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ハーバーマスのデリダ評 その1 [メモ]


 メモ。

 デリダはハイデガーを越えんとしている。しかし幸いなことに彼はハイデガーほどの誤りに陥っていない。神秘的な経験が、ユダヤ教とキリスト教の伝承のなかでその起爆力を、つまり制度と教義を危うくするような起爆力を培うことができたのは、こうした経験がその伝承の脈絡のなかで、ただ一人の隠れた神、しかも世界を超越する神を拠り所としてきたからだ。この凝縮した光源から遮断されてしまった啓示は、独特な形で焦点をぼかされて散乱してしまう。そうした啓示が徹底的に世俗化されていった過程のいきついたさきが、あのラディカルな経験の領域、アヴァンギャルド芸術が切り拓いたあの経験の領域だ。そしてまさにこの、エクスタシーに陥り忘我に陥った主体性の、純粋に美的な陶酔こそが、ニーチェにとって思考の方向を定めるうえでの出発点となっている。ハイデガーはこの世俗化の過程の道半ばにして立ち止まっている。というのも、彼は方向性を失ってしまった照明の力を保持しようとしているが、その世俗化の帰結として払うべき代償を払ってはいないからだ。それゆえに彼は、聖なるものを喪失したアウラを弄んでいる。啓示は存在神秘主義の様相をとって魔術的なものに退化してしまっている。新異教主義的な神秘主義においては、非日常的なものが日常性との境界を越えて放つカリスマ性から、美的領域におけるように何らかの解放をもたらすものも、また宗教のように何らかの革新的なものも生まれてはこない。そこから出てくるのは、せいぜいペテンの魅力だ。そしてデリダがしていることといえば、存在神秘主義を唯一信仰の伝承の脈絡に引き戻すことによって、このペテンの魅力から浄化しているだけだ。
(近代の哲学的ディスクルスP323)





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