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ハーバーマスのポストモダン評 その1 [メモ]


 メモ。

 いずれにせよ、われわれの考察の到達地点からは、なぜハイデガー、アドルノ、デリダがこうしたアポリアに陥ってしまったのかということが見えてこよう。彼らはちょうどヘーゲルの最初の弟子たちの世代がそうだったように、まだ「最後の」哲学の陰に生きているかのような仕方で抵抗を続けている。彼らは、もうすでに150年以上前もの過去のものとしての「強力な」概念、つまり理論、真理あるいは体系という概念に対して抗争を仕掛けている。彼らはなおも哲学を、デリダが「哲学の心の夢」と呼んだものによって目覚めさせねばならないと考えている。そしてさまざまな言説を包括する、閉じた、最終的な体系は、自分自身から語り出すような言葉によって表されねばならない、と考えている。そうした言葉は一切の注解を必要とせず、また一切の注釈を許さないような言葉だ。それによって無限に繰り返される解釈の集積としての作用史は終息する。このような連関でローティーはある特定の言葉の要求について次のように述べている。「そうした言葉は注釈を受けつけず、解釈を必要とせず、あとの世代によって距離を取られることも、また嘲笑されることもありえない。それは本質的な、そして最終的には自己明証的な言葉で、われわれがいままでに獲得したもっともわかりやすい、そしてもっとも豊かな言葉でさえ果しえなかったものだ」(ローティ1982)
(近代の哲学的ディスクルスP370)




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