電グル
瀧が逮捕されたところで、それは実生活で犯罪を犯したから逮捕されたという事実があるだけで、電グルの作品がどうこうというわけではない。
個人的には犯罪と作品は無関係という認識だが、ライブ活動になると微妙な感じがする。
それは受け取る側の感性の問題で、やる側は自己責任で勝手にやればいいと思う。
そもそも責任とは何に対する責任なのかという問題があるが、それを敢えて言うなら社会的責任ということになると思うが、それに関して無責任は困るというのもわからんでもないわけで、しかし社会的責任とは何か、ということもわかりにくいし、とはいえ実際問題として批判されているわけだし、・・・などと考え始めると夜も眠れなくなる。
反省し罪を償いながらも、普通に音楽活動してもらえればいいわけで、それはそれで難しく考えなくても良いかも、という気がする。
というわけで、オレの頭の中では電気がグルグル。
トリンコン [サッカー]
トリンコンは結果を出して自信さえつけば活躍できそう。
彼のウニョウニョしたドリブルは現時点で不評だろうが、彼のリズムがハマればチームの良いアクセントになるはず。
というか、クーマンは相当忍耐強く彼を起用している。
そこだけはクーマンを高く評価する。
選手交代 [サッカー]
クーマンの、選手交代での効果が少ないのは、破綻を避けるために、当てはめ重視にするからだと思われる。
選手特性での変化を考えるなら、デンベレをスーパーサブ的に使って、442にしてグリーズマンとの2トップにするとか冒険をした方が良いのだが、メッシを外すという選択肢はないらしい。
クーマンの戦術 [サッカー]
クーマンのもつ戦術は少ないし、その変更は非効果的だ。
たぶんスロイデルが原案を作って、クーマンが選手を当てはめていっているような気がするんだが、当てはめについて言うと、グリーズマンのところがなかなか難しい。
メッシもグリーズマンもコウチーニョもトップ下かセカンドストライカーという位置づけが得意だから、その当てはめに苦労している感じ。
結果、下がる相手には4231でブライトバイテをトップ、グリーズマンをトップ下で、左コウチーニョ、右メッシというのが有効だと思う。
しかし例えばヘタフェのように前に出てくるタイプには、442が多くなるようだ。
3バックは相手に応じた限定的な戦術だろうが、選手の気分や目先を変えるという意味では効果的で、オモシロい。
試合の見方 [サッカー]
前回書いたような楽しみが出てきたので、試合の見方が変わってきた。
基本的な戦術と、相手の戦術による戦術の変化を中心に観ているんだが、若手の馴染み方もついつい観てしまう。
で、ペドリは実に素晴らしい馴染み方をしていて、カンテラーノと同様にバルサというチームをよく理解しているように感じる・・・気のせいだと思うが。
あとはデストが素晴らしい。
カンテラ出身とアヤックス出身だけでチームを作っても良いのではないか、と勘違いさせるだけのクオリティがある。
若者を応援する [サッカー]
最近のバルサは、ベテランを減らし、あるいはベテランがケガをし・・・という状況の中で、結果として若手が台頭している。
シーズン初頭に活躍したファティ(18)はともかくとして、ペドリ(18)、デスト(20)、アラウホ(21)、ミンゲサ(21)はファーストチームに欠かせない存在になりつつある。
トリンコン(20)やアレニャー(22)、リキ・プッチ(21)、コンラッド(19)あたりにもチャンスがあるだろう。
デ・ヨング(23)を含めた、こうした若手陣がバルサの明るい未来を期待させるわけで、応援していきたい。
Only Piano
鶴谷崇のソロアルバム「Only Piano」が出ていたので、配信で買う。
なぜならCDで売っていないからだ、なぜだ(あとでCDにもなっている)。
ソロとはいえ、技術を見せつける展開ではなく、なかなかの快楽ピアノで、バッハというかグールドの超モダンな展開とみることもできる。
彼は大衆音楽フィールドで活躍しているので、メロの馴染みやすいポップな方向はともかくとして、そのクラシック的な構成に驚く。
何よりもピアノの専門家の、ウチの妻が喜んでいるので、相当なものだと思う。
だがしかし鶴谷崇(と某所で某に呼ばれていた)。
このアルバムを聴いただけでも、超一流のセンスだと理解できる。
今後の活躍に期待したい。
恍惚病棟
山田正紀『恍惚病棟』(ハルキ文庫1999年第一刷)を久しぶりに読む。
一番最初にこれを読んだときは幻想小説の類だと解釈しながら読んでいて、最後に論理的な説明によって解決してしまうのが残念だと思った。
しかし、世の中の読者は逆で、ミステリーなのに幻想的な展開(例えば痴呆症患者の内面描写)が多すぎるとみる向きもあるようだ。
