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主と奴の弁証法 その3 [メモ]


 メモ。

 しかし、一般的に絶対的な威力[死]を感じることも、または個別的に奉仕のなかでそれ[恐怖の感情]を実行することも、まだ潜在的な解消にすぎない。たしかに主人を怖れることは知恵の始まりだが、主人を怖れているときには意識自身と向き合っているがそれを[自己として]自覚した存在にはなっていない。しかし[個別的な奉仕の]労働を媒介とすることで意識は自分自身に到達する。たしかに主人の意識における欲望に対する契機[召使における労働]のなかには、[主人の欲望においては物が非本質で主人が本質だったのと反対に]物が本質で奉仕する意識[労働する意識]の方こそ非本質という関係があるように見えた。[また、たしかに]欲望は対象を純粋に否定し、それによってまじり物のない自己感情をものにしたが、この満足はまさにそのために[対象を否定したがために]消失するものでしかなかった。つまり欲望の満足には対象的な面ないし自立という面が欠けている。それに対して、労働は制止された欲望で延期された消失だ。あるいは労働は[対象を]形成するものだ。したがって、[労働という]対象に対する否定的な関係は対象の形式のなかに現れ、存続するものとなる。なぜならまさに労働する者に対してこそ対象は自律性を持っているからだ。この否定的な中項ないし形成行為は同時に個別だ。すなわちそれは意識の純粋な顕在態で、それがいまや労働のなかで意識のなかから存続[存在]の契機のなかへと歩み出た。かくして労働することによって意識は自立した存在[形成された対象]を自分自身と観ることができるようになる。

(未知谷第二版牧野訳P347)





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主と奴の弁証法 その2 [メモ]


メモ。

 この純粋な自覚的独立存在という契機は、また、召使の意識に対面してもいる。というのは、[先にも述べたように]この契機は召使の対象の主人のなかにも与えられているからだ。

 さらに、召使の意識はこの万物の解消一般だけではない。それはこの万物を解消するということを奉仕のなかで実行しもする。奉仕することによって、召使は自然なあり方への囚われ方をひとつひとつの契機においての除き去り、自然的なあり方に働きかけてそれを取りのける。

(未知谷第二版牧野訳P347)





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主と奴の弁証法 その1 [メモ]


 メモ。

 最初は召使にとっては主人が本質だ。だから、自立し自覚して存在する意識は召使の真理だが、それは召使に対面して向う側にあるだけで、いまだに召使の身において顕現していない。しかし[さらに考え直してみると]実際には、召使はこの純粋否定性と自覚的独立存在という真理を自分自身の身につけて持っている。というのは召使はこの本質を自分の身において経験しているからだ。それはどういうことかというと、召使の意識はあれこれの個々の事柄やあれこれの個々の瞬間に関して不安を抱いたのではなく、自分の存在全体に関して不安を抱いたということだ。つまり召使の意識は死という絶対的主人に対する恐怖を味わった。死の恐怖を感じたとき、召使の意識はその全内面が打ち壊され、自己内で徹底的にふるえ、召使の意識のなかにあって確固としていたものはすべて震撼せしめられたのだった。しかるに、この万物の純粋な運動[純粋意識のなかでの運動]、つまりすべての自立したものが無条件に流動化されることは、自己意識の単純な[唯一の]本質で、絶対的な否定性で、純粋な自覚的独立存在だ。だからこの純粋な自覚的独立存在はこの召使の意識の身に顕現している。

(未知谷第二版牧野訳P346)





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精神現象学 序言 第6パラグラフ [メモ]


