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死すべき生への欲望付近での滞留 [メモ]


 メモ。

 デリダはアウグスティヌスとは対照的に、死すべき生への欲望を構成的な力として明確化している。彼の根本悪の観念は、愛されるものが死すべきものだから、悪の可能性が愛されるものそれ自体に内在しているということを示している。愛されるものが死にうるということは、それに接近することへの欲望とそれを失うことのおそれの両方を否応なしに引き起こすことになる。『友愛のポリティックス』でデリダが書いているように、「愛は悪で、悪をもたらす傾向があり、悪はつねに愛からくる可能性があり、根本悪は最大の愛からくる可能性がある」。デリダはこの主張を掘り下げているわけではないが、この著作のはじめに登場する「私は君を愛する」というフレーズの分析に、この議論をたどることができる。デリダの分析は、彼が「唯一の友愛、不可分の絆、一回限りの「私は君を愛する」、永劫に一回限りの、これを最後にしての[他のすべての代わりの]一回限りの「私は君を愛する」の欲望」と述べているものに由来している。分別しえない絆への欲望はその内部で矛盾をはらんでいる。この欲望は時間的なものを永遠に保持しようとする欲望だからだ。デリダが指摘するように、「分割不可能性はその有限的性格のなかで無媒介的に無限だ。分割可能性がそれとして姿を現すのは、ただ反復と多数化への欲望のなかだけで、不可分なものを保守するために不可分なものを分割する約束と記憶のなかだけだ」。分割しえない絆はそれがいかなるものであれ、未来への記憶として保たれなくてはならないのだから、その内部で分割されている。未来への曝されは、この絆を保つ好機を与えるものとこの絆を崩壊させる脅威を与えるものの両方だ。この「君を愛する」という、約束を守るよう束縛する宣言は決定不可能な未来を前にしてのみ述べることができ、決定不可能な未来は善と悪の両方の可能性を開く。


(無神論P219)




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アウグスティヌスの限界 [メモ]


 メモ。

 それゆえ、アウグスティヌスが悪の源泉とその烙印を押したところの欲望をデリダは肯定していると思えるかもしれない。アウグスティヌスはその論文「意志の自由選択について」で、「失うおそれなしには所持しえないもの」への欲望から悪を引き出している。望んでいるものの喪失を恐れなければ脅威を感じることもないのだから、ひとは嫌悪や憤怒など決して感じないだろうし、暴力に訴えることはないだろう。したがって、悪事の推進力となるのは死すべき生だ、とアウグスティヌスは論じる。あらゆる悪、あらゆる罪は「自分の意志とは裏腹に失ってしまうかもしれないものへの愛情」に由来している。こうした愛情のもっとも根本的な例は当然、自らの意志とは裏腹に失ってしまうかもしれない死すべき生への愛着だ。このようにして悪の克服にいたる道筋は、死すべき生への欲望から不死の生たる神への欲望へと転向することだ。

(無神論P219)





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悪と善 [メモ]


 メモ。

 悪の可能性は人間的に構成的な嘆かわしい事実、すなわちわれわれが理想的な「善」に到達するのを防ぐものではない。むしろ、理想的な成就は成就しないことの可能性に開かれたままでなければならないのだから、悪の可能性はわれわれが望む善に内在している。この議論は、成就を本質的に時間的なものとして再考することを前提としている。デリダ自身はこうした考え直しに、はっきりとわかる仕方で着手したわけではないが、彼の議論の論理を展開させるにはそれは不可欠だ。成就が時間的なら、それは成就しないことに開かれていなければならないことになる。というのも、成就はそれ自体を根拠にすることはありえないし、それはまた未来が到来することで変化を被るからだ。同様の理由によって、善なるものはどれも悪になるということに開かれているのでなければならない。この悪の脅威は突如として善に到来するのではない。悪はわれわれが望む善の一部をなしている。

(無神論P218)




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カントと悪 [メモ]


 メモ。

 カントも悪を自由意志の結果に還元することで同様の議論をしている。彼によると自由意志によってひとは道徳法則よりも感覚的な本性への誘因に従うようになる。カントの考えでは、悪への性向は人間の力能では一掃できないということが根本悪によって示されている。しかしカントは悪を免れた善の理念を問いに付してはいない。それとは対照的に、デリダの根本悪の観念は、それ自体善だとされるものという理念そのものを切り崩している。