よく考えてみればこれはミステリーというジャンルなので、そこから逸脱することは許されないし、作者はそういう制約を楽しむことによって書く意欲を掻き立てていたようだ。
「あとがき」にもあるように作者的には「中途半端」なんだろうが、オレたちはこういう書物をどう表現すべきかをよく知っている。
すなわち「中途半端なことを除けば傑作」と。
いつの間にか山田正紀は螺旋文体を駆使して現実を幻想化し、幻想に裏打ちされた現実を壮大に描く達人になっていた。
そこに至る過程にある、これら一連「中途半端」な作品群をオレは愛しく好ましいものだと感じている。
言語ゲーム論との類似性
(複数の)言語ゲームの世界に人間(主体)が入っていくイメージと、「自己」「非自己」以外のものがたくさんある中で漠然と「自己」「非自己」があいまいに設定されていくイメージは、なんとなく似ている。
まず仮説こそが真実
つまりその、オレは「唯幻論」やら「唯脳論」やら「精神分析」やら「無神論」やらに強い影響を受けている。
しかしながら、それらはほとんど砂上の楼閣だ。
精神分析では「主体」と「他者」に関する記述が多い。
だが、前回書いたように「主体(≒自己)」と「他者(≒非自己)」以外のものがたくさん存在しているようだ。
それが「現実界」と呼ばれるものの源流ではないか、と夢想する。
夢想するのはオレの勝手だが、そこに既存の哲学や科学を結び付けていかないと説得力がないとされている。
とりあえず、つまりは、仮説だ。
なぜ無意識があるのか
そもそも無意識が「ある」という言葉の使用は、正しいのか、という疑問を持ちつつも。
「自己」と「非自己」の元になっているものは意外に少なく、つまり「自己」と「非自己」以外のものがたくさんある、という事実をベースにして、無意識を考えてはいかがか。
単なる提案だ。
獲得免疫
メモ。
自然免疫とは対照的に、獲得免疫システムはゆっくりと数日かけて応答し、また、特定の抗原を介して外来侵入者を検出するカスタムメイドの受容体を使用します。これは、T細胞、B細胞、およびナチュラルキラーT (NKT) 細胞と呼ばれるリンパ球が組み合わさって生じる緩やかなプロセスです。それらのリンパ球は協働し、特異的な抗体により病原体を脅威として特異的に検出しマークします。その後、応答は増幅され、侵入者を破壊します。
この戦略の最も重要な利点の1つとして、獲得免疫システムは、特異的な記憶T細胞および記憶B細胞を血液やリンパ節に保持することにより、病原体の永続的な記憶を形成できることが挙げられます。これにより免疫システムは、将来、同じ病原体と遭遇した際に、より速く簡単に撃退する準備ができます。その後の抗原への曝露により、二次応答と呼ばれる細胞攻撃のレベルが増加します。
自然免疫応答および獲得免疫応答は、細胞外液の高分子によって、あるいは特定の免疫細胞の活性化によって引き起こされます。これらの応答はそれぞれ、液性免疫および細胞性免疫として知られています。
液性免疫はしばしば浮遊する抗体や補体タンパク質により外因性抗原を検出しますが、細胞性免疫はT細胞、マクロファージ、あるいはナチュラルキラー (NK) 細胞により感染した体細胞を破壊します。
興味深いことに、NK細胞とは異なるT細胞の特定のサブセットとしてのナチュラルキラーT細胞は、自然免疫細胞と獲得免疫細胞の両方の機能を持ち多様な応答をします。ナチュラルキラーT細胞はしばしば自然免疫応答の一部として分類されますが、獲得免疫応答においても相互作用します。
参考文献:
Immunity: The Immune Response in Infectious and Inflammatory Disease
By Anthony L. DeFranco, Richard M. Locksley, Miranda Robertson
某所より
株式投資はゆっくりと [株式投資]
株式投資の話。
慌てると失敗する。
スピードでAIには勝てない。
大型の特定銘柄を買う。
安いときに買う。
買ったら数年放置。
などというやり方でやっているが、いまだに含み損がある。
たぶん、ポストコロナ銘柄が上がっていて、通常のものづくり産業の上昇が遅れているからだと判断している。
そういう分析すらも必要ないかも。
慌てても仕方がない。
疲れる仕事
一般的に仕事は疲れるんだが、他より特に疲れる仕事がある。
いろいろ頭にくる。
コンチキショー、と思う。
まー頑張ろう。
配信とテレビ
最近ライブの配信が多くなってきた。
それは時節柄当然のことなんだが、せっかく観るならパソコンの画面では少し物足りない。
というわけで、HDMIケーブルを買ってきてテレビにつなげて観ている。
音はパソコンからプルートゥースでオーディオに流して聴いている。
音ズレがあるかと思って、最初はテレビ経由にしていたが、ブルートゥースの方が経由が少ないというメリットがあるし、音ズレもない。