 山口誠一訳が第6パラグラフまでをカタマリとしているので、念のため、その箇所をここに残しておこう。

 メモ、牧野訳第二版、訳注省略。

 [ところで]私は、真理の真のあり方はこの「科学的なこと」にあると言い、同じことだが、真理の存在する本来の地盤はただ概念のみだと主張したが、これが巷間にかくも流布し大きな顔をしている或る考え方及びそこからの帰結と矛盾することは承知の上だ。だからこの矛盾について説明しておくことは余計でもないように見える。もっともそういう説明をしてみたところで、そういう説明はこの序言での説明だという限り、その説明の際に批判される相手と同様、断定的なものでしかありえないのだが。つまり、[私の言いたいことは、近時流行のロマンチークの主張のことで、彼らは]真理は絶対者の直観とか直接知とか、あるいはまた宗教とか存在(それも神の愛の中心に存在することでなくして、神の愛の中心自身の存在)と呼ばれるものの中にしか存在しないとか、あるいはそういうものとしてしか存在しない[と、主張している]が、そこから同時に帰結されることは、哲学の叙述に必要なものは概念の形式[概念という形式]ではなく、むしろその反対のもの[直観等々]だということだ。絶対者は概念で理解されるのではなく、感じられ直観されるべきものだ、というのだ。絶対者の概念ではなく、それの感触と直観が幅を利かせ高唱されるべきだ、というのだ。

(P38)





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精神現象学 序言の序言9 [メモ]


 メモ、牧野訳第二版、訳注省略。

(第5パラグラフ)
 [さて、以上のようなわけで、序言で本論の目的や一般的結論や他の哲学との違いを述べるのは不都合に見えるのだが、しかし実際には、それも書き方次第で必要かつ有意義になりもする。というのは以下のようなわけだ。そもそも]真理が現存する真の形態は真理を叙述した「科学という体系」でしかありえない。[そして]私が本書で目指したものは、[ほかでもなく]哲学が体系的な科学というあり方に近づくことに寄与すること、言い換えるならば、哲学が「知への愛」というその名前を脱却しえて「実際の知」になるという目的に近づくことに寄与することだ。[しかるに]知が体系的な科学にならなければならないという内的必然性というものは知の本性の内にあるのだから、その内的必然性を十分に解明するには哲学を実際に叙述すること以外にな[く、それは本論の仕事であって序言の仕事ではな]い。しかし、知が体系的な科学にならなければならない外的必然性は、個人的動機といったものを度外視して一般的に考察するならば、その内的必然性と同じものだ。すなわちその外的必然性とは、内的必然性の諸契機が時間の内に現れたものだ。したがって、哲学[単なる知への愛]が体系的な科学[実際の知]に高まるときが来ていることを[序言で]示すなら、それはこういう目的を持つ試みの正当性を示す唯一正しい方法だろう。なぜなら、時間[時代=歴史]がこの目的の必然性を示すだろうから、いやそれどころか、その目的を同時に実行しもするだろうからだ[したがって、私はこの序言で近時の哲学界の情況を一般的に捉えて、その時が来ていることを示そうと思う]。

(P35)






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精神現象学 序言の序言8 [メモ]


 メモ、牧野訳第二版、訳注省略。

(第4パラグラフ)
 [もっともそのような評価を下す能力にはそれなりの意味もあり、個人の精神的成長過程を考えてみると、個人が自我に目覚めて]実際に埋没した生活の直接性[無反省]から抜け出すこと、つまり教養の始まりというのは、[社会的に確立されている]一般的な原則や、一般的な観点を[他人から学んで]知り、また[自分でも]事柄についての[自分の]考えというものをとにかく初めて持てるようになることを以て始まる。それはまた、[その他人から学んだ]一般原則などを[自分で考えて、「だから正しいのだ」と]根拠づけたり、逆に[「~だから、これは間違っている」と]否定したり、[それらの一般的原則の持つ]充実した具体的で豊かな内容を[思考]規定を使って[きちんと]捉え、それについてしっかりと判断を下すことができるようになることでもある。しかし、この教養の始まり[つまり、自分の頭で考え判断するようになること]は、まずは、現実生活の厳しさにとって代られる。そして、この厳しさは[個人に]まさに事柄を経験させることになるのだ[しかし、この時でも自分の頭で考え、判断を下すことが無意味になるわけではない]。更にまた[それより高い段階に進んで]概念の厳しさが付け加わって事柄の深みに達するようになった時にも、このような[一般的原則についての]知識と[自分の頭で]評価を下す能力とは、日常会話の中に然るべき位置をもち続ける[だから私は、主観的評価能力を低く見るからといって、それは無意味だと言うのではないことをお断りしておく]。

