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ハーバーマスについて書くことの享楽 その2 [メモ]


 メモ。

 一方でハーバーマス主義者たちは公に認めてはならない触れるべからざる秘密として自然主義を扱う(「もちろん人間は自然から発達してきたものだ」、「もちろんダーウィンは正しかった」云々)。ところが実際にはこの隠れた秘密は嘘で、彼らの思考の非常に観念論的な形式(自然的な存在者からは演繹されないような、コミュニケーションのアプリオリで超越論的なもの)を覆い隠している。真理はこの形式のうちで隠されていると同時に露わにされてもいる。ハーバーマス主義者たちは自分たちが本当は唯物論的だと密かに考えている一方で、真理は彼らの思考の観念論的な形式のうちにあるからだ。挑発的な言い方をすれば、ハーバーマス主義者らは共和主義的な形式をとりながらも、王党派であろうとしている。
(神話・狂気・哄笑 緒論)





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ハーバーマスについて書くことの享楽 その1 [メモ]


 メモ。

 <絶対的観念論者>というこけおどしのヘーゲル像に対抗して、或るヘーゲル主義の戦略が広く行われるようになってきている。この戦略は、存在論的・形而上学的なコミットメントから解放されたヘーゲル、言説の一般理論や言語の構成的規範性へと還元されたヘーゲルという「デフレ化」されたヘーゲル像を提示する。このアプローチの格好の例が、いわゆるピッツバーグ・ヘーゲル主義者たち(ブランダム、マグダウェル)だ。ハーバーマスもまた「大きな」存在論的問い(「人間は本当に動物の下位の種(動物の延長線上にいる、の意)なのか?」とか「ダーウィン主義は真か?」とか)や神や自然についての問い、観念論や唯物論についての問いを回避しているのだから、彼がブランダムを称賛しているとしてもなんら驚くことではない。ハーバーマスが新カント主義的な仕方で存在論的コミットメントを回避することが、それ自体必然的に両義的だということは容易に証明できるだろう。
(神話・狂気・哄笑 緒論)




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ハーバーマス絡みのポストモダン その4 [メモ]


 メモ。

 モダニズムとポストモダニズムの断絶をめぐる混乱は、ポスト構造主義的脱構築こそ現代の哲学的ポストモダニズムの支配形式だとするハーバーマスの現状分析において臨界点に達する。「ポスト」という接頭辞がふたつの単語に用いられていることに惑わされてはいけない(とくに、きわめて重要な、だがふつうは見落とされている事実を考慮に入れる必要がある。すなわち、「ポスト構造主義」という用語そのものは、もちろんフランス思想の一派を指す語だが、英米やドイツで発明された語だ。この用語は、デリダ、フーコー、ドゥルーズらの思想をアングロ・サクソン世界がどのように捉え、位置づけたかをあらわしている。フランスでは誰も「ポスト構造主義」という言葉を使わない)。脱構築はすぐれてモダニズム的な方法だ。それはおそらく「暴露(仮面を剥ぐ)」という論理のもっとも根源的な形だ。この論理においては、意味の経験の統一性そのものが、意味作用のメカニズムの効果としてとらえられる。そしてその効果は、それを生んだテクストの運動を無視している限りにおいて可能だ。ラカンにおいてはじめて「ポストモダニズム的」断絶が生じる。というのも彼は、きわめて曖昧な地位を維持しているある種の現実界的で外傷的な核を論理化したからだ。<現実界>は象徴化に抵抗するが、同時にそれ自身の遡及的産物でもある。この意味で、われわれは次のようにすら言うことができる――脱構築主義者たちは根本的に依然として「構造主義者」で、享楽こそが「真の<物自体>」で、この中心の不可能性のまわりに、すべての意味作用のネットワークは構造化されている、と断言したラカンこそ唯一の「ポスト構造主義者」だ、と。
(斜めから見るP266)




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ハーバーマス絡みのポストモダン その3 [メモ]