それなりのwifi環境があれば、テレビの画面でも普通に観られるのがオモシロい。
自己と非自己と可塑性
メモ。可塑性 の手前の文章。
T細胞抗原レセプターのレパートリーの方も、同様に、T細胞が成熟する環境によって決定される。Aという系統のマウスの造血幹細胞を、別のBという系統のマウスの中で成熟させると、自分が由来したAではなくて、環境のBの方を自己と認識する細胞になる。その同じAの造血幹細胞を、今度はCという系統のマウスの胸腺内でT細胞にまで発達させると、Cを「自己」と認識し、Bの方は「非自己」と認識されるようになる。ときには、自分が由来したAさえも、「非自己」の範疇に入れてしまう。こうして、免疫系における「自己」と「非自己」の識別能力は、環境に応じた可塑性を示す。
(「意味論」P103-P104)
脳と魂は同一か
オレは脳と魂は別だと考えた方が便利だから、別だと考えることが多い。
便利だというのは、デリダたちの思想とさほど遠くない発想だから。
唯脳論が嫌いなわけではなく、それはそれで魅惑的だが、とりあえず思想的な自己統一性が必要ならば、脳と魂は別だと主張した方が楽だ。
もともと自己統一性にこだわりはないので、同じだと考えるときもある。
そのときの気分で変える。
心の哲学とロボット
心の哲学でオモシロいのは、ロボットに感情はあるのか、心はあるのか、魂はあるのか、といった問いに対して応えられるか否か、という問題だ。
これはSFでは古くからある問題で、映画『2001年』では人間から矛盾した命令を受けたAIのハルが暴走し、怒りや悲しみという感情を持ったような「表現」を見せる。
あるいは映画『ブレードランナー』のように、一部のアンドロイドが感情を持って人間に反乱を企てる、という物語もある。
ナウシカの王蟲が怒りで赤くなって暴走するのも似たような意味がある。
果たして身近にそのような「現象」が見出せないような現状では、切実な問題ではなく、果たして現代的な問題として捉えるべきなのかどうか分からない。
この問題はおそらく未来を先取りした「問い」で、未来に何らかのアンドロイドに関する「常識」さらには「倫理」・・・具体的には「法」だろうが、その基礎になるもの・・・が確立しない限り答えようがない。
たとえば将来的にアンドロイドの問題は、人種差別問題とか性差別問題、あるいは動物虐待問題のようなものと同じレベルの扱いをするべきなのかどうか、という選択を迫られるものだと思う。
つまり現段階では思考しても無意味で、無意味だからこそオモシロい、という話になっているのではないか。
したがって、オレはアンドロイド問題にかんしてはヴィトゲンシュタインと同様に、途中で引き下がる。
ソシエダ戦 [サッカー]
12/16バルサ対ソシエダ戦。
コロナの影響でゲーム消化数がチームによって違う状況とはいえ、暫定で首位ソシエダ戦。
バルサにとって、実に画期的な試合だった。
たぶん、テン・ハフのアヤックスの戦術をバルサに応用できた最初の試合だと思うし、クーマンがやりたいサッカーの重要な一つのサンプルになるだろう。
つまり、ポゼッションは大事だが、それがすべてではなく、守備のときはマンツー気味に当てはめていく。
グアルディオラ的でもなく、リバプールやバイエルンとは違う、しかし、新しくもない戦術をバルサは、自分たちのものにしようとしている。
この試合では、中盤の3人に加えて、トップから下がったメッシの4人でゲームメイクしていた。
デ・ヨングは、攻撃のときはインテリオールで、守備のときはドブレ・ピボーテの一人というのも、なんとなくクーマンの強い意志が感じられる。
とすると、ブレイスワイトやペドリ、そして何よりグリーズマンが(守備を含めて)躍動する戦術になっているのがオモシロい。
このやり方だとデンベレはオプションにすぎない。
コウチーニョは必要だと思うが、ペドリがここまでできれば、財政的なことを加味すると、コウチーニョを売ってもいいかもしれない・・・いやーこの辺りの判断は非常に難しい。
ただ、来季メッシがいなくなるという前提なら、よほどの補強がない限り、コウチーニョとデンベレは必要だ
たぶん劣えの見え隠れするブスケツの、カンテラの後継者はアレニャーくらいしかいないので、そこはデ・ヨング、ピャニッチ、ペドリでなんとかするしかない。
ペドリが中盤に収まるのなら、トップのどこかでリキプッチを使ってほしいような気がする。
近い将来アンス・ファティが復活するなら、コウチーニョはペドリの控えという扱いになりかねないので、守備も攻撃も高いレベルでこなすコウチーニョを放置するのはもったいない。
死の欲動
単純に言うならば、「死の欲動」は「生き延びるための欲動」と同じことだ。