(P34)






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精神現象学 序言の序言7 [メモ]


 メモ、牧野訳第二版、訳注省略。

 同様に、[ある事柄の他の事柄との]差異とは[その事柄自身ではなく]むしろその事柄の限界[その事柄を限界づけるもの]だ。差異は事柄の終わるところにある。あるいは差異は事柄でないものだ[だから、自分の哲学は他の哲学との違いを序言で説明するのは不都合に見える]。

 したがって、ある著作の目的や結論についてあれこれ言ったり、他の著作との違いについて云々したり、あれこれの哲学に評価を下したりすることは、大へんな事のように思われているのだが、[実際は]それほど大変な仕事ではない。というのは、そういう仕事は事柄[自体]に関わり合わずにそれを飛び越してしまう行為で、事柄のなかに留まって我を忘れる代わりに、事柄以外のものに目を向け、事柄の許に没頭するよりむしろ自分自身の許にいることだからだ。

 内実のある確かなものについて[良いとか悪いとか主観的断定的に]評価することはもっとも易しいことだ。それを[客観的傍観的に]捉えることはそれよりは難しい。両者[主観的断定的な評価と客観的傍観的理解]を結びつけて、内実あるものを「叙述する」ことこそ最も難しいこと[最も大切なこと]だ[だから、他の著作との違いを述べ、他の哲学を評価するようなことを序言に書くのは不都合に見える]。

(P32)






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精神現象学 序言の序言6 [メモ]


 メモ、牧野訳第二版、訳注省略。


(第3パラグラフ)
 [そういう説明を序言に書くことが不都合に見えるもうひとつの理由としては]そのような説明をしてほしいという要求やその要求に応えることが、何か本質的なことをしていると思いこまれやすい[ということだ]。[そういう要求をしたりする人々に言わせると]哲学的著作の関心が何かということは、それの目的や結論以外のどこによりよく表現されうるのか、またその目的や結論は、同時代の他の人々がその分野で産み出した著作との違いを示す以外のどのような手段によっていっそう明確に認識されるのか、というわけだ。[たしかにそういう説明にも意味はあるが]しかし、そういうことが認識の出発点以上のものとされ、それが認識そのものだと思いこまれると[それは困ったことになる]、そういうのは実際、事柄自身を回避しながら事柄について真面目に苦労しているかのように見せかけつつ実際の苦労は省く手品というべきだ。

 というのは、事柄というのはその目的[結果]において尽きているのではなく、その実現[過程]のなかでこそ尽きていて、結果は[それだけでは]本当の全体ではなく、その生成[過程]と一体になった結果にして[初めて]全体だからだ。目的はそれだけでは死んだ普遍で、傾向はたんに「~したい」という気持ちにすぎず、そこにはまだ実際の結果が欠けている。[逆に]結果はそれだけでは傾向[つまり出発点と過程]を背後に置き去りにした屍だ。

(P31)






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精神現象学 序言の序言5 [メモ]


 メモ、牧野訳第二版、訳注省略。

 [これを草花の成長の例で説明すると]芽から花が咲くとき、芽は消え去るから、芽は花によって否定されるということもできよう。同様に、花から実がなることによって、その花は植物のニセのあり方だったことになり、花の真理として花に代わって実が現れるわけだ。[このように芽、花、実という]三つのあり方は互いに区別されるだけでなく、相容れないものとして排除しあってもいる。しかし、それらのあり方の流動的[弁証法的]本性から見ると、それら三つのあり方は同時に[植物という]有機的統一[単位・全体]の契機で、[その植物の契機としては]その統一の中で見れば、それらの三つのあり方は互いに矛盾しないどころか、どれもみな必然的なものだ。そして、この三つが共に必然的だということがまさに[植物という]全体的なものの生命をなしている。[このように哲学体系の違いも哲学の必然的な諸段階と捉えるべき]だが、哲学体系に対する矛盾はこのようには捉えられないのが普通だ。その矛盾を[矛盾しているという]一面だけから見るのを止めて、自由に捉え[その本来の発展的な関係から見]、争いあい対立しあっているように見えるものの中に相互に必然的な契機を認識することのできるような人は、一般的に少ない[だから、序言で他の著作との違いに触れるのは不都合に見えるのだ]。