 メモ。

 したがって、モダニズムとポストモダニズムとを分かつ境界線はどこか別のところに引かなければならない。皮肉なことに、ハーバーマス自身は、その理論のいくつかの決定的特徴からみて、ポスト構造主義に属している。フランクフルト学派の第一世代から第二世代への分岐点、すなわち一方のアドルノ、ホルクハイマー、マルクーゼと他方のハーバーマスを分かつ境界線は、モダニズムとポストモダニズムの境界線とぴったり重なる。アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』やマルクーゼの『一次元の人間』は、「道具的理性」の抑圧的潜在力を明るみに出すことによって、現代世界の歴史的全体性のなかで根源的革命と、「疎外された」生活領域どうしの差異、つまり芸術と「現実」との差異のユートピア的廃棄をめざした。そこにおいて、モダニズムの構想はその自己批判的な実現の絶頂に達したのだ。他方、ハーバーマスがポストモダニストなのは、まさしく、美的領域の自立性とか、さまざまな社会的領域の根本的分割といった、モダニズムにとっては疎外の形式そのものだったもののなかに、自由と解放のポジティヴな条件を見出すからだ。このようなモダニズム的ユートピアの放棄、すなわち自由はある種の根源的「疎外」にもとづいてはじめて可能だという事実の容認が、われわれはポストモダニズム的な世界に生きているという事実を証明している。
(斜めから見るP266)




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ハーバーマス絡みのポストモダン その2 [メモ]


 メモ。

この対立は間違っている。なぜなら、ハーバーマスが「ポストモダニズム」と呼んでいるものは、モダニズム的構想そのものの内在的裏面にすぎない。ハーバーマスがモダニズムとポストモダニズムとの間の緊張といっているものは、最初からモダニズムを定義づけている内在的緊張にすぎない。唯美主義者、すなわち個々人は自分の人生を芸術作品のように作り上げていくと主張する反普遍主義的な倫理主義者たちは、つねにモダニズム的構想の一部ではなかろうか。普遍的な価値やカテゴリーの仮面を系統的に剥いでいくとか、理性の普遍性に疑問を呈するというのは、すぐれてモダニズム的な方法ではなかろうか。マルクス-ニーチェ-フロイトという偉大な三人組が体現している、(イデオロギー、道徳、自我の)「偽りの意識」の背後に潜んでいる「実際的内容」を暴き出すというのは、理論的モダニズムの本質そのものではなかろうか。また、理性が、自分の敵の抑圧や支配の力を自分のなかに見出すための、アイロニックで自己欺瞞的な身振り――この身振りはニーチェから『啓蒙の弁証法』のアドルノとホルクハイマーにまで見出されるが――、この身振りはモダニズムの至高の行為の身振りではなかろうか。伝統のもつ非の打ちどころのない権威のなかに亀裂が生じたとたん、普遍的理性とその把握を逃れる特殊な内容との緊張は必然で、それを回避することはできない。
(斜めから見るP265)




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ハーバーマス絡みのポストモダン その1 [メモ]


 メモ。

 「脱構築主義者」のサークルで「ポストモダニズム」の話題が論じられるとき、まず最初にハーバーマスに否定的に言及し、いわばハーバーマスとは一線を画すことが――いわばよいお行儀のしるしとして――必須条件だ。この慣習に従い、われわれはひとつ新しいひねりを加えたい。ハーバーマス自身はなぜか気づいていないが、彼はポストモダニズムだ、と主張することだ。この主張を裏づけるために、モダニズムとポストモダニズムをハーバーマスがどのように対立させているか、その対立のさせ方に疑問を呈することにしよう。ハーバーマスにおいては、モダニズムとは、理性の普遍性を主張する、伝統の権威を拒絶する、確信を弁護するための唯一の手段として合理的議論を認める、相互理解・相互認識と束縛の不在によって導かれる共同生活を理想とする、と定義づけられる。一方ポストモダニズムは、右のような、ニーチェから「ポスト構造主義」にいたる、普遍性の主張を「脱構築」する、つまり以下のことを証明しようとする――この普遍性の主張は必然的・本質的に「誤り」で、権力関係の特定のネットワークを隠していること、また、普遍的理性そのものはその形式からして「抑圧的」で「全体主義」なこと、その真実の主張は一連の修辞学的文彩の効果にすぎないこと(参考「近代の哲学的ディスクルス」)。
(斜めから見るP264)