言葉としては変だが、思想としては筋が通っている。
少なくとも、思想家が陥りがちな、ツマラナい政権批判よりはオモシロい。
言語の呪縛
言語の呪縛は、一言で言うと「ララングの効果」ということになる。
これを説明するために、一者とか自体性愛とか依存症とか白痴とかややこしい言葉を必要とするのは、たぶんミレールがいけないと思うんだが、些細なことは気にせず、レッツゴー。
アルツハイマー
アルツハイマーは言語の呪縛から逃れるための、わずかに残された人間の対抗策だと考えるとオモシロい。
オモシロいだけだが。
呪縛と理由
いずれにせよ、オレたちは言語論的転回、とくにヴィトゲンシュタインの「思考」=「言語の呪縛」から考えることが多く、だからこそ現代的な新実在論的展開に、おずおずとお伺いを立てるような態度を取っている。
しかし言語論的転回を呪縛と捉えるのは、オレがミレールの師の強い影響下にあったばかりではなく、デリダの強い影響下にあったということを忘れてはならない。
人が生き延びるためには、まず言語を利用するのだが、次に言語に依存し始め、さらには言語に囚われるようになる。
ただそれだけが「理由の空間」が発生した「理由」だと思うのだが、いかがか。
セラーズとデイヴィドソン
個人的な考えだが、セラーズとデイヴィドソンの立ち位置に似たところがあると思っている。
二人とも、最終的には物理主義=自然主義=科学主義というようなものが思考の中心軸にあり、それを無視することはできないと考えている。
しかし彼らは、人間の「自発的(主観的)な側面」=「理由の空間」は、物理主義の中に簡単に収まりきれないことを主張する。
というわけで、彼らは総論としては一元論を主張するのだが、各論では二元論のような展開を端々に見せている。
そこにアルチュセールの「重層的決定」や吉本隆明の「重層的非決定」との類似性を感じるのは・・・あらら、オレだけか・・・反省しよう。
反権力
「権力志向が思考停止で、反権力こそが思考の活発化だ」というのは、オレにはよくわからない。
オレは「反権力も同様に、強調しすぎれば思考停止だ」と考えているので、「権力志向」とか「反権力」とかはどうでもいい、と思っている。
要するに思考停止をしていなければ、「権力志向」も「反権力」も、問題ない。
ただ、どちらも多くの知識人が思考停止してしまうのが、もどかしい。
生きる意味
依存症として生きるしかない主体が、肯定的に生きるための方策が「無神論」だという結論に達するのは、現時点でより誠実な態度と言えるだろう。
それは、多くの「知識人」がなぜかそこに埋没してしまうような「反権力」とは別次元だということに注意しよう。
白痴的享楽の肯定的発展=依存症の(無)意味 [メモ]
メモ。ミレール2011。
ラカンは、この発見の軌跡のなかで、去勢という言葉を用いていません。(・・・)ラカンは、単に突発性の変調、<一者> l'Un が享楽のトラブルを引き起こすと言っています。身体の享楽そのものは恒常的なものだと想定されていますが、それは動物の享楽や、さらには植物の享楽について想像することと同じで、その享楽とはつり合いが取れたものです。そして、言語が享楽の[釣り合いがとれた]領域に導入されるのです――フロイトはそれを去勢と呼びましたが、ラカンは去勢を含むより広い言葉として、忘れることのできない享楽の侵入の記憶を留める<一者>の反復、という言葉をもちいました。その侵入以来、主体は反復のサイクルに繋ぎとめられます。その反復の審級は集積するようなものではなく、反復の経験は主体に何も学ばせてくれません。このような享楽の反復は、今日では依存症と呼ばれています。なぜ依存症と呼ぶかといえば、それが加算ではないからで、経験が集積することがないからです。(・・・)反復的な享楽、依存症と呼ばれる享楽、そしてラカンがまさにサントームと呼ぶものは、依存症の水準にあります。この反復的享楽は、<一者>のシニフィアン、S1以外のものとは関係をもちません。つまり、知を代理表象するS2とは一切関係をもたないのです。この反復的な享楽は知の外部にあり、S2なしにS1をもちいることによって身体を自己-享楽することにほかなりません。S2の機能を果たすもの、このS1にとっての<他者>の機能を果たすものは、身体それ自体です。この知られざる享楽を垣間見ることをラカンに可能にしたのは、『アンコール』のセミネールにおいて展開された女性のセクシュアリティの研究でした。それ以来、ラカンはその享楽を男性にも見出したのです。いわばその享楽は、ファルス享楽の空威張りの下で隠されているのです。その享楽は、ファルス享楽を通過しないことを選んだ男性にも明白にあらわれます。それはたとえば神秘主義的な男性における禁欲の結果です。その享楽はジョイスのような症例にもまた現われます。
(享楽P57-8)