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ハーバーマスのデリダ評 その2 [メモ]


 メモ、前回引用文に付された原註より。

 このような解釈についてはスーザン・ハンデルマンの論文によって裏打ちされたと考えている。彼女の論文は本書を記した後に(J・カラーの指摘によって)知ることになった。S・ハンデルマンはデリダが(レヴィナスについてのエッセイのなかで)「トーラを神よりも愛するということは、聖なるものとの直接的交わりからくる狂気を防ぐものだ」というレヴィナスからの興味深い引用を使っていることを指摘し、デリダがラビ伝承と、特にその伝承のカバラによる異端的な先鋭化の傾向と似ている点を強調している。「(レヴィナスの)見解はきわめて顕著なラビ主義だ。トーラ、律法、文書、語る神、それらは神そのものよりも重要だ。デリダとユダヤ教の異教的解釈学はまさにそれを行っている。神を捨て、トーラや文書や律法を不滅なものとし、それらは特有の形でずらされ、曖昧なものとなっているということができよう」。S・ハンデルマンはまた、口承のトーラが重要視されるために、神の言葉のオリジナルな伝承の価値が低く見なされるという点についても言及している。つまりトーラは追放の歴史を通して次第に権威を獲得していき、最終的には圧倒的な権威を占有することになるという状況だ。「それゆえに、後のラビたちの解釈は、モーゼのトーラと同じように神から与えられた起源をもつものだとされる。ラビたちの解釈は、デリダの言葉を借りていえば、<つねにそこに>あったものだ。それゆえに人間による解釈や注釈は神から与えられた啓示の一部をなすものとなる。テクストと注釈の関係は流動的なもので、そこに聖なるテクストを考えるのが困難なほどだ。しかしこの流動性こそが、現代の批判的理論――特にデリダの場合に――の核心をなす見解だ」。ちなみにハンデルマンは、デリダが西洋の論理中心主義を音声中心主義だとして否定する態度を、宗教史のコンテクストのなかに――つまり精神に対して文字を守ろうとするようなコンテクストのなかに――位置づけているが、もっともなことだと思う。デリダはユダヤ教の護教論のなかに座を占めている。
(近代の哲学的ディスクルスP367)




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