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ハーバーマスのポストモダン評 その3 [メモ]


 メモ。

 しかしこの可謬主義をとるからといってわれわれは、哲学者の場合にも、またとりわけ哲学以外の研究者の場合にも、決して真理性請求を断念しているわけではない。当事者の発話遂行的な態度においてこの真理性請求が掲げられるのは、その請求が――あくまでも請求として――空間と時間の制約を越えるという場合のみだ。とはいえ一方でわれわれは、真理性請求のために、いつでも通用しうる白紙のコンテクストなどないことを知っている。真正性請求はその時々のいま、ここで掲げられうるもので、批判に対して開かれている。それゆえにわれわれは、真理性請求が明日には、そして別の場所では修正されてしまうような、きわめて日常的な可能性があることを予測している。私自身は、哲学はなお合理性の護り手、つまりわれわれの生活形態の内にある理性の要求の護り手だと考えている。しかし実際の仕事にあたって、私の考えているような哲学は、強い言明を行っても、弱い地位の請求しか行わないという、二つの態度の組み合わせを尊重する。この組み合わせには全体主義的な要素がないために、これに対して全面的な理性批判が向けられる必要もない。
(近代の哲学的ディスクルスP372)





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