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ハーバーマスのポストモダン評 その3 [メモ]


 メモ。

 しかしこの可謬主義をとるからといってわれわれは、哲学者の場合にも、またとりわけ哲学以外の研究者の場合にも、決して真理性請求を断念しているわけではない。当事者の発話遂行的な態度においてこの真理性請求が掲げられるのは、その請求が――あくまでも請求として――空間と時間の制約を越えるという場合のみだ。とはいえ一方でわれわれは、真理性請求のために、いつでも通用しうる白紙のコンテクストなどないことを知っている。真正性請求はその時々のいま、ここで掲げられうるもので、批判に対して開かれている。それゆえにわれわれは、真理性請求が明日には、そして別の場所では修正されてしまうような、きわめて日常的な可能性があることを予測している。私自身は、哲学はなお合理性の護り手、つまりわれわれの生活形態の内にある理性の要求の護り手だと考えている。しかし実際の仕事にあたって、私の考えているような哲学は、強い言明を行っても、弱い地位の請求しか行わないという、二つの態度の組み合わせを尊重する。この組み合わせには全体主義的な要素がないために、これに対して全面的な理性批判が向けられる必要もない。
(近代の哲学的ディスクルスP372)





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ハーバーマスのポストモダン評 その2 [メモ]


 メモ。

 もし理性が、崩壊の罰に曝されながらも、こうしたパルメニデスからヘーゲルに至るまで追求されてきた古典的な形而上学の目標を追い続けることで持ち堪えられるものなら、そして理性がヘーゲルのあとでもなお、壮大な哲学の伝統がそうだったように理論、真理、体系といった強力な概念に固執するか、あるいは理性自身を放棄するかの二者択一を迫られているのなら、それに応える理性批判は根本的な次元を実際に据えなくてはならないだろうし、その場合には自己言及性のパラドクスを免れることはほとんど不可能だろう。ニーチェにはそう思われたのだ。そして不幸なことにハイデガーやアドルノそしてデリダまでもが、哲学のなかに維持されてきた普遍主義的な問題設定と、その答を与えると主張してきた哲学の自己の地位に対する自負とを混同しているようだ。だがこうした哲学の自負はとうに取り下げられてしまっている。現在の考え方によれば、普遍主義的な問い――たとえば発言の合理性によって必要な条件、コミュニケーション的行為と議論の一般的語用論的前提などに関する問題――の射程が、普遍的な発話の文法形態に必ず反映していると見ることができるのは明らかだ。すなわちその問題の射程は、普遍的な問いやその理論的枠組みに必要とされる妥当性の無制約性や「究極的な根拠づけ」の無制約性という形で現れてくるのではない。諸科学がもっている可謬主義的な意識はもう哲学にも引けをとらないところまで達している。
(近代の哲学的ディスクルスP371)





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ハーバーマスのポストモダン評 その1 [メモ]