 ここでの「根本悪」の思想は、偶発事としての根本悪とは関係ありません。それは単純に、悪だとしても、あるいは何かしらの頽落の可能性、達成されざることの、あるいは失敗の可能性は根深いということです。というのも、これこそがあらゆる至福=望ましいもの、あらゆる肯定的価値の条件--例えば倫理の条件--ですから。したがってこの否定的なものの可能性を根絶やしにしようとすれば、救おうとしているものを破壊することになります。このようにして倫理は悪の根深い可能性なしに倫理的たりえないのです。[……]この望ましくないもの、十全ならざることの可能性は、倫理、政治、至福、成就などの名のもとに私たちが救おうとしているものの一部をなしているのです。

(無神論P217)




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根本悪 [メモ]


 メモ。

 デリダの「根本悪」という観念を経由することで、われわれはラディカル無神論という観念をさらに発展させることができる。この述語はカントの論文『単なる理性の限界内における宗教』に由来するものだが、デリダの著作においてはきわめて異なった意味を与えられている。根本悪の観念は神学のもっとも根源的な議論のひとつ、すなわち悪の根本にかかわる議論に入り込んでいるという印象を与えるかもしれない。宗教におけるこの古典的な問題は、神の全能はいかにして悪が実在することと両立しうるのかという問題だ。神が悪を創ったのなら彼は絶対的に善というわけではないが、神が悪を創らなかったのなら彼は全能ではないことになってしまう。アウグスティヌスは、悪はそのものとしての存在には属していないと論じることでこの問題に対するもっとも影響力のある解決を与えた。善のみが存在を持ち、悪は善の欠如にすぎず、それは外部から突如到来して、存在の最高善そのものに働きかけることはない頽落だ。『神の国』でアウグスティヌスが書いているように「悪は肯定的な本性を持たない。しかし善を失うということが「悪」という名を受け取ってきた」。このようにして、神は悪にかんする責任を持たない(というのも存在を持つものは善だから)万物の創造主たりうる。悪の源泉はむしろ人間の自由意志に存する。自由意志のために人間は、神に向かうことよりも現世の事柄を好みやすくなってしまう。

(無神論P216)




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友愛と神・・・そして欲望 [メモ]


 メモ。

 デリダが言うように、神という絶対的存在は「他者を必要としないがゆえに、友愛を必要としない(「友愛のポリティックス2」P49)」。デリダの議論によって、なぜ完璧な友愛は存在しえないのかという問いに対してラディカル無神論的な見地から答えることができるようになる。古典的な答えは、[友愛の]完全な状態を--たとえそれが死すべき存在には到達不可能だとしても--友愛のテロスとして、つまり友愛への欲望を駆り立てる理想として措定する、というものだ。伝統的な無神論はこの欲望へと向かうモデルの範囲内にとどまっている。それは神の存在を否定する一方で、われわれがそのような絶対的な存在を欲するということに異議を唱えることはしない。しかし、アリストテレスによる完全な友愛の説明によって、欲望という目的論的概念を、当の概念自体に抗する仕方で読み込むことが可能になる。デリダが強調するように、完全なる友愛へと到達しないことは以下のように解釈できる。すなわち「別の仕方で、言い換えるなら、他(者)性の思考を起点としてで、そうすると、真実のないし完全な友愛は、理解可能なテロスとして接近不可能というだけはでなく、その本質そのものにおいて、またそれゆえにそのテロスにおいて、理解不可能なために接近不可能なものとなる」と。デリダがここで他(者)性の思考と呼ぶものは、私がラディカル無神論と呼んでいるものに合致している。ラディカル無神論の論理に従うと、完全なる友愛は到達不可能な理想ではなく、それ自体において着想しえないものだ。死の可能性なくしては友愛はありえないのだから。完全なる友愛は友愛の可能性を破壊してしまうだろう。

(無神論P215)





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ラディカルな・・・そして愛 [メモ]


 メモ。

 デリダが述べている無神論、それは神の存在や不死性を否定するだけではない。それは私がラディカル無神論と呼ぶところのものに対応しもする。ラディカル無神論は、望まれうるものはどれも本質的には死すべきものだという主張に由来している。デリダの論攷、『法の力』において、この議論の別バージョンが示されている。彼の説によると、愛とはつねに破壊を愛することだ。重要なのは、愛が本質的に破壊するということではなく、愛されるものはなんであれ、自らのうちにその破壊を含み持っているということだ。

