否定神学の立ち位置
郵便的=交通的な思考と内在平面的な思考は、どちらも必然的な暴力や破壊から逃れるための究極の方法を模索している。
しかし否定神学は暴力や破壊のもとに留まり続ける。
そして、そこから何かが動いていくダイナミズムを観察し、変化を叙述するのが役割だということをジジェクは示しているのではないか。
郵便的、内在平面的・・・そして否定神学的
否定神学は、それほど神学ではない。
そして、否定神学は、郵便的=交通的ほど行動的ではない。
あるいは内在平面的ほど、内部に留まることの強調をすることはない。
否定神学は、常に外部を参照する。
これらの関係は、思うに思考の気分転換のようなものだ。
「否定神学的→郵便的→内在平面的」は単純に「外部→交通→内部」と表現してよいだろう。
その一連の流れから否定神学を排除してもよいのかもしれないが、そうすることのデメリットの方が大きいと感じるのはオレだけではあるまい。
へーゲルの「肯定的判断→否定的判断→無限判断」という流れを見るならば、ますますそう感じるのはオレだけではあるまい(おいおい、しつこいっての)。