 メモ。

 いずれにせよ、われわれの考察の到達地点からは、なぜハイデガー、アドルノ、デリダがこうしたアポリアに陥ってしまったのかということが見えてこよう。彼らはちょうどヘーゲルの最初の弟子たちの世代がそうだったように、まだ「最後の」哲学の陰に生きているかのような仕方で抵抗を続けている。彼らは、もうすでに150年以上前もの過去のものとしての「強力な」概念、つまり理論、真理あるいは体系という概念に対して抗争を仕掛けている。彼らはなおも哲学を、デリダが「哲学の心の夢」と呼んだものによって目覚めさせねばならないと考えている。そしてさまざまな言説を包括する、閉じた、最終的な体系は、自分自身から語り出すような言葉によって表されねばならない、と考えている。そうした言葉は一切の注解を必要とせず、また一切の注釈を許さないような言葉だ。それによって無限に繰り返される解釈の集積としての作用史は終息する。このような連関でローティーはある特定の言葉の要求について次のように述べている。「そうした言葉は注釈を受けつけず、解釈を必要とせず、あとの世代によって距離を取られることも、また嘲笑されることもありえない。それは本質的な、そして最終的には自己明証的な言葉で、われわれがいままでに獲得したもっともわかりやすい、そしてもっとも豊かな言葉でさえ果しえなかったものだ」(ローティ1982)
(近代の哲学的ディスクルスP370)




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ハーバーマスのデリダ評 その3 [メモ]


 メモ、原註の続き。

 これに対してパウロによるキリスト教は、キリストの直接的な現前における「生ける精神」の方を重要視して、口承によるトーラの解釈史を「死せる文字」(第二コリント書3・6)とみなしてその価値を認めていない。パウロは、キリストの啓示の「ことば(Logos)」を重視せずに文字に固執して「書物」を捨てようとしないユダヤ人を非難している。「デリダが西洋の論理中心主義に対抗すべく文字をとろうとしているのは、ラビの解釈学のずらされた形での再-現だ。デリダはギリシア・キリスト教神学を破棄して、われわれを存在論からグラマトロジーへと、存在からテクストへと、そしてロゴスからエクリチュール-文字へと連れ戻そうとしている」。こうした連関において非常に重要なのは、デリダはハイデガーと異なって、不在で剥奪されているがゆえに力を及ぼす神というモティーフを、ヘルダーリンを介して伝えられたロマン派によるディオニュソス思想の受容から引いてきてはいないという点だ。つまり彼はアルカイックなモティーフとして唯一神信仰に対抗させようとはしていないという点だ。むしろデリダは、神の不在が積極的な意味をもつモティーフをレヴィナスを介したユダヤ教の伝承から取ってきている。「不在なるホロコーストの神、顔を隠す神、それがレヴィナスにとっては逆説的にもユダヤ教の信仰の条件となっている。したがってユダヤ教は不在の神への信頼だと規定される」。こうした事情によってデリダにおける形而上学批判は、当然のことながらハイデガーとは異なった意味を獲得する。その場合に脱構築の作業は、それとは明示されてはいなくとも神とのディスクルスを革新するためのものとなる。この神とのディスクルスは、存在論神学が拘束的な力をもたなくなってしまった近代の諸条件もとで途絶えてしまった。もしそうならば、デリダが意図しているのはアルカイックな源泉に立ち戻ることによって近代を超克することではなく、存在論神学によって守られた神とのディスクルスの継続を不可能にするような、ポスト形而上学的な近代の思考を生み出す諸条件を特別に考慮することだ。
(近代の哲学的ディスクルスP368)






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ハーバーマスのデリダ評 その2 [メモ]