(無神論P213)






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生と可死・・・そして神 [メモ]


 メモ。

 デリダは、死を世界の終わりとする自らの考えにおいて、生が絶対的に死すべき運命にあることをとらえている。喪についての彼の省察における導きの糸は、それぞれの死が世界の終わりだということだ。誰かが亡くなった場合、それはたんに世界のなかで生きる誰かの終焉だということではない。そうでなくむしろ、それは世界そのものの終わりだ。というのも、[私と相手の]どちらもが単独的で償うことのできない、世界の起源だからだ。『そのたびごとに』の序文でデリダが強調しているように、このような世界の終わりは、「ただ一つのかけがえのない世界――生きとし生けるもののすべてをただ一つのかけがえのない生けるものにしている「ただ一つのかけがえのないもの」――の代替や存続の可能性に対しては、いかなる場所も、ほんのわずかな好機も残してはくれない」。デリダは明らかに、この議論を提起することで神という観念に対抗している。彼の注釈するところでは「神」とは以下のようなものだ。つまり、「神」とは、死が、単独の生者の死ぬ運命にある世界を終わらせることはあっても、世界なるもの――真正かつ究極の世界――を終わらせることができないという観念だ。神という観念は、かくして破壊を被る可能性を免れたものが存在しうるという観念だ。反対に、デリダにとって問題となるのは、可能なる世界はどれも、絶対的に破壊されうるものだと考えることだ。

(無神論P212)







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喪の経験 [メモ]


 メモ。

 このくだりでは、喪の経験で強調される、死すべき存在者のダブルバインドが描写されている。一方では、可死性によって、相手=他者はかけがえのない生きた存在となる。相手が死なないものなら、その人はかけがえのないものではなくなるので、相手を他の何からも区別できなくなってしまうだろう。他方で、他者の本質をなしている可死性のために、他者は否応なく破壊されうるものとなってしまう。だから、他者を通して開ける世界は「死にいたるほど無限」だ。誰も他者にとって代わることはできない。彼が経験したことを経験することも、彼女が見たことを見ることも、それが感じたものを感じることもできない。世界の、このかけがえのない起源の消滅は、生の無限の有限性として私が分析してきたものを強く思い起こさせる。他者は無限に他だ--その他性を乗り越え、取り戻すことは他の誰にもできない--なぜなら相手=他者は有限だからだ。

(無神論P212)







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デリダの愛


 「ラカンの愛に叶わんとして」を書いたデリダは、死すべきものとしての彼を愛していたのであって、不死の思想家としての彼を排除する。

 ミレールの師自身はそのあたりはまったく無頓着で、だからこそ自らの「生」以外のこと、たとえば、彼に関わる組織や派閥はどんどん縮小化していった。

 彼にとってのデリダは、剽窃野郎ということを除けば、素晴らしい思想家(オレの単なる推測)だ。

 もしデリダが先に亡くなっていれば、彼は「デリダの愛に叶わんとして」くらいの嫌味を書いたかもしれない。

 そういうわけで、彼らの憎しみ合いは、もちろん彼らの相思相愛に起因する。






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分割と悲嘆 [メモ]


 メモ。

 私が自らのみを友とする場合にも、同様のダブルバインドが作動することになる。前章までで議論してきたように、自己触発は、それがどれだけ直接的なものでも時間の到来を通じてのみ与えられる。ゆえに、私は自分にとって他者としての死すべきものへと必然的に分割される。あらゆる瞬間において、私は、未来のための記憶として自分自身に執着するがその記憶は失われ、悲嘆をもたらすことになるかもしれない。したがって、「一般的な可能性という意味での悲嘆は他者としての、つまり死すべきものにとっての死すべきものとしての他者との関係を、つねに他者より先に死ぬことがある一人との関係を」統制するとデリダは主張する。死すべき他者はここで、私が持つ以下の二つの関係を指し示しているといえる。つまり、他者としての私への関係--ちょうど私が過去の自分を犠牲にして自らの生き延びを経験しているように--、そして死ぬことがありうる別の他者との関係だ。どちらの場合においても、自己と他者は喪の構造的可能性を通じてはじめて、それぞれに与えられることができる。喪の顕在的な経験には、経験のまさに最初の瞬間以来はたらいている可能なる喪が先んじている。というのも、あらゆる経験とは時間的なもので、いずれは失われてしまうだろうからだ。

