精神分析の正しさ
もし精神分析の正しさ、というのがあるとすれば、それは分析空間における有効性だ。
それは理論的な根拠を必要としない。
オレがドルトを支持するのはそういう意味もある。
ただし再現性はないかも知れない。
オレがミレールの師の治療理論に対して疑問を持つのは、逆転移を利用しないことだ。
それは現場でのアドリヴとインプロヴィゼーションを認めないことを意味するからだ。
ミレール対ジジェク
これは、ジジェクやバディウの論文が、ミレールよりも世間への影響力が強いことから始まっている。
ある種の嫉妬だ。
ミレールがジジェクを罵倒するのは、師弟関係ではよくある話で別にどうでもいいことだが、この論争に関するならば・・・精神分析の実践的意義とは無関係に、哲学的にという意味だが・・・ジジェクに利がある。
まず最初に欠如がある、空虚がある、穴がある。
それを埋めようとする努力の痕跡が欲望で、欲動だ、というのが、ミレール派を含めた精神分析の主流な発想だ。
しかしよく考えてみれば欠如や空虚や穴を感知するためには、ある程度の充溢が必要だ。
というか、充溢と欠如を分離させて考えると、不都合な点がいろいろ出てくる。
分かりやすくいうと、ニワトリが先かタマゴが先か、を永遠に議論する羽目になる。
分離させて考えるなら「欠如化」「空虚化」「穴化」を可能にするのは何か、を考える必要がある。
それが、例によって去勢だというのなら、「去勢が超越論的シニフィエだ」というデリダの主張(『ポジシオン』参照)が正しくなってしまう。