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ハーバーマスのデリダ評 その3 [メモ]


 メモ、原註の続き。

 これに対してパウロによるキリスト教は、キリストの直接的な現前における「生ける精神」の方を重要視して、口承によるトーラの解釈史を「死せる文字」(第二コリント書3・6)とみなしてその価値を認めていない。パウロは、キリストの啓示の「ことば(Logos)」を重視せずに文字に固執して「書物」を捨てようとしないユダヤ人を非難している。「デリダが西洋の論理中心主義に対抗すべく文字をとろうとしているのは、ラビの解釈学のずらされた形での再-現だ。デリダはギリシア・キリスト教神学を破棄して、われわれを存在論からグラマトロジーへと、存在からテクストへと、そしてロゴスからエクリチュール-文字へと連れ戻そうとしている」。こうした連関において非常に重要なのは、デリダはハイデガーと異なって、不在で剥奪されているがゆえに力を及ぼす神というモティーフを、ヘルダーリンを介して伝えられたロマン派によるディオニュソス思想の受容から引いてきてはいないという点だ。つまり彼はアルカイックなモティーフとして唯一神信仰に対抗させようとはしていないという点だ。むしろデリダは、神の不在が積極的な意味をもつモティーフをレヴィナスを介したユダヤ教の伝承から取ってきている。「不在なるホロコーストの神、顔を隠す神、それがレヴィナスにとっては逆説的にもユダヤ教の信仰の条件となっている。したがってユダヤ教は不在の神への信頼だと規定される」。こうした事情によってデリダにおける形而上学批判は、当然のことながらハイデガーとは異なった意味を獲得する。その場合に脱構築の作業は、それとは明示されてはいなくとも神とのディスクルスを革新するためのものとなる。この神とのディスクルスは、存在論神学が拘束的な力をもたなくなってしまった近代の諸条件もとで途絶えてしまった。もしそうならば、デリダが意図しているのはアルカイックな源泉に立ち戻ることによって近代を超克することではなく、存在論神学によって守られた神とのディスクルスの継続を不可能にするような、ポスト形而上学的な近代の思考を生み出す諸条件を特別に考慮することだ。
(近代の哲学的ディスクルスP368)






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