(P30)






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精神現象学 序言の序言4 [メモ]


 メモ、牧野訳第二版、訳注省略。

(第2パラグラフ)
 次に、[序言で]同じ対象を扱った他の労作と自分の著作とはどういう関係にあると思っているかをはっきりさせること[がなぜ不都合に見えるかというと]、そうすると、[読者に]余計な興味を呼び起こさせ、真理の認識の際の核心的な事柄がぼやけてしまうからだ。[というのは]普通の考えでは真と偽との対立は[固定したものだという考えが]根強いので、普通の人々は或る他の哲学体系[と自説との違いを述べると、その哲学体系]について賛成か反対か知ろうとし、その哲学的体系について説明しても[すぐに]賛成か反対かを見ようとする[からだ]。[つまり]普通の人々はいろいろな哲学体系の違いを真理の前進的発展とは理解しないで、その違いの中に矛盾しか見ない[これが、先に「余計な興味」と言ったことだ。なぜなら、哲学にとっては、様々な哲学を真理認識の発展の諸段階と取ることが必要だからだ]。

(P30)





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精神現象学 序言の序言3 [メモ]


 メモ、牧野訳第二版、訳注省略。

 更に[解剖学のような]知識のそのような寄せ集めにすぎないようなもの(それは科学の名に値しないものだが)では、[序言での]目的やそういった一般的なことがらについての雑談と、[本論で]神経、筋肉、等々といった内容自身を扱う時の記述的で没概念的なやり方とが違わないのが普通だが、これに反して哲学では、そういったやり方を[助言で]使うと、[本論での哲学的認識なり叙述方法との]くいちがいが生まれ、そのやり方では真理を捉えることができないということが哲学自身[本論]によって示されてしまうことになるだろう[だから、序言の中で、一般的結論を記述的にまとめることは、内容からいっても、方法=形式からいっても、哲学書の目的に反するように見える]。

(P29)




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精神現象学 序言の序言2 [メモ]


 メモ、牧野訳第二版、訳注省略。

 また[なぜそれは不適当で目的に反しさえするように見えるかというと]哲学というものは、本質的に、特殊を自己内に含む普遍をその本来的地盤としているものだから、目的あるいは最終的結論の中で事柄そのものが表現され、しかもその全き本質において表現されているのであって、それに比すれば[その結論への]遂行[過程]はもともと非本質的なものだという間違った外観が、哲学では他の諸科学における以上に発生しやすい[ので、序言に本論の一般的結論を書くと、本論は要らないと考えられるかもしれないからだ]。これに反して[他の諸科学では]、例えば解剖学とは生体の諸部分をその死んだあり方で観察して得られた知識だ、といったような一般的観念を得たからといって、[そういう最終結論だけで]事柄そのもの、つまり解剖学の内容を知ったわけではなく、その上に更に特殊[細々とした知識]を知ろうとしなければならないことは常識になっている[ので、他の諸科学の本でなら、序言にその本の一般的結論を書いても目的に反するということはないように見えるからだ]。

(P28)





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精神現象学 序言の序言1 [メモ]


 メモ、牧野訳第二版、訳注省略。

(第1パラグラフ)
 著者が意図した目的や出版するに至った動機や、同じテーマを扱ったこれまでの他の諸著作と自分の本はどういう関係にあると思っているか、といったことを、序言の中で予め書いておくことが習慣になっているが、そういうような説明は哲学者の場合には余計に見える。いや、それどころか、不適切で目的に反しているようにすら見える。というのは、哲学について序言の中で何をどのように言ったらよいのかと考えてみると、まあ[自分の哲学の]傾向とか立場とか、あるいはその本の概括的な内容とか結論とかを記述的に[箇条書き的に]報告するか、真理について[その本の]あちこちで言われている主張や断定を[これまた箇条書き的に]まとめるといったことくらいだろうが、そういったやり方を哲学的な真理を叙述する方法とみなすことはできないからだ。