 メモ、前回引用文に付された原註より。

 このような解釈についてはスーザン・ハンデルマンの論文によって裏打ちされたと考えている。彼女の論文は本書を記した後に(J・カラーの指摘によって)知ることになった。S・ハンデルマンはデリダが(レヴィナスについてのエッセイのなかで)「トーラを神よりも愛するということは、聖なるものとの直接的交わりからくる狂気を防ぐものだ」というレヴィナスからの興味深い引用を使っていることを指摘し、デリダがラビ伝承と、特にその伝承のカバラによる異端的な先鋭化の傾向と似ている点を強調している。「(レヴィナスの)見解はきわめて顕著なラビ主義だ。トーラ、律法、文書、語る神、それらは神そのものよりも重要だ。デリダとユダヤ教の異教的解釈学はまさにそれを行っている。神を捨て、トーラや文書や律法を不滅なものとし、それらは特有の形でずらされ、曖昧なものとなっているということができよう」。S・ハンデルマンはまた、口承のトーラが重要視されるために、神の言葉のオリジナルな伝承の価値が低く見なされるという点についても言及している。つまりトーラは追放の歴史を通して次第に権威を獲得していき、最終的には圧倒的な権威を占有することになるという状況だ。「それゆえに、後のラビたちの解釈は、モーゼのトーラと同じように神から与えられた起源をもつものだとされる。ラビたちの解釈は、デリダの言葉を借りていえば、<つねにそこに>あったものだ。それゆえに人間による解釈や注釈は神から与えられた啓示の一部をなすものとなる。テクストと注釈の関係は流動的なもので、そこに聖なるテクストを考えるのが困難なほどだ。しかしこの流動性こそが、現代の批判的理論――特にデリダの場合に――の核心をなす見解だ」。ちなみにハンデルマンは、デリダが西洋の論理中心主義を音声中心主義だとして否定する態度を、宗教史のコンテクストのなかに――つまり精神に対して文字を守ろうとするようなコンテクストのなかに――位置づけているが、もっともなことだと思う。デリダはユダヤ教の護教論のなかに座を占めている。
(近代の哲学的ディスクルスP367)




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ハーバーマスのデリダ評 その1 [メモ]


 メモ。

 デリダはハイデガーを越えんとしている。しかし幸いなことに彼はハイデガーほどの誤りに陥っていない。神秘的な経験が、ユダヤ教とキリスト教の伝承のなかでその起爆力を、つまり制度と教義を危うくするような起爆力を培うことができたのは、こうした経験がその伝承の脈絡のなかで、ただ一人の隠れた神、しかも世界を超越する神を拠り所としてきたからだ。この凝縮した光源から遮断されてしまった啓示は、独特な形で焦点をぼかされて散乱してしまう。そうした啓示が徹底的に世俗化されていった過程のいきついたさきが、あのラディカルな経験の領域、アヴァンギャルド芸術が切り拓いたあの経験の領域だ。そしてまさにこの、エクスタシーに陥り忘我に陥った主体性の、純粋に美的な陶酔こそが、ニーチェにとって思考の方向を定めるうえでの出発点となっている。ハイデガーはこの世俗化の過程の道半ばにして立ち止まっている。というのも、彼は方向性を失ってしまった照明の力を保持しようとしているが、その世俗化の帰結として払うべき代償を払ってはいないからだ。それゆえに彼は、聖なるものを喪失したアウラを弄んでいる。啓示は存在神秘主義の様相をとって魔術的なものに退化してしまっている。新異教主義的な神秘主義においては、非日常的なものが日常性との境界を越えて放つカリスマ性から、美的領域におけるように何らかの解放をもたらすものも、また宗教のように何らかの革新的なものも生まれてはこない。そこから出てくるのは、せいぜいペテンの魅力だ。そしてデリダがしていることといえば、存在神秘主義を唯一信仰の伝承の脈絡に引き戻すことによって、このペテンの魅力から浄化しているだけだ。
(近代の哲学的ディスクルスP323)





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主と奴の弁証法 その6 [メモ]


 メモ。

 [大切な点について補足を加えておくと]このような反省に達するためには一般に恐怖と奉仕という二つの契機と形成とがぜひとも必要で、しかも両方共が普遍的な仕方でなされなければならない。もし奉仕と従順というしつけがなかったならば、恐怖は形式的なものにとどまり、定存在の意識された現実[召使の自己意識]にまで拡がりはしない。形成がなければ恐怖は心の中にあるだけでもの言わず、意識は自己自身と対面するにいたらない。[しかし、逆に]意識が第一の契機の絶対的な恐怖なしに形成行為をなすときには、その意識はたんに空虚な我意にすぎない。というのは、そのときその意識のあり方ないし否定性は否定性自体[本来の否定性]ではないからだ。したがってその形成行為によってはその意識は自分を本質的存在[自覚的独立存在]と知ることはできない。絶対的恐怖を耐え忍んだのではなく、二三の不安に耐えしのんだという場合には、否定的本質[絶対的否定性=自覚的独立存在]はその意識の外にとどまり、その意識の実体はその否定的本質よって徹底的に染められるということはない。その意識の自立的な意識を満たしている内容がすべて揺らぐのでない場合には、その意識は本質的にいまだに規定された存在の世界に属している。そのときの我が意とは我意で、いまだに召使状態にとどまる自由だ。そのときには純粋な形式はその意識の本質となりえない。また、純粋な形式は個別を越えた拡がりとして普遍的な形成となり絶対的な概念となるべきなのにそうなっておらず、二三のものを支配するだけで万物を支配せず、全対象世界を支配することのない技術みたいなものになっている。(※)

