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主と奴の弁証法 その6 [メモ]


 メモ。

 [大切な点について補足を加えておくと]このような反省に達するためには一般に恐怖と奉仕という二つの契機と形成とがぜひとも必要で、しかも両方共が普遍的な仕方でなされなければならない。もし奉仕と従順というしつけがなかったならば、恐怖は形式的なものにとどまり、定存在の意識された現実[召使の自己意識]にまで拡がりはしない。形成がなければ恐怖は心の中にあるだけでもの言わず、意識は自己自身と対面するにいたらない。[しかし、逆に]意識が第一の契機の絶対的な恐怖なしに形成行為をなすときには、その意識はたんに空虚な我意にすぎない。というのは、そのときその意識のあり方ないし否定性は否定性自体[本来の否定性]ではないからだ。したがってその形成行為によってはその意識は自分を本質的存在[自覚的独立存在]と知ることはできない。絶対的恐怖を耐え忍んだのではなく、二三の不安に耐えしのんだという場合には、否定的本質[絶対的否定性=自覚的独立存在]はその意識の外にとどまり、その意識の実体はその否定的本質よって徹底的に染められるということはない。その意識の自立的な意識を満たしている内容がすべて揺らぐのでない場合には、その意識は本質的にいまだに規定された存在の世界に属している。そのときの我が意とは我意で、いまだに召使状態にとどまる自由だ。そのときには純粋な形式はその意識の本質となりえない。また、純粋な形式は個別を越えた拡がりとして普遍的な形成となり絶対的な概念となるべきなのにそうなっておらず、二三のものを支配するだけで万物を支配せず、全対象世界を支配することのない技術みたいなものになっている。(※)

※最後の文について牧野註を、オモシロいのでここに残しておく。

この補説の眼目は、真の自覚的独立存在にとっての絶対的恐怖=完全な自己否定の必然性だ。自己意識一般について考えても、いわゆる自我の目覚めは死の必然性(自分はいつか死ぬということ)をどれだけ直視するかということと関連している。しかしここでは、主人と召使の関係において、他人の意志を体して労働する人間が自分の自立性を自覚するにいたる過程での絶対的恐怖の必然性だから、自己意識一般の自覚における死の自覚に還元はできないだろう。はっきりいうならば、賃労働なり勤労大衆なりにさらに広く社会人が賃労働者階級の立場に立つ=社会的自己意識をもつ過程における絶対的恐怖の必然性の問題だ。ここで問題は、その過程における絶対的恐怖とはどのようなものなのか、それはその社会的自己意識の形成にとって本当に必要なのか、という二つだ。このような自覚のない労働なり形成(能力)は普遍的な意味をもたず、自分がこの世で保身をはかったり出世したりするための「技術」にすぎないとは、あまりにも鋭い洞察ではあるまいか。

(未知谷第二版牧野訳P350)





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