(無神論P207)







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原-暴力への道 [メモ]


 メモ。

 異他触発の必然性を分析することで、私はこれまで原-暴力を問題にするための道を準備してきた。自身の外部にあるものに依存しているということは、本質的に、「他者」に傷つけられ、脅かされているということだ。デリダにおいて「他者」は、そもそも他の人間たちを意味するわけではない。反対に他性は、時間の間隔化と不可分なものだ。このような間隔化が還元不可能な仕方で暴力的なのは、それがあらゆる内部性を放棄し、私や他人も含め、すべてを有限性の危機に曝しているためだ。それゆえ、デリダが自己の構成にとって他者が還元不可能だと主張するとき、彼は主観性の核にある他の人間たちへの倫理的な開かれを探究しているわけではない。むしろ問題となっているのは頽廃や差別への根源的な開かれで、この開かれは、自身への関係を含め、あらゆる関係を開く。フッサールを読解するなかで、デリダは直接的な現前化の可能性を退け、意識を内部から脅かす暴力的な開かれを思考するために根源的な再-現前化を主張する。そのため、ある意味では、本章における私の試みは、「原-エクリチュールは、道徳性と不道徳性の根源だ。つまり、倫理の非-倫理的な開かれで、暴力的な開かれだ」という『グラマトロジーについて』における一節と読解するための下準備ともみなされてもよい。

(無神論P144)







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代理=再-現前化 [メモ]


 メモ。

 しかし、デリダにとって決定的な問題は、代理=再-現前化の構造が意識そのものの条件なのかどうかということにある。フッサールは時間意識や間主観性の意識にとって代理=再-現前化がもつ必然性をよく理解していたにもかかわらず、それが意識の条件だということは否定していた。『危機』書のなかでフッサールが説明しているように、自らを想起することのうちに含まれる「自己-時間化」と他我に関係することのうちに含まれる「自己-異他化」は、根源的な自己-現前化の派生態として理解されねばならず、フッサールはこの自己-現前化を「流れつつ絶えず現代的な今の自我」として説明する。このとき問題は、フッサールが世界や他者を除外したことにあるのではなく、われれわれが媒介なしに自身に与えられるところの生き生きとした現在のうちに、彼がこれらの関係を基礎づけようとしたことにある。そのため、『危機』書においてフッサールは、これと類似した他の多くの個所のなかで、次のように書くことになる。「それぞれの心がその純粋な内面性に還元されて、その対自存在と自己内存在とをもち、その本源的に固有な生をもっている」。この場合もフッサールは、主観が本質的に世界や他者と密接な関係にあることを除外していない。しかし彼はこの本質的な関係性を、特異なものたちすべてに属する根本的な無欠状態に基づいて考える。このような無欠状態という形式は、純粋な自己触発でなければならないだろう。ただ純粋な自己触発だけが自己への関りを保全することができるだろうし、そこで主観は自らの外にあるいかなるものにも依拠することがない。デリダが適切に述べているように、純粋な自己触発において主観は「世界に打ち捨てられているシニフィアンの身体=物体のなかで、死の危険をおかすことはない」。

 それに対して、デリダはこのような無欠状態のラディカルな不可能性という帰結を厳密に示そうとする。もっとも根源的な時間の自己触発でさえ、空間の異他触発と、自身の外部にあるものへの相互依存的な関係を前提とする。このような外部の支えはそもそも初めから消去されるかもしれない危険のなかにあり、それは主観が本質的に自分も他者も裏切るかもしれないものにする。つまり、外部的な補助物は主観が地震や他者を排除し、それらを見落とし、忘却してしまうかもしれないものにしてしまう。それゆえ、原-エクリチュールを思考することは、死、差別化、抹消がはじめから働いているその過程を思考することであって、それがすでに構成された主観にあとから降りかかる過程を思考することではない。

(無神論P142)







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徹底化 [メモ]


