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白痴的享楽の肯定的発展=依存症の(無)意味 [メモ]


 メモ。ミレール2011。

 ラカンは、この発見の軌跡のなかで、去勢という言葉を用いていません。(・・・)ラカンは、単に突発性の変調、<一者> l'Un が享楽のトラブルを引き起こすと言っています。身体の享楽そのものは恒常的なものだと想定されていますが、それは動物の享楽や、さらには植物の享楽について想像することと同じで、その享楽とはつり合いが取れたものです。そして、言語が享楽の[釣り合いがとれた]領域に導入されるのです――フロイトはそれを去勢と呼びましたが、ラカンは去勢を含むより広い言葉として、忘れることのできない享楽の侵入の記憶を留める<一者>の反復、という言葉をもちいました。その侵入以来、主体は反復のサイクルに繋ぎとめられます。その反復の審級は集積するようなものではなく、反復の経験は主体に何も学ばせてくれません。このような享楽の反復は、今日では依存症と呼ばれています。なぜ依存症と呼ぶかといえば、それが加算ではないからで、経験が集積することがないからです。(・・・)反復的な享楽、依存症と呼ばれる享楽、そしてラカンがまさにサントームと呼ぶものは、依存症の水準にあります。この反復的享楽は、<一者>のシニフィアン、S1以外のものとは関係をもちません。つまり、知を代理表象するS2とは一切関係をもたないのです。この反復的な享楽は知の外部にあり、S2なしにS1をもちいることによって身体を自己-享楽することにほかなりません。S2の機能を果たすもの、このS1にとっての<他者>の機能を果たすものは、身体それ自体です。この知られざる享楽を垣間見ることをラカンに可能にしたのは、『アンコール』のセミネールにおいて展開された女性のセクシュアリティの研究でした。それ以来、ラカンはその享楽を男性にも見出したのです。いわばその享楽は、ファルス享楽の空威張りの下で隠されているのです。その享楽は、ファルス享楽を通過しないことを選んだ男性にも明白にあらわれます。それはたとえば神秘主義的な男性における禁欲の結果です。その享楽はジョイスのような症例にもまた現われます。

(享楽P57-8)






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