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二種類の理性のアンチノミー 続き


 前回の引用文について。

 なんだか女性性だけに怪物性が強調されているような表現だが、それ以前の文脈を見ればまったくそうではなく、男性も女性も、あるいは力学的崇高も数学的崇高も、あるいは過度な法も過度な快楽も、どちらも暴力的で怪物的で、同時に「無」、「欠如」や「否定性」に依存していることを示している。

 で、その「両性とも怪物的だ」という原因は「構想力=想像力」の弁証法の挫折(ジジェクの表現)にある。

 挫折というより、構想力=想像力自体が持っている(一義的実在に対する)破壊性と(象徴的なモノの)構築性は、(所与の段階ですでに)バランスが取れないと言った方が分かりやすいか。

 当初の目論見では独立していたはずの「構想力=想像力」を、結局カントは悟性の役割としてしまった。

 そう解釈してしまうと、のちのヘーゲル弁証法のダイナミズムのエネルギー源の、否定性=暴力性=怪物性を見失ってしまう。

 おそらく、特定の思想を「否定神学」として否定しまうことのデメリットはここにあるのではないか。





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二種類の理性のアンチノミー [メモ]


 メモ。

1.カント自身、はっきりと表明はしていないが、次のような場合、すでに二つのアンチノミーに性の問題を含んでしまっている。それは、第一の(数学的)アンチノミーを生み出す現象全体のあり方が、怪物的な純然たる集合体の「女性的な」原理に結びつけられ、そして、第二の(力学的)アンチノミーが、道徳の「法」を受け持つ男性的な原理に結びつけられてしまう場合だ。

2.「崇高」を経験するさい、苦痛が快楽へと移行することも、やはり暗黙のうちに性の問題をもり込んでしまっている。この以降が起こるのは、無秩序の集合体としての現象は恐怖を生み、その恐怖のもとには道徳の「法」があるとわれわれが気づくようになるときだ--それは、女性的な怪物性から男性的な「法」へと「魔術的な」意向が起こることと関係がある。

(厄介 上 訳P71)





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