 メモ。

 フッサールを徹底化することで、われわれは、このような有限性がいかに自己触発の中に標記されているかを理解することが可能となる。どんな把持も、それを補完しようとする予持によって内部から脅かされている。この予持は、把持が保持しようとする刻み込みを抹消するかもしれない未来が切迫することに起因する。それゆえ、時間的な有限性は自己触発そのもののなかに刻み込まれている。あるいは、デリダが言っているように、「『私たちは存在する』のなかで『私』が自分自身に立ち現れること[=現出]は、根源的に私自身の消滅可能性へと関わることだ。したがって、『私は存在する』は、根源的に、『私は死すべきものだ』ということを意味している」。

(無神論P141)







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エクリチュール一般の機能 [メモ]


 メモ。

 エクリチュール一般の機能は、時間の空間化と空間の時間化によって特徴づけられる刻み込みを通して、過去と未来とを媒介することだ。一方で、書かれたものはつねに記憶の刻み込み、すなわち時間を空間化する過去の痕跡だ。他方で、書かれたものは、それが刻み込まれたあとにのみ読まれうるので、それゆえ書かれたものは空間を時間化する未来との関係から特徴づけられる。そもそもエクリチュールがある理由は、生起するものを未来のための記憶として保持するためで、この記憶は反復の可能性とその避けがたい対応物、すなわち抹消や忘却の脅威とを構成する。

(無神論P139)





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原エクリチュール


 結局一度、原エクリチュールについて、フッサールの思考をなぞりながら振り返る必要があるかも。






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声と現象


 『声と現象』を、また読まなければならない。

 断片的に。

 一貫性を排除して。

 事後的に。

 勇気をもってフッサールを読み替えるものとして。

 そのうちに・・・。






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存在と時間


 ハイデガーの『存在と時間』を現代的に書き直そうとするならば、たぶん、「存在=自己肯定」の内部に含まれている(隠されている)自己否定性について多くを語ることになるだろう。

 つまり、自己を否定し続けるものとしての時間を……。





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死すべきもの:・・・結論的な何か [メモ]


 メモ。

 再度言おう、このことはデモクラシーを求める欲望は必然的に他の欲望よりも徳のあることだということではなく、この欲望は、あらゆる欲望において機能している生き延びの暴力的な肯定を明快に説明しているということだ。ラディカル無神論の論理によってわれわれは政治の問題と、デモクラシーの課題を、新たな観点から評価することができるようになる。しかし、それは結局のところ、いかに生き、いかに行動するかをわれわれに教えてはくれない。自己免疫性の条件への救済は存在せず、変化の約束はすべて--つまりよりよい未来の約束はすべて--、死すべきものに対して誓うだけだ。

(無神論P399)







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「充溢への欲望」の否定 [メモ]


 メモ。

 一切の誤解を防ぐためにここで私の見解を明快にしておこう。私は、生き延びを目指した「善き」民主主義的欲望と、充溢を目指した「悪しき」全体主義的欲望とを対置することを企てているわけではない。そうではなく、政治的闘争やその他[の闘争]において、充溢への欲望が働いたためしなどないと論じている。絶対的充溢の状態には全体主義が起こりうる時間は存在しないのだから、全体主義に向かう欲望は絶対的充溢の欲望ではありえない。同じ理由によって、時間的有限性を肯定することは無条件的だ。なぜならひとは皆、例外なく時間的有限性によって拘束されているからだ。したがって、このうえなく全体主義的な政権でも、自らのヘゲモニー体が有限なことを肯定することを前提としている。もし自らの身体が有限なことを肯定しなかったとしたら、その政権は自らの有限な身体に何が起こっているかなど決して気にもかけないのだから、脅威を感じることも決してなく、認知された敵に圧制的な権力を行使することもないだろう。ここで私が強調しているのは、デモクラシーと全体主義の差異を否定することでも、両者のあいだで決定することの切迫でもない。私が強調しているのはただ、これらのことがらは、内在的に民主主義的な欲望と、内在的に全体主義的な欲望の対置を基礎にして据えられうるものではないということだ。そのような対立を主張し保つとしたら、デモクラシーと全体主義とのあいだの差異を脱政治化することになるだろう。政治的操作に責任を負わず、それゆえに政治的吟味の必要性を免れた、意思決定のための判断基準が存在することになってしまう。超過政治的な要点とは、あらゆる欲望は本質的に頽廃しうるもので、全体主義になることを免れえないということだ。