(P27)




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主体の解任(あるいは理性の狡智) [メモ]


 メモ。

 ヘーゲルにおいて行為に関して根本的に問題となるのは、それゆえ、それが最終的には必然的に失敗するということではない(すべての意図された意味をかき乱す[壊乱=転倒する]<他者>の干渉によって、誰も十分に、その内的な企てを外在化し、間主観的な現実性の様態に重ね合わせることはできない)。そうではなくて、むしろその正反対だ。完全に成功した行為(「その概念に対応した」行為)は破滅をもたらすだろうということだ。たとえば、自殺(完成した自己対象化、主体の、モノへの変化)であれ、狂気に陥ること(<内>と<外>との「ショート」、それら二つのあいだの無媒介的な等号、つまり、私の<心情>の<法>を<世界[世間]>のそれと(誤って)認識すること)であれ。いいかえるならば、主体が彼の行為を生き延びさせようとするなら、彼はその行為が最終的に失敗するように組織することを余儀なくされる。「指で十字をつくって[罰が当たらないように]」それを遂行する。その行為に全面的に同一化するのを避けて、それが公言していた目標goalをかき乱す入り組んだ全体組織の中に書き入れる。そのようにして、失敗に見えたものが実際にはその本当の目的aimとなるようにする。

(否定的なP65)




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個別性と普遍性の和解 [メモ]


 メモ。

 『エクリ』で、ラカンが個人と社会のあいだの関係という手垢にまみれた問題を解いてみせるのは、ヘーゲル哲学のまさにこの契機へのエレガントな参照を通じてだ。精神分析理論はわれわれにそれら[個人と社会]のあいだの「和解」――<個>と<普遍>のあいだの媒介作用――を、それらのどちらをも貫いているこの分割において、理解することを可能にしてくれる。いいかえるならば、この問題は、われわれが、個人であれ社会であれ、そのどちらか一つでも、有機的で自分自身のうちに閉じた<全体>だと考えることに固執していかぎりでは、解くことはできない。解決へと向かう第一歩は、社会的<実体>を横切る分割(「社会的敵対」)を、主体を構成する分割(ラカンの理論では、主体は正確に、「個人[分割-しえないもの]」ではない何か、分割しえぬ<一者>ではない何かで、分裂を通じて構成されるもの、斜線を引かれただ)へと関係づけることだ。<普遍>と<個別>の「和解」を、それらをそのただ中で切断し、そうすることによって結合するこの分割のうちに位置づける、このようなヘーゲルの読みは、また、独我論とコミュニケーションの(異なる主体のあいだ、あるいはもっと一般的なレヴェルでは、異なる文化のあいだでの)永遠の問題に解答を与えるものでもある。独我論的な仮定において問われずにすまされているのは、個人なり社会なりに前提されている自己閉鎖性だ。いいかえるならば、コミュニケーションはもっとも根源的にその可能性を掘り崩すかに見える特性によって可能となる。私は<他者>とコミュニケートすることができる、私は彼(あるいはそれ)に対して「開かれている」、それは私がすでに私自身において分割され、「抑圧」の烙印を押されているかぎりにおいてで、正確にただそのときにかぎる。つまり(いささか素朴で、感傷的ないい方をするなら)私はけっして私自身との真のコミュニケーションを行うことはできない。<他者>とは、根源的に[そもそもの起源において]私自身の分割の、脱中心化された<別の場所>だ。

(否定的なP62)

 このロジックを先に進めていくと、晩期に強調される自閉症的な主体においては、斜線を引かれたでない限り「普遍」を望めないため、症候(サントーム)を通じてのみ「普遍」(のようなもの、の方向へ)と接続を試みるしかない。





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