※最後の文について牧野註を、オモシロいのでここに残しておく。

この補説の眼目は、真の自覚的独立存在にとっての絶対的恐怖=完全な自己否定の必然性だ。自己意識一般について考えても、いわゆる自我の目覚めは死の必然性(自分はいつか死ぬということ)をどれだけ直視するかということと関連している。しかしここでは、主人と召使の関係において、他人の意志を体して労働する人間が自分の自立性を自覚するにいたる過程での絶対的恐怖の必然性だから、自己意識一般の自覚における死の自覚に還元はできないだろう。はっきりいうならば、賃労働なり勤労大衆なりにさらに広く社会人が賃労働者階級の立場に立つ=社会的自己意識をもつ過程における絶対的恐怖の必然性の問題だ。ここで問題は、その過程における絶対的恐怖とはどのようなものなのか、それはその社会的自己意識の形成にとって本当に必要なのか、という二つだ。このような自覚のない労働なり形成(能力)は普遍的な意味をもたず、自分がこの世で保身をはかったり出世したりするための「技術」にすぎないとは、あまりにも鋭い洞察ではあるまいか。

(未知谷第二版牧野訳P350)





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主と奴の弁証法 その5 [メモ]


 メモ。

 [今までのことをまとめると]召使の意識が主人のなかに自覚独立存在を見たとき、それは他なるものだった。あるいは自覚独立的存在はただ召使の意識の向う側にあっただけだ。恐怖を感じたとき、自覚的独立存在は[召使の向う側からこちら側に移ってきて]召使の意識と一体となっていた[が、まだ対称的に自覚されていなかった]。形成することによって[はじめて]、自覚的独立存在は召使の意識自身のものとなり召使の意識の対象となり、召使の意識自身が絶対的なものだと自覚されるにいたる。つまり、形式は[召使によって]作り出されることによって召使の意識の他者ではないということが召使の意識自身に意識される。というのは、その形式は召使の純粋な独立存在で、その独立存在は形式のなかに定立されることで[主観的な確信から客観的な]真理になるからだ。かくして召使の意識は労働のなかでは他者の意を実行しているように見えたが、実際にはその労働によって自分を介して自己を再発見し、それによって自分の意[我が意]となる。

(未知谷第二版牧野訳P349)






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主と奴の弁証法 その4 [メモ]


 メモ。

 しかし、形成行為は、それによって奉仕する意識の純粋な独立存在が存在世界に形成される[召使の人格が対象化される]という肯定的な意味を持っているだけではない。それは、その意識の第一契機として恐怖に対する否定的な意味をも持っている。すなわちものを形成することによってそれを形成する意識が自己の否定性、つまり自分が自覚的独立存在だということを対象のなかに確認するのは、ただその意識が目の前にある形式を止揚することによってだが、この対象の側にある否定的なもの[否定されるべき形式]は、かつてその意識[召使]がその前で震えたところの他なる実在[主人の化身]だ。そこで今やその意識[召使]はこの他なる否定態を破壊し、自己をそのようなものとして存続するものの世界[対象的世界]のなかへと定立し、よってもつて自分が自覚的独立存在だということを自覚するにいたる。

(未知谷第二版牧野訳P348)





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