(無神論P394)





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来たるべきデモクラシー [メモ]


 メモ。

 デリダが「来たるべきデモクラシー」という表現で強調しようとしていたのはまさに、決定不可能性な未来への開かれだ。重要な点は理想的なデモクラシーが将来到達するということではなく、時間の到来はデモクラシーの理念それ自体のうちに必然的に刻み込まれているということだ。

(無神論P382)





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スーベルコパ [サッカー]


 スーペルコパは、バルサがバスク2連戦をやることに。

 バスク勢は勝利へ貪欲なチームが多いのでやりにくいし、今のバルサは若手が多いのでラフな戦いへの対応力に欠けている。

 特に決勝は審判がラフなプレーを容認していて、ますます荒れた試合になりやすい。

 体力で勝負できそうなのは持久力のあるデ・ヨングくらいか。

 結果として、決勝では負けたが、若手にとってはいい経験になったはずだ。

 できれば勝って自信を付けたいところだったが、セットプレーでの守備の修正が必要なことが明らかで、それは今後の練習に生かしていけばいい。

 まだまだチームとしてやらなければならないことがあるし、クーマンはその自覚があるようなので、それほど心配しなくてもよいかも。






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否定的無限 [メモ]


 メモ。

 デモクラシーの無限の改善可能性は本質的に否定的無限だ。この否定的無限を肯定的無限の持つ不変の理想に向かって方向づけることはできない。不変の理想があるとしたら、改善可能性は無限ではなくなる。なぜなら、理想それ自体が完成されることはありえないからだ。それとは対照的に、デモクラシーが無限に改善されうることは、理想それ自体が時間的で可変的なものだということを含意している。本書を通じて私が論じてきた通り、同じ条件が生を、生一般への欲望を構成している。(いかなる形式であれ)生を望むことは時間的なものを望むことだ。というのも、生は自らが生きつづけるために、変質=他化に開かれたままでなければならないからだ。

(無神論P382)




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欲望とデモクラシー [メモ]


 メモ。

 さて、私はここで、欲望についての右のような考え方はデモクラシーを求める欲望と相容れないものだと論じたい。デモクラシーを求める欲望は絶対的な充溢を求める欲望ではありえない。なぜなら、デモクラシーの理念そのものが絶対的充溢の理念を切り崩すからだ。デモクラシーの理念が絶対的充溢の理念だったとしたら、われわれが邁進する完全なデモクラシーを--たとえ有限な存在のわれわれには到達しえないものだとしても--考えることが可能になってしまうだろう。しかし、デモクラシーに向かって邁進するとしても、完全なデモクラシーに向かって邁進することはできない。完全なデモクラシーはデモクラシーを無化してしまう。なぜならデモクラシーを民主主義的だとするためには改善されうるものでありつつ頽廃しうるものでなければならないからだ。かくして、完全なデモクラシーの不可能性は充溢の欠如ではない。その反対に、完全なデモクラシーの不可能性は、デモクラシーの可能性を開いてくれる。

(無神論P381)




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今さらジミヘン


 とはいえジミヘン。

 カッコいい。

 メチャ、カッコいい。





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ラクラウの欲望の機能 続き [メモ]


 メモ。

 普遍性の表象を想定する身体は主権的な身体ではない。それは必然的に部分的なもので、かつ脅かされている。というのもこの身体は排除を前提としており、永久に確保されるということが決してなく、転覆されうるものだからだ。しかし、ラクラウにとってヘゲモニー体は彼が「ラディカルな備給」と呼ぶものに支えられており、この備給は「その身体を完全に超越する充溢を具現化したもの」へと当の体を変容するものだ。ラディカルな備給は偶発的かつ個別の身体における絶対的な充溢への欲望の備給だ。ヘゲモニー体は有限にもかかわらずわれわれがそれを支持するのは、この身体が無限の充溢を社会へ戻してくれるとわれわれが信じるからだ。実際、充溢が不在なことが経験一般を構成するとラクラウは主張する。「有限性は根本的に欠けているものとしての充溢の経験、崇高の経験に関わる[……]それゆえ個人の生は、そこから彼ないし彼女が派生するような充溢を求めるものの無駄に終わる探求となるだろう」。

(無神論P375)





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ラクラウの欲望の機能 [メモ]


 メモ。ラクラウのヘゲモニー論=欲望論は、伝統的な無神論の範囲内にとどまっている。

 ヘゲモニー的構築についてのラクラウの説明における欲望の機能を検討することから始めよう。ラクラウによると、ヘゲモニーが構築されるのは、数多の個別の要求のあいだの等価性の連鎖を通じてだ。彼が用いる基本的な例のひとつに、圧制的な体制への集団的抵抗というものがある。労働者が賃上げのためのストライキをはじめるとき、彼らの個々の要求は圧制的な体制に対して向けられた他の諸々の要素と結びつくことがある(たとえば、報道の自由や教育システムの再編の要求)。ラクラウが指摘するには、「これらの要求はそれぞれ個別的で、他の要求との関係を解かれている。それらがまとめ上げられているのは、そのどれもがすべて反システム的意味を保持するかぎりにおいて、相互のあいだに等価性の連鎖が作り上げられているからだ」。しかし、等価性の連鎖がそのものとして構成され、ヘゲモニー的力を得るためには、何かが他のすべての項と等価なような項を表象しなければならない。個々の項(たとえば個々の社会体、個々の大義、個々の理念)は、圧制に対するより普遍的な闘争の表象を想定しなければならない。それ自体では普遍的な意義を持つ項は存在しないとラクラウは強調する。あらゆる項はそれ自体、差異の戯れの影響下にある。ゆえに特権的な項は純粋な普遍性において、自らの個別性を救済することはできない。むしろ敵対関係に依拠しているのはヘゲモニー的普遍性だ。この敵対関係において、闘争の多様な要素はそれぞれ、敵対する極と対置された存在すべてと等価なものとして措定されている。

(無神論P374)





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ラクラウによる現代的な政治的闘争の定義 [メモ]


 メモ。

 政治的闘争の意味はそれ自体で与えられるものではなく、当の闘争の言説的接合や、他の闘争との関係に依拠している。状況次第では、「同じ」政治的闘争が、根本的に異なった意図に寄与するということもありうる。これは相対主義に賛成する議論などではなく、ヘゲモニー的接合の必要性を必要性を際立たせる議論だ。政治的闘争が不変の意義を持たないという事実が意味するのは、当の闘争が左派の言説と同様に右派の言説にも我有化されるかもしれないということだ。実際、ラクラウは「ファシスト政権はリベラルな政権と同程度に、民主主義的要求を吸収し、接合することができる」と強調している。この決定不可能性ゆえにこそ、政治はヘゲモニーの問題となる。ヘゲモニー化することは、ヘゲモニー的接合なしでは存在しえない結びつきを形成するために必要なつながりを持たない要素を我有化することだ。民主主義的政治の使命とは、解放を運命づけられた特権的な政治主体(たとえば伝統的マルキシズムにおける労働者階級)を見出すことではなく、相互に異質な多数の要求に権力を与え、同じ要求の別のヘゲモニー的接合に立ち向かうことだ。したがって、このうえなく理想的なデモクラシーにおいても暴力を行使せねばならない。ラクラウの定式化では、「このうえなく民主主義的な社会でさえも権力システムで、部分的に力と排除に基づいている」。それは現行のデモクラシーが理想的なデモクラシーに達していないからではなく、ヘゲモニー的接合なしでは政治は存在しないからだ。

(無神論P373)






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ラクラウの特徴 [メモ]


 メモ。

 ラクラウによる批判はつねに、彼らが政治のラディカルな決定不可能性について思考しそこねている仕方へと方向づけられている。

(無神論P367)







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脱構築と政治 [メモ]


 メモ。

 さて、脱構築において勘所となるのはまさしく、民主主義的なものや、非-民主主義的なものにとってのそのような保証が存在しないことだ。何が民主主義的で何が非-民主主義的かにつての安定した判断基準が存在したら、デモクラシーは存在しないことだろう。これは、何を民主主義的だとみなすかの判断基準さえもが民の力によって転覆されうるという、デモクラシーの本質に含まれている。何を民主主義的だとみなすかについての異論の余地のない判断基準を押しつけることは--たとえ当の基準が形式的な手続きだけを扱うものだとしても--、デモクラシーのラディカルな思考をあらかじめ排除することになる。

(無神論P365)






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