなく、直接近づくことができるようなもの自体の「見果てぬ」「即自」の世界とを二分する。たとえば「神」は最高善という「理念」を肉体にあたえる「至上のもの」で、当然、もの自体の存在だ(われわれが一時的な経験によって認識するモノと同じような一貫性をもって、「神」を認識することはできない)。しかし「神」はもの自体の世界の存在だが、「対自」という状態の物自体だ--言い換えれば「神」とは理念をもち有限な存在(人間)が自らに対し、もの自体の世界にいる最高の存在を表象しなければならない、というあり方だ。現象学的にいえば「至上の存在」としての「神」は、経験によって一時的に認識できる対象という意味で、ひとつの現象だということは決してありえないのだが、もっと本質を突く意味においては、つまり、意識や自由を取り込む力をもった限りある存在に現れ出る存在としての意味では、「現象だ」と言える。おそらく、人の手の届かないような心的なものにあまりにも近づきすぎると、この至高の「善」にある崇高な性質が、耐え難い「怪物性」に豹変してしまうのかもしれない。

(厄介 上 訳P48)





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