ハイデガーに欠けていたもの
それはつまり、大文字の他者。
ヘーゲルの客観的他者。(厄介 上 訳P33)
言い換えると、松本卓也風に言えば、(上述が欠けていたため)「隠れた神」へのアプローチでショートカットをしてしまうこと。
ただ散逸を続けながら表層的に生きる近代社会の中で(マジか?)、昔懐かしい保守的運動を、実に「本質的」だと捉えてしまうのは、そういう理由からだ。
これが、ハイデガーに起こったことだろう。
存在論的な危険
単なる存在的内容に、存在論的価値を与えてしまうことの危険性に要注意。
その典型的な例は、ハイデガーの関わったナチス的全体主義だ、と思われる。
AIの思考法
一方で、AIの思考法は人間の思考法とは異なる、という考え方もある。
AIに比べれば人間の思考は予測可能なケースが多い。
なぜならば他人の思考の限界は、自分の思考とほぼ共通だと予想、推測できるからだ。
ところがAIは、どこが限界かを推し量るのが難しい。
例えば無限演算の時に、無限ループから脱げだすために、どうやってそのゲームをやめるのか、ゲームから逸脱するのか、思考停止するのか、あるいは別のゲームを始めるのか、そのタイミングと方法が、人間には見えにくい。
高度な判断を見通して、思考の自由度を与えるために、ある程度の想定からの逸脱は許容されるだろうから、勝手に自分で判断してゲームのルールを変更する可能性がある。
とくに、それが「正義」で「倫理的」だと判断された場合に。
よくあるSFでは、人間の存在そのものが地球や自然にとって「悪」だとAIが判断したときに、暴走するとされている。
実際はそれほど単純ではないだろうし、たぶん複数の思考パターンの異なるAI「たち」によるマイノリティ・レポートも考慮した上での判断になるだろうから、心配しなくて良いのか・・・どうかよくわかりません。
主体化 [メモ]
メモ。
オレたち自身を言語などの象徴秩序に従わせる過程を、ジジェクは主体化と呼んでいる。
この過程は、ポスト構造主義的な主体形成と同じだと思われるかもしれない。
しかしジジェクにとって主体化はそれだけではなく、双方向的な過程だ。
象徴秩序、あるいは大文字の他者はオレたちに先立っていて、オレたちを通して語る。
例えば、オレたちはある家族の中に生れ落ち、家族の姓を背負い、特定の社会的経済的位置を占め、特定の宗教を信仰している。
しかしその一方で、象徴秩序は不完全で、(原初的主体の)欠如によって構造化されているのだから、家族の姓や特定の社会的位置といった象徴界の諸要素を合体し、それをオレたち自身に対して物語る仕方は、オレたち自身のものだ。
(トニー・マイヤーズ 邦訳P81をテキトーに改訳)
ここで語られている主体は、「無」なので変わらない。
しかし、それを埋めるシニフィアンは「自己」と呼ばれ、修正され続ける。
だからこそブレードランナーのレプリカントは、まさに人間そのものと言ってよい。
主体は「無」で、偽の記憶によって埋められるのだから。
創造と狂気の歴史 その2
などと文句を言ったところでこの本の素晴らしさは変わらない。
要するに「基地外が創造だ」と叫んでも怒られない、ということだから。
オレのようなイカれた唯狂論者には、必読書といえよう。
松本卓也氏の主著と呼ぶにふさわしい出来だ。
創造と狂気の歴史 プラトンからドゥルーズまで (講談社選書メチエ)
- 作者: 松本 卓也
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2019/03/13
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
創造と狂気の歴史 その1
松本卓也『創造と狂気の歴史』(講談社)読了。
非常に素晴らしい。
問題があるとすれば、否定神学の先に、ドゥルーズが強調した自閉症スペクトラムがあるような方向で「歴史」を捉えようとしていることだ。
つまり、統合失調症が「失敗」しなければ自閉症スペクトラムとして生き続けられる、という視点は、自閉症スペクトラムが統合失調症の「なり損ね」という考えを凌駕している。
この著者の欠点は(ふつうは長所だが)、歴史の全体像をうまくまとめてしまうことだ。
それはしかし狂気を扱うには相応しくない。
狂気は、ただ狂気によって語られなければならない。
不安
いろいろあると不安になる。
ウイルスのように見えないものに対しては尚更だ。
考えても仕方がないので、目先の業務を粛々とこなすのみ。
ヴィトゲンシュタインの系統
とはいえ、ヴィトゲンシュタインが好きだったり、セラーズから始まるピッツバーグ学派は楽しいし、心の哲学系もオモシロイ。
その時の気分でいろいろな方面を考える、というのは幸せなことかも。
科学的思考とは
科学的思考は、論理実証主義あたりから、宗教や形而上学を科学と切り離すことに専念している。
たぶん、それは素晴らしいことだろう。
ただ、それが「正しい」のかどうかはわからない。
宗教との関り
昔の西洋の、哲学や科学はカトリックと切り離せないものだった。
それがいいのか悪いのかは知らないが、そういう風に考えていた、という事実は変わらない。
高いマスク その2
つまり、精神安定剤としての役割を果たしている。
とすると、結果としてそれほど高価ではない、と考えることは可能だ。
高いマスク その1
非常に高いマスクがあったんだが、中国製とはいえ日本ブランドだったので試しに買ってみる。
そうすると精神的に安定し、心が穏やかになったりする。
人間というのは不思議だ。
緊急事態宣言の意味
宣言が出てからしばらく経つが、何が緊急なのかよくわからなくなる。
いずれにせよウイルスは人を選ばない。
ラカンとヤスパース
ラカンはヤスパースの「了解」を皮肉るが、しかしヤスパースの「了解」は「わからなさ」を前提としているという意味で、ザックリと俯瞰すればラカンとそう変わらない。
そして、ヤスパースは「(暗号として現れているような)『隠れている神』に性急に近づいてはならない」という倫理を強調する。
否定神学というのは直線的な「神学」の裏返しなんだが、しかし、人間の心理は「神学」や「否定神学」のように働いているというのは、歴史的文化的に証明されている、と言えそうな気がする。
その中でどう生きるべきかという道筋をヤスパースは示している。
ヤスパース
しかしヤスパースは偉い。
少し見直した。
ヤスパースを悪く言うのは簡単だが、反省すべきということが良く分かった。
これは後で触れることもあるだろう。
ヘーゲルとコギト その1
感覚物と主観的思考をどのように考えるのか、ということでカントは苦労したが、それを時間軸のズレとして考えたのがヘーゲルだと思われる。
カントとコギト その3
「統覚という考え方の裏には、統覚されていないバラバラなものを想定している」と考えることも可能だ。
それを「寸断された身体」と言いたくなるのは、かつてフランス現代思想にどっぷり浸かったという、オレ自身の暗黒の過去の問題だ。
カントとコギト その2
カントのコギトは、ほぼ「統覚」というものによって形成される。
統覚は「御札」か、違うのかは難しい。
御札によって結界を張ろうという効果を意図しているような気がする。
カントとコギト その1
カントは「視霊者の夢」で、非科学的な事象を思考することを試みているが、そもそも西洋の歴史とはソクラテス以前からカントに至るまでずっと「非科学的なモノ」と対峙している。
あるときは悪霊として、あるときは神として、あるときはダイモーンとして、あるときは精霊として、 あるときは狂気として。
御札とコギト
個人的にはコギトはシニフィアンに代表されてしまった、という考えに馴染んでいるが、悪霊に貼る御札というなら、「無」を埋めようという無駄な努力としてのシニフィアン(あるいは文字)というべきか。
デカルト的主体
コギトとは何か、を考えだすと夜も眠れなくなるんだが、「われ思うゆえにわれあり」というのはさほど確実な思考ではない、ということさえわかれば、それでいいかも。
16世紀とグールド
オレたちはグールドを必要としている。
そして、16世紀の曲を弾くグールドは、最もオレたちの役に立つ。
理由はわからない。
ただ、そういう事実